小学生攻略法

このブログも10年目。久しぶりに担任復帰です。

卒業式について、他の先生の指摘でドキッと

2013-03-30 22:37:00 | 教師力UPの攻略法

先日、送別会がありました。

本校でも数名の先生たちとお別れです。

その席で、卒業式のことも話題になりました。

私的に、「涙が出なかった卒業式」で、そのことに驚きがあり、あれはどういうことだったのかと、いろいろと自分の中で解釈してみようと試みているところです。

このブログにも書いています。

「いい卒業式だったね~」

「感動的だったよ~」

「さすが、あの学年の子どもたちだったな~」

お酒も入っている席だし、みんな上機嫌でたくさんほめてくれました。

ある先輩先生に、私はストレートに話してみました。

「先生、でもね、ぼく涙が出なかったんです。あの卒業式で。今年だけ。それがなぜか自分でもよく分からなくて・・・」

すると、その先生から

「あぁ、それはきっと」

と、すぐに返ってきました。

「先生は、もっと上をめざしていたということ

なんじゃないの?」

この言葉には、はっとさせられました。

あの卒業式に対して、自分はそんなこと考えたこともなかったからです。

でも、あのクラスに対してはどうだっただろうか・・・・

「もっと上をめざしていた」

そんな部分があったかもしれないと、正直に振り返ります。

生徒指導上もなんのトラブルもなく、学力的にも高いものがあるクラスでした。

6年生として大変立派だと評価されていました。

私としても、とても「やりやすい」1年を過ごさせてもらったのですが、じゃあ、私がこのクラスに求めた本当の姿というのは、これだったのか?

いや、できるなら、もっと高い次元に到達させてあげたかった。

そんな思いが胸をよぎります。

それがどんな次元なのか、明確にできないところに、私の担任として未熟さがもろに露呈してしまうわけですが。

明確にできない理由は、それ以上のクラスをこれまでにもったことがなく、私のそばにも見たことがなかったからだと思います。

思えば、1年を通して、

「これでいいのか」

という自問自答に何度も悩まされた場面があったように思います。

授業での一つの発問に対する、子どもたちの反応。

クラスの重要な場面でA君がBさんに投げかけたあの一言。

そんな小さな小さな場面において、「もっと上を」めざせるのではないかと、悩むことの連続でした。

子どもたちは全力を出していたと思います。

今もっている力で、6年生を立派にやり遂げたと思います。

問題は私の働きかけです。

でも、分かりません。

「上をめざせたかも」というだけで、本当に上に行けたかは。

が、あの先生が指摘してくれたように、卒業式に涙が出なかった理由として、「ベストを尽くした」と思えていない部分が私の中にあるとすれば、それはまたまたさびしいことだと言えると思います。

しかし考えてみれば、6年生に限らず、卒業式に限らず、子どもたちを受け持つ時はいつも「これでいいのだろうか」「もっと上をめざせるかもしれない」という疑問と向き合うのがこの仕事です。

なかなか「ベストだった」と言える学級形をできる1年はないのかもしれません。


卒業式で泣かなかった理由は… これか?

2013-03-26 21:33:18 | 教師力UPの攻略法

かわいい教え子の卒業式に、涙が流れず、自分でも驚いているところです。

学級担任以外の校務が大きくなり、仕事のバランスが以前と変わった

それも事実です。

10年前に6年生をもったときは、ほぼ校務は担任のみでした。

自然と自分が仕事にそそぐエネルギーの全てがそこにいくわけです。

しかし、経験を重ねるごとに他の校務をいろいろと背負うことになりました。

今年は、大きいものは研修主任。

秋に大きな研究公開をしました。

もちろん、そこにも大きなエネルギーをそそぎました。

経験を重ねるごとに、学級担任にかけるエネルギーの割合が減り、他の校務にかけるエネルギーの割合が増える。

これは避けられないことだと思います。

「担任という仕事が第一だ!」

「目の前にいる子どもが一番だ!」

それは確かにそうですが、担任という仕事にいつも自分の100%をそそぐべきだという意見は、それが正解に聞こえるものですが、実際、仕事にかけられる自分のエネルギーというのは限界があります。

その限界の中で、自分の受け持つ仕事にエネルギーの配分をしなきゃいけないのが仕事人です。

それは辛いこともあります。

自分がやりたい仕事だけに熱意を込めたいという希望もあるのですが、組織で働いている以上、自分の役目は果たさなくてはいけません。

そういうものです。

今回のことが理由で卒業式に涙が出なかったとするなら、それは私にとってはさびしいことです。

担任という仕事に対して考えるならば、やはりどうしてもネガティブな印象が残るからです。

でも、経験を重ねるごとに分かってきます。

いろんな校務を経験することが、担任という仕事にも磨きをかけることになるんだということ。

知恵がつき、視野が広くなり、教員としての資質が高まりますから。

だから、単純にさびしさだけを感じるのではなく、少し前向きに考えてみようと思います。

10年前の自分に、熱意では負けるのかもしれないけど、担任としての力量はきっと勝っているはずだ。

以前より、器の大きい担任になれているはずだ。

卒業式に涙が出なかったのも、より大きな気持ちで子どもたちを見ることができていたからだ。

…そう思うことにします。


なぜ卒業式で涙が出なかった?

