帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百五十九〕関白殿(その二)

2011-12-21 00:15:28 | 古典

  



                                            帯とけの枕草子〔二百五十九〕関白殿その二



  言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。


 清少納言枕草子〔二百五十九〕関白どの


 そうして、二月・八、九日ごろに里へ退出するのを、「いま少し当日に近くなってからにね」などと仰せられるけれど退出した。数日経て、とっても、いつもよりも、のどかに日の照っている昼ごろ、「花の心ひらけざるや、いかに、いかに(花の心は開きませんか、どうですか、どうですか…草花の心とけて・お花の心は開きませんか、開きましたか、どうですか)」と、おっしやっているというので、「秋はまだしく侍れど、よにここのたびのぼる心ちなんし侍(秋はまだ・期はまだ熟しておりませんが、世に九度、御前に参上する心地がですね、いたしております…まだ飽き満ち足りませんが、お花は心開き、夜に九度、山ばの頂きへ・のぼる心地がですね、いたしております)」と、使者に伝えて・お聞かせした。


  白氏文集十二、「九月西風興、月冷霜華凝、思君秋夜長、一夜魂九升。二月東風来、草拆花心開、思君春日遅、一日腸九廻(九月、西風興る、月冷え霜華凝固、君を思い秋の夜長し、一夜に魂九度昇る。二月、東風来り、草ほころびて花心開く、君を思い春の日遅々、一日腹わた九たびめぐる……ながつき、飽き風おこる、月人おとこ冷え霜のお花凝縮、君を思い秋の夜長し、一夜魂九たびのぼる。きさらぎ、心に春風吹けば、女とけて、おとこ花心を開く、君を思い春の日ゆるゆる、一日はらわた九たびものの山ばをめぐる)」。男の言葉も聞き耳異なるもの。「月…壮士…おとこ」「草…女」「花…木の花…おとこ花」「花の心…男(夫)  の心」「升…昇…浮天に昇る…山ばに登る」「九…十分ではないが多い回数」「腸…心…はらわた…心の底」「廻…めぐる…くりかえす」。

 
 二条宮に宮が・退出された夜(二月一日の事)、車の順序もなく、先に先にと女房たちの乗り騒ぐのが気にいらないので、同じ思いの人と、やはり、この車に乗る様子がたいそう騒がしく祭りの斎宮御かえりの日のように、先を争って倒れてしまいそうに惑う様子がたいそう見苦しいので、ただそれなら、乗るべき車が無くて参ることができなければ、おのずからお聞きになられて、車を賜わせもされるでしょうと言い合わせて立っている。その前より押し合いへしあいして惑い出て、女房たち乗り果てて、「かうこ(こうして来い…これで最後)」というので、「まだし、ここに(まだよ、此処に・残って居る)」と言ったものだから、宮の司が寄って来て、「たれたれおはするぞ(誰々がいらっしゃるのか……だらだらしていらっしやるよ)」と、とひきゝて(詰問して)、「まったく不審なことですよ、今はみな乗り終えておられるだろうとですね思っていました。これはどうしてこのようにお遅れになられたのです。今は、得選(選ばれた女官)を乗せようとしていたのに、珍しいことですな」などと驚いて、車を寄せるので、「それなら先に、その御心ざしあらんを(そのお心に思うのを…その思いおありらしい人を)ですね、お乗せなさいませ。私共は次ぎに」と言う声を聞いて、「変にひどく意地悪くていらっしることよ」などと言うので、その車に乗った。次ぎに来る車はまさに御厨子所(宮中の食事を司る所)の車だったので、灯火もたいそう暗いのを笑って、二条の宮に参り着いたのだった。

 御輿は早くに入っておられて、調度など整えさせていらっしゃった。「(少納言を)ここに呼べ」とおっしゃったそうで、「どこ、どこ」と右京、小左近ら若い女房たちが待っていて、参る人々ごとに見たけれども居なかったのだ。降りるにしたがって、四人づつ御前に参り集って控えているときに、「怪しい、いないのか、どうしたの」とおっしやっていたのも知らず、ある限り降り果てて、かろうじて見つけられて、「こんなに仰せになっておられますのに、遅いのは」と言って私どもを引き連れて参るときに見れば、いつの間に、このように数年もおられるお住まいのようにして、すでにいらっしゃるのだろうと、をかし(すばらしい…おかしい)。

