帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百四十七〕いみじうしたてゝ婿とりたるに

2011-12-07 00:05:13 | 古典

  



                                             帯とけの枕草子〔二百四十七〕いみじうしたてゝ婿とりたるに



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百四十七〕いみじうしたてゝ婿とりたるに

 
 たいそうな支度をして婿を取ったのに、間もなく住まなくなった婿が、舅に出会っている。いとおしとやおもふらん(気の毒だと思っているのでしょうか…いやだなあと思っているのでしょうか)。

或る男がたいそう時流に乗っている人の婿になって、たゞ一月(唯ひと月…ただの一つき)ばかりも、はかばかしく通って来ずに止めてしまったので、皆ひどく言い騒いで、女の乳母などは、まがまがしきことなど(禍よ災いごとよなど…不吉だ縁起が悪いことよ)と言う者がいるとき、その明くる年の正月に、婿が・蔵人になった。「あさましう、かゝるなからひには、いかでとこそ人は思たれ(嘆かわしい、このような間柄なのに、どうしてと女は思っているよ)」などと言って噂にするのは、婿は・聞くでしょうよ。

六月に舅が八講(法会)をなさっている所で、人々集まって、説法を聞いていたところ、蔵人になった婿が、れうの(綾織の…この時の為に用意した)表の袴、黒半臂など真新しく鮮やかな服装で、見捨てた女の車の後の、とみのをという物にはんぴのをゝ(車のとみの尾という突き出たとこに半臂の緒を…急な男というものに短いおのこを)引っかけんばかりにして居たのを、女はなんと見るでしょうと、車の人々も、事情を知っているかぎりは、気の毒がっていたが、他の人々も「つれなくゐたりし物かな(気も咎めずによく居たものかな…連れだつことなく射たものよなあ)」などと、後にも噂した。

猶おとこはものゝいとほしさ人の思はんことはしらぬなめり(やはり男は、何んともいえない愛おしさ、女の思いというものは知らないようね…汝お、おとこ、ものの愛しさ、女の思うことは感知しないのかしらね)。


 言の戯れと言の心

「いとおし…いとほし…気の毒に思う…同情している…嫌だなあと思う…厭わしいと思う」「れう…綾…綾織…料…その為の用品」「とみのを…車のながえが後方に突き出た短い部分…疾みの男…(飽きの)早い男…(尽きるのが)急なおとこ」「はんぴ…半臂…短い衣…短いこころ」「衣…身や心を包むもの…心身の換喩」「を…緒…男…おとこ」「ゐたり…居た…射た…放った」「猶…なお…やはり…汝お…君のおとこ」。



 『枕草子』は、戯れる言葉を御して、「心におかし」と思わせつつ、なまなましい人間模様を描いてある。
 これは、和歌の表現方法と同じである


 伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 
原文は、岩波書店 新日本古典文学大系 枕草子による。