2013-03-24 22:48:47 | 教師力UPの攻略法

「クラス単位より子ども単位で学級を見るようになった。」

そう思います。

なぜか。

考えてみると、色んな背景があるように思えます。

1番には、

以前ほど、クラスを「自分のもの」ととらえなくなった。

ことが挙げられます。

10年前。

クラスは私の全てでした。

クラスこそ私の仕事場であり、クラスこそ私の仕事の結果が表れる場でした。

「〇年〇組担任」

その肩書きが強烈に自分を奮い立たせ、そのクラスづくりに全力を尽くし、そのことが、「クラスは自分のもの」という意識をどんどん強めていったように思います。

だからこそ、クラスにガンとした理想を掲げ、クラスが乱れることが許せませんでした。

当初は

「仲がいいクラス」

という理想を拠り所にして、そのためなら何でもする、しなきゃいけない、してもいいと思い込んでいました。

そして今年。

クラスは「自分のもの」ではなくなっていました。

クラスを構成する一人一人は、それぞれに歩んできた道がある。

そして、これから先の未来をまたそれぞれに歩んでいくものだ。

この6年生学級は、一人ひとりの長い人生の中における、わずか1年間の集団生活。

その中でできることは限られているし、同時にしなきゃいけないことは確実にしなきゃいけない。

「仲がよくなること」ばかりに時間や労力を使ってはいられないはずなんです。

個々の子どもに学力的なよさや課題がある。

生活面や人間性のよさや課題もある。

この1年では、そういった個性に必要な働きかけをしていくことが必要だ。

そのときに、このクラスという集団は、個性を伸ばすために利用する一つのツールになる。

いつしか、私はそんな視点で学級経営をするようになっていたように感じます。

そういう視点で担任をするようになったとき、クラスを強烈に一つの理想のような枠でくくることに、無理を感じていたのかもしれません。

じゃあ、なぜ私がこんな視点を持つようになったのか。

一つは経験でしょう。

10年とは決して長くはありませんが、それなりに私もいろんな子たちを見て、クラスを見て、仕事をしてきました。

そうする中で自然と身についた視点です。

もう一つは、私も人の親になったということでしょう。

ここ2年ほどの間に、初めて私にも子どもができました。

いわゆる「親心」が私にも芽生えてきました。

我が子の成長を心から願うとともに、そんな親から預かっている教え子たちの成長を願うその視点も、自然と変わってきました。

さらにもう一つは、今年受け持った子達の実態です。

なんどかブログにも書きましたが、本当に頼もしい六年生でした。

どの専科の先生に言わせてもそうでした。

この集団をまとめるのに、担任が強烈な理想を掲げる必要がなかったのかもしれません。

必要がなかったからしなかったとすれば、それがいいことか悪いことかはまた検証していく必要がありそうですが。

また次回に続けます。


6年生を卒業させて思うこと ~過去の学級との比較1

2013-03-23 22:16:45 | 教師力UPの攻略法

受け持っていた6年生を卒業させました。

卒業式を終えて、担任としてじわじわ感じ出していることを、いくつか書いてみようと思います。

思いつくままに、順不同で。

まず1回目の今日は、「過去との比較」です。

6年生を受け持ったのはこれで何度目かです。

その過去の教え子たちを卒業させた時と、今年とを比べて、何が同じで、何が違うのか。

「子どもを比べるなんてよくない」

という正論が聞こえてきそうですが、子どもを比較するわけではなく、担任としての自分を比較するという意味です。

自分の中で客観的に考え、整理してみたいと思います。

10年近く前、初任校で受け持った6年生。

とにかく熱い学級経営をしていました。

担任は子どもたちの中にどっぷりと入り込み、若いリーダーシップをいかんなく発揮し、これでもかというほど子どもたちをまとめるためのイベントを企画していました。

学級のめざしたところは

「仲のいいクラス」

だったように思います。

その子たちとは先日同窓会で久しぶりに顔を合わせましたが、うれしいことに、今でもみんな「仲良し」でした。

私がめざした学級の姿その通りに、男子と女子の隔てもなく、強いと弱いの差もなく、みんながニックネームで呼び合う温かい雰囲気が、そのまま続いていました。

そして今年の6年生。

学級のめざしたところは

・・・・

「仲のいいクラス」

ではありません。

もちろんそれも大事なものとしていたことに間違いはありませんが、それが究極のゴールだったかというと、違いました。

事実、子どもたちの間には大きなトラブルはありませんでしたが、男子と女子がニックネームで呼び合うような関係はありませんでした。

