小学生攻略法

このブログも10年目。久しぶりに担任復帰です。

職員会議での決定が、まさかの大逆転

2016-02-22 21:42:41 | 教師力UPの攻略法
前に
「板挟みの教務主任」
というタイトルで記事に書きましたが、それについて今日結果が出ました。
まさかの大逆転でした。
校長が提案して一旦は通ったA案が覆り、反対する先生たちが押したB案が、真の決定となりました。

まあ「まさか」とは書きましたが、私も教務主任です。
会議の場で驚きの決定がされることはほぼありませんし、そんなことが起きるようでは教務主任として頼りないでしょう。
今回の逆転は少し前から分かっていました。
その時点では「まさか」も含まれましたけど。

私は校長側のアシスタントとして、A案を進める環境づくりをいろいろと進めていながら、一方でそれに反対する先生たちから相談を受け、B案を通すためのアドバイスもしていました。

その自分のいやらしい立場に悩んでいたわけですが。

結論、私がしたアドバイスを忠実に実行した先生たちがうれしい結果を得られることになりました。
私がこの先生たちに特に強調したのは
「本当に覆したいのであれば、できるだけ多くの仲間を作れ」
ということでした。
相談や根回しを、多くの人、多くの方面に尽くす。
勝機を得るにはそれに限ると。

それ以降、先生たちはよく動き回っていました。
それは誰の目にも明らかでした。
決め手は、学校の外の関係者まで巻き込んだことでした。
この先生たち、がんばったんですね。
本当に「多くの方面に」手を伸ばしたんです。
これが説得力をもち、校長の気持ちをも変えることに成功しました。

校長は不満げでもありましたが、そこは人格者です。
いじけたり、へそを曲げたりするような人ではありません。
先生たちの思いを受け止め、努力を認め、B案を通してくれました。
それができる校長だからこそ、私も「あちら」サイドへの味方にもなれたという面もあります。

今日の話し合いのあと、廊下でその先生が私にかけよってきて
「先生!ありがとうございます!」
と。
私も立場が立場なので、大声で「やったねー!」とはさすがに言えませんでしたが、
「よかったね、がんばったもんね」
と小声で一言だけ返しました。
普段はそう目立つ役目を果たす先生ではないのに、今回のことだけは粘り強くやり通したことに、私も素直に感心させられました。

私の悩ましい立場はこれで終わり、学校の懸案も解消されてすっきりとはしましたが、一連のことを振り返り、自分が教務主任としてベストな役回りができたのかは不安が残ります。

現場の先生の声を実現してあげられた手応えもあるし、校長を最後までサポートするべき立場なのにそれを降りてしまった無責任さも感じます。

頼られるがままに、「お人好し」になってしまった感が否めなくて、気持ち悪さが残りました。

またいつか、きっと同じような場面に出くわすことはあるでしょう。
そのときは今回のことを教訓に、自分の立ち回り方をじっくりと考えたいと思います。

今年も「あれ」のせいで学校はボロボロ

2016-02-20 21:52:28 | 教師の仕事術の攻略法
本校をボロボロにしているのは、もちろん
「インフルエンザ」
です。

昨日までで学級閉鎖が4クラス。
担任のダウンが2人。


先週は教務主任である私はずーっとこれにかかりっきりでした。
欠席、早退が続出の学級で、担任もダウンし、急きょこの学級を閉鎖することになり、担任の代わりに残りの子たちの全家庭に電話して帰す手続きをとったり…
欠席の連絡が鳴りやまない職員室の電話番に明け暮れたり…

ふー
って感じでした。。。

週が明けた月曜日。
欠席が増えているか減っているか。
先週より悪化するようなら、なおバタバタとしそうです…

しかし、思うのは、こんなときのために、教務主任としていつもフットワーク軽くありたいなということ。

自分が常に多くのことを抱えてて身動きがとれないようでは、いざこんな学校のピンチが訪れたときに役に立てませんから。
学校は今、来年度の教育課程編成の時期で、教務主任はその中心で仕事をしています。
やることは山ほどあります。

だからといって
「すみません、私は教育課程のほうで忙しいですから、そっちはお願いします」
なんてセリフは口が裂けても言いたくありません。

私が担任をしていて、そんなことを言う教務主任がいたら、一切頼りにはしません。

今回も、予測不能でいろいろと対処が難しい問題ではありますが、収まるまで体を張って対応しようと思っています。

やばい。珍しく板挟み状態の教務主任です。

2016-02-15 21:31:03 | 教師力UPの攻略法
「板挟み」とは

…板と板との間に挟まれて身動きできない意から、対立する二者の間に立ってどちらにつくこともできず、苦しむこと

ネット上の国語辞典で調べたらそうでていました。
私、教務主任、今まさしくその状態です。。。

対立する二者とは、「現場の一部の先生たち」と「管理職」です。
よくある構図だとは思いますが。
普段はかなり穏やかに過ごすことができている本校の職員室ですが、そこに珍しくいやな雰囲気が漂っています。