 「どうしてこう、居ないのかと尋ねるまでに、姿見せなかったの」と仰せられるのに、あれこれでと私は申さないので、共に乗って来た人「まったくどうしょうにも、最果ての車に乗ってございます人は、どうして早く参れるでしょう、それも、御厨子(女官)が哀れだと思って、譲ってくれたのでございます。暗かったし、わびしかったです」と詫び詫び申し上げると、「行事するものゝいとあしきなり。又などかは、心しらざらん人こそはつつまめ、右衛門などいはむかし(行事の次第を手配する者が悪いのです。それにどうして、事情を知らない人は包み隠すでしょうが、右衛門などは・不手際があれば、言うものでしょう・どうして言わないの)」と仰せられる。右衛門「されど、いかでかははしりさいだち侍らん(そうですが。この人たち・どうして走って真っ先に参ろうとしないのでしょう)」などと言う。傍らに居る人は私どもを憎いと思って聞いているようだ。宮「さまあしうて、たかうのりたりとも、かしこかるべきことかは。さだめたらんさまのやむごとなからんこそよからめ(様子醜く、高貴に・違えて、乗ったとしても、賢いはずがあろうか。定めてある様式の貴いのが良いことでしょう)」とおっしやって、そうしたげにお思いになっている。

 「おりはべるほどのいとまちどをに、くるしければにや(先を争うのは・降りるときが待ち遠しくて苦しいからでごさいましょうか…くるまが後ですと・お降りになる間が待ちどうしくて、女は・苦しいからでしょうか)」とは、私が・申し直す。

 
 
お経の事で、明日、積善寺御堂に・お渡りになられるということで、今宵、里より・参上した。南の院の北面で、覗いたところ、数ある高坏に火を灯して、二人、三人、三、四人と思いを同じくする人が、屏風を引き立てているのもあり、几帳などで隔てているのもある。また、そうせずに、集まって居て、衣など綴じ重ね、裳の腰(飾り紐)さし、化粧するさまはいまさらいうまでもない。かみなどいふもの(髪など結う者…髪などと言う物)、明日より後はこの世に在り難いのだろかと見える扱いぶりである。とらの時になんわたらせ給べかなる。などか、いままでまゐり給はざりつる。あふぎもたせて、もとめきこえつる人ありつ(午前四時ごろにですね、宮は・お渡りになられるようですよ。どうして今まで参られなかったの。扇・逢う気、を持って、何か求めておっしゃっている男がいました)」と告げる。そして、まことに寅の時かと装束整えていると、夜も明け果て日もさし出た。(嘘ごとだった。やはり憎まれているらしい)。

 西の対の唐廂にさし寄せて、車に乗るべしということで、渡殿へ女房全員行く間に、まだ初々しい今参りなどは慎ましい様子をしているときに、西の対に殿がお住まいになっておられるので宮もそこに居られて、先ず女房たちを車に乗せられるのをご覧になられるということで、御簾の内に、宮、淑景舎、三、四の君、殿の上、その御弟三人、立ち並んでおられる。車の左右に、大納言殿(伊周)と三位の中将(隆家)、お二人で簾をうちあげ、下簾をひきあけて女房たちを乗せられる。うち群れてさえ居れば、少しは隠れ所もあるのに、四人づつ書き立てたものに従って、「それ、それ」と呼びだして乗せられるので、歩み出す心地よ、まことに情けなくて、「あらわである」というのは世の常のことで・それどころではない。御簾の内に、その数ある御目の中に、宮が見苦しいとご覧になられるほど、それより情けないことはない。汗がでてくるので、つくろひたてたるかみなども、みなあがりやしたらんとおぼゆ(繕いたてた髪なども皆、ばらばらに離れるのではないかと思える)。かろうじて過ぎて行くと、車のもとで気後れするほどすばらしい御様子で、ほほ笑んで見ておられるのも現実ではない。それでも、倒れないでそこまで行ったのは、かしこきかおもなきか思ひたどらるれ(しっかりしているのか厚かましいのか思いはめぐる…賢い行いだったか臆面もなかったかと反省している)。