クラスでまとまるために何か特別なイベントをいくつもするということもしませんでした。

卒業式の様子を比べてみても、

10年前のクラスは、みんな泣いていました。

担任は「泣かせるぞ!」と思っていました。

そして担任も大泣きしました。

今年、泣く子もいましたが、泣かない子もいました。

担任も、うるっとはきましたが、涙は落ちませんでした。

なんか冷たいようですが、事実です。

私も今回、涙が落ちない自分に正直驚きました。

なぜ、涙が出ないのだろう・・・

と、ここまでで考えてみると

10年前の6年生はいいクラスで、いい担任だった。

今年の6年生はそれより劣るクラスで、担任としていまいちだった。

って結論にたどり着きそうですが、そういうことではないのではないかと、今は思えます。

なんというか、うまく表現できないかもしれませんが。

さっきの話、「今年のクラスがめざしところは」の問いに対する答えは、

「将来を力強く生きる子どもを育てる」

だったと思います。

あれ?

これはクラスがめざしたものではありません。

クラスではなく、一人一人の子どものめざしたところです。

うん

まさしく、今年、私はそういう目で子どもたちを見て、指導に当たっていました。

クラス単位より、子ども単位で学級経営に当たるようになった。

私の中の過去の担任と現在の担任の比較は、まずこう言えるようです。

じゃあ、なぜ私が担った6年生担任はそう変わったのでしょうか。

…次回考えてみます

卒業式が一年間の6年生学級経営の結果だと考えるならば、その結果に違いがあるとうことになり、それは

私は10年前と今年で、違う仕事をした

ということになるのでしょうか。。。。


卒業を間近に控え、子どもたちにはいつもと違う様子が…

2013-03-18 22:50:17 | 「教師-子ども」関係の攻略法

受け持つ6年生も、卒業式がもうすぐそこまで来てしまいました。

本当にいい子たちだったなぁ…

専科で入ってもらう先生たちも、いつも声をそろえて

「みんなおりこうさんですね~」

と言います。

学力的にも高く、生徒指導上も年間を通して大きな問題は何もない子たちでした。

当然、私も担任としていい思いをたくさんさせてもらいました。

この子たちとの学級に慣れてしまって、4月から何年生を持つのか知りませんが、どんなクラスを持っても、最初は苦労しそうな気がします。

それくらい、頼もしい子たちでした。

いい卒業式をしてほしいです。

さて

卒業がもうすぐという所に来て、子どもたちもそれを強く意識しているようです。

教室の掲示物をはがしたり、文集が完成したりすると、やはり自然とそうなるのでしょう。

今日は、やたらと教卓の周りにお客さんが多かったです。

10分という短い休み時間に、途方もない話題ではあるのですが、あの子、この子と、やかましいおしゃべりの声が途絶えませんでした。

先生との別れを、惜しんでくれているのかな。

そう思うと、仕事を中断するほどのやかましさも、うれしく感じられました。

いつもくっついてくるメンバーは相変わらずそうなのですが、今日はいつもならそんなところにいないはずの子たちが、いることに気付きました。

6年生ともなると、先生には寄り付かない子も当然いるのですが、そんな子たちも、今日はやたらとそばにいるんです。

そして、だからといって私に直接何かを話しかけるわけでもなく。

仲良しの連中同士でバカな話ばかりしていました。

私のそばで。

いつもにない光景だから、明らかに不自然なのですが、

「何なの?」

なんて冷たい言葉をかける気にはもちろんなりません。

不器用にも、関わりたいのでしょうね。

私は、ただただニヤニヤしながらその子たちのおちゃらけた会話を聴いては、ときどきツッコミを入れたりしていました。

思うに、

この子たちは卒業を間近にして、やっと教卓のそばに来たけど、本当はこれまでにもっと早くここに来たかったのではないだろうか。

担任の先生にもっと関わりたかったし、関わってほしかったのではないだろうか。

私は勝手に

「6年生だから、ある程度距離を取りたがる子たちだっている。この子たちはそっち側の子たちだろうな」

なんて、私なりに気を利かせていたつもりだったけど、それは的外れで、本当は冷たい先生を演じる結果になってしまっていたとしたら…

かわいそうなことをしていたことになります。

考えすぎかもしれませんが、(考えすぎだったらいいのですが)そう思うと、卒業式までの残りわずかな時間に、できるだけこの子たちに、私の方から声をかけたくなりました。

先生と距離をとるからといって、本当に離れたがっているわけではないのかもしれない!

別れ際に気付くなんて、担任としてまだまだですね。