事の発端はこうです。

来年度のある懸案について、校長が職員会議の場でAという案を出しました。
これに対して、ある程度予想はしていましたが、一部の先生が反対を唱えました。
反対に加えて、Bという対案も示しました。
しかし、しばらく議論をした末、流れはAの方へと傾き、結局Aが通りました。
そこで落ち着いたかに見えたのですが、翌日、また一部の先生が陰で声を上げました。
「やっぱりAは認められない」
そして、その先生たちは裏工作に走り出しました。
できるだけ多くの先生に声をかけ、Bを支持する仲間を増やそうとしています。
この動きを校長、教頭も察知しました。
管理職は困っています。

という形です。
こんなパターンも、どこの学校も経験のあることでしょう。
うちとしては珍しいことで、こんな状態にあまり慣れてなく、関わる者は動揺している。
そんな状態です。

そして私、教務主任。

私の関わり方も時系列で並べてみると、
1 この懸案に対して、前もって校長や教頭とともに検討を重ね、A案を作った
2 A案の採用を見込んで、それに関わる学校内の様々な環境を整えた
3 学年主任等を呼び集め、職員会議の前にA案を示し、根回しを図った
4 会議でのA案採用を受け、さらに環境整備を進めた

…と、ここまで何の迷いもなく、私は「管理職サイド」にいて、しかもある程度スムーズにことは進んでいました。
いわゆる教務主任の役目を、卒なくできている感がしていました。
しかし

5 会議の翌日、反対する一部の先生に声をかけられた。「相談したいことがあるんですけど」
話を聞くと「A案は認められない」と。
その理由や対案について、かなり長い時間話を聞きました。
「先生、どうしたらいいでしょうか??」
ついに迫られ、かなり困りました。
思いました。

…こんなに必死な様子で現場の先生が相談してくれているんだから、報いてあげたい。
…でも、学校のことを考えると、A案が妥当だと思うし、会議での決定は守りたい。

ここで私の「板挟み」はスタートしました。

どうしよう?
何て言おう?

「もう無理ですかね?やっぱり私たちじゃ」
そんな風にも言われたので
「いや、そんなことないよ!」
って言っちゃいました。
そして、あくまで自分は教務主任、中立的な立場で全体のバランスをとる役目なんだという柱を貫きながら、
・大事なことだから、あきらめきれないなら声をあげるべき
・できるだけ多くの人を巻き込むことができれば、勝機も出てくる
・もしもう一度話し合う機会がほしいなら、教務主任としてセッティングできなくはない
・校長と対立する形だけは作ってほしくない。校長は学校のためを思って提案している。
「協力できることがあるならするよ」
と伝えました。
相談に来た先生たちは、ホッとした顔をしていました。
その顔を見ると、私も相談に来てくれてよかったと思えました。

が、すぐに我に返りました。
「あのアドバイスでよかったのか???」
案の定、しばらくして校長に呼ばれました。
「なんかAの件で、嫌な動きが出てないか?」
校長はよく現場の情報を私に求めます。
「…みたいですね」
私の目は泳いでいたはず。笑
教頭はもちろん校長サイドなので
「会議で通ったもものを。あとからグチグチ言うなんて…!」
と若干ご立腹。
さすがにこの2人を目の前にして
「私も相談を受けています。先生たちの意見も大事だと感じています。もう一度話し合う機会を持ちませんか」
とは言えませんでした。。。。しょぼい。
校長たちがあの案を苦労して作っているのも知っているし、その結果学校にとって最も妥当性のある案になっていることも理解しています。
その案ができて以降、事を慎重に進め、丁寧に案を通す手順を踏んでいたことも知っています。
そして会議で通ったことを喜んでいたのも知っています。
私もそばで一連のサポートをしていましたから。

「どう思う?」
今度は校長に迫られました。

「…先生たちなりに、来年のことを一生懸命考えてくれているのは分かるんですけどね…」
なんて、中途半端で、ずるい回答しかできませんでした。

それからいくらか3人で話し合い、とりあえず近いうちにもう一度全体でこの懸案については話し合う場をもつことになりました。
私が、どことなくそういう方向に仕向けました。
校長はやっぱり不満そうでしたが。
しかし、3人の意向としては、話し合いの場はもつが、やはりA案でいく。
A案でいくが、反対する人たちの意見をたくさん言ってもらう。
言うことができれば満足してもらえる面もあるかもしれないし、その意見すらカバーする新しいアイディアが生まれれば、なