先日、送別会がありました。
本校でも数名の先生たちとお別れです。
その席で、卒業式のことも話題になりました。
私的に、「涙が出なかった卒業式」で、そのことに驚きがあり、あれはどういうことだったのかと、いろいろと自分の中で解釈してみようと試みているところです。
このブログにも書いています。
「いい卒業式だったね~」
「感動的だったよ~」
「さすが、あの学年の子どもたちだったな~」
お酒も入っている席だし、みんな上機嫌でたくさんほめてくれました。
ある先輩先生に、私はストレートに話してみました。
「先生、でもね、ぼく涙が出なかったんです。あの卒業式で。今年だけ。それがなぜか自分でもよく分からなくて・・・」
すると、その先生から
「あぁ、それはきっと」
と、すぐに返ってきました。
「先生は、もっと上をめざしていたということ
なんじゃないの?」
この言葉には、はっとさせられました。
あの卒業式に対して、自分はそんなこと考えたこともなかったからです。
でも、あのクラスに対してはどうだっただろうか・・・・
「もっと上をめざしていた」
そんな部分があったかもしれないと、正直に振り返ります。
生徒指導上もなんのトラブルもなく、学力的にも高いものがあるクラスでした。
6年生として大変立派だと評価されていました。
私としても、とても「やりやすい」1年を過ごさせてもらったのですが、じゃあ、私がこのクラスに求めた本当の姿というのは、これだったのか?
いや、できるなら、もっと高い次元に到達させてあげたかった。
そんな思いが胸をよぎります。
それがどんな次元なのか、明確にできないところに、私の担任として未熟さがもろに露呈してしまうわけですが。
明確にできない理由は、それ以上のクラスをこれまでにもったことがなく、私のそばにも見たことがなかったからだと思います。
思えば、1年を通して、
「これでいいのか」
という自問自答に何度も悩まされた場面があったように思います。
授業での一つの発問に対する、子どもたちの反応。
クラスの重要な場面でA君がBさんに投げかけたあの一言。
そんな小さな小さな場面において、「もっと上を」めざせるのではないかと、悩むことの連続でした。
子どもたちは全力を出していたと思います。
今もっている力で、6年生を立派にやり遂げたと思います。
問題は私の働きかけです。
でも、分かりません。
「上をめざせたかも」というだけで、本当に上に行けたかは。
が、あの先生が指摘してくれたように、卒業式に涙が出なかった理由として、「ベストを尽くした」と思えていない部分が私の中にあるとすれば、それはまたまたさびしいことだと言えると思います。
しかし考えてみれば、6年生に限らず、卒業式に限らず、子どもたちを受け持つ時はいつも「これでいいのだろうか」「もっと上をめざせるかもしれない」という疑問と向き合うのがこの仕事です。
なかなか「ベストだった」と言える学級形をできる1年はないのかもしれません。