(前回の続き)
「できない子の気持ちが分からない先生」
体育の研究会だったので,体育の授業を思い返していました。
自分で言うのは何ですが,しかし実際の話,私は運動ができます。
小さいころから,今も。
体操も,ボールも,水泳も,一通りできました。
こないだも6年生の体育の授業「跳び箱」で,サッとハンドスプリングをやってみせたら,
「おぉ~!」
と,子どもたちから歓声が上がりましたが,私には難しいことではありません。
こんな言い方したら嫌味っぽく聞こえるでしょうが,実際そうなんです。
これについて何も自慢するつもりはありません。
こんな私が体育の授業をすると,当然,どんな授業も一通り「見本」らしいものを見せることができるし,いろんな技能について解説やアドバイスをすることもできます。
子どもたちには
「先生,教えてください!」
「先生すごーい」
と,体育の授業でよく言ってもらえるし,それは私にとってはいつしか当たり前の光景になりました。
私にとっての体育の授業とは,そんなものになりました。
自分が運動ができることは,体育の授業をする上で,役に立つことで,幸いなことだと考えていました。
しかし,今回の話を聞いて,自分の体育の授業を,ある種の違う視点から振り返ることになりました。
運動ができることのよさでなく,運動ができてしまうための欠点があるのではないか。
例えば水泳で全く泳げない子がいたとします。
必ずと言っていいほど,クラスには存在しますね。
そんな子たちの泳げない姿に最初出会ったとき,私は
(何で泳げないのかな~)
って思っているような気がします。
自分が泳げない経験がないから,泳ぐことは自分にとって簡単なことだから,冷たいようですが,やっぱり自然と,そう思ってしまうんです。
もちろんそんなこと口にも顔にも出しはしません。
ですが,私のその子たちへの指導はそこからスタートしてしまうんです。
このことについて,今まで疑問を感じることはありませんでしたが,今回,初めて感じました。
すっかり「まずい指導」をしてしまっているんじゃないだろうか。
(おっと,いつもより早起きした娘がまた私のひざの上に来てしまいました。)
すみません,また続きは次回