 「かうこ…斯う来…このように来い(命令形)…斯う期…かくして期」「こ…ご…期…期限…末期…最後」「車…しゃ…者…もの…おとこ…くる間」「(髪が)あがる…上がる…あかる…ばらばらになる…離れる…付け髪がはずれる」「思ひたどらるれ…思いはめぐる…反省している…様式を定め、名を呼ばれて乗ることになったのは、先を争って乗ったことをばらしてしまった結果で、おおかたの女房には憎まれ、たいへんなことになったと反省している」。

 
 みな乗り果てたので、ひき出して、二条の大路で、車の長柄を・しぢ(台)に掛けて、祭り見物する車のように並んで駐車している。いとおかし(とってもおかしい)。人もそのように見るだろうと、心ときめきせらる(心がわくわくしてくる)。四位、五位、六位の人々たいそう多く出入りし、車のもとに来て、取り繕いものなど言っている中に、明順の朝臣(宮の伯父)の心地は空を仰ぎ胸を反らしている(手順、次第は、宮のご意向とこの方の考えでしょう)。


 先ず、女院のお迎えに、殿をはじめたてまつりて、殿上人、地下の人などもみな参った。それ(女院ご一行)がお移りなられて後に、宮はお出になられるだろうということなので、たいそう待ち遠しいと思っている間に、日がさし昇ってからいらっしゃる。御車(女院)と共に十四、五台は尼の車。一の御車は唐車である、それにつづく尼の車の後ろ口より水晶の数珠、薄墨の裳、袈裟、衣、とってもすばらしくて、簾はあげず、下簾も薄色の裾が少し濃い。次に女院つき女房の車十台、桜の唐衣、薄色の裳、濃い衣、香染、薄色の表衣など、いみじうなまめかし(たいそう鮮やかである)。日はとってもうららかだけれど、空は緑にかすんでいるときに、女房の装束が艶めきあって、たいそうな織物、色とりどりの唐衣などにより、艶かしく趣のあること限りなし。
関白殿、その次々の殿たち、いらっしゃる限り、かしずいて、女院ご一行をお渡ししてさしあげられるご様子、とっても愛でたい。これをまず拝見させていただき、愛でさわぐ。われらが・この車二十台が並べてあるのも、またをかしと見るらんかし(またすばらしいと、人々は・見るでしょうよ)。

 宮は・いつお出になられるのだろうと、お待ち申しあげているのに、とっても久しい。どうなっているのだろうと、じれったく思っていると、やっと、采女八人を馬に乗せて、ひき出てくる。青裾濃の裳、裙帯、領布などが風に吹きやられている、いとをかし(とっても趣がある)。「ふせ」という采女は、典薬の頭の重雅が情けを交わしている人であった。えび染めの織物(禁色の織物)の指貫をはいていたので、「重雅は色ゆるされにけり(禁色を許されたことよ…色事許されたのだな)」など、山の井の大納言(伊周らの異母兄弟)が、わらひ給ふ(お笑いになられる)。
 女房たちみな乗り、連なって駐車しているときに、今ぞ、御輿がお出ましになる。愛でたいと拝見していた、女院の・御有様には、これはやはり、比べるべきではないことよ。朝日がすっかり昇るときに、なぎの花(御輿の金属製の飾り)がたいそう際立って輝いて、御輿の帷子(絹製の布)の色艶の清らかささえ、いみじき(たいそう・すばらしい)。御綱を張っておでましになる。御輿の帷子が揺れているところは、まことに御輿の頭の毛などと人が言う、決してそら言ではない。さてのちはかみあしからん人もかこちつべし(そして見た後は、私のような・髪の悪い人が愚痴り嘆くのでしょう)。御輿は驚くほど威厳に満ちて、やはりどうして、このような御方に馴れ馴れしくお仕えしているのだろうかと、我が身も立派に思えてくる。御輿が過ぎて行かれる間に、女房の車のしち(長柄台)を一斉に外して(礼して)、また牛どもにそれをただ掛けに掛けて、御輿の尻に続いていく心地、愛でたく趣ある様子、いふかたもなし(言いようも無い)。


 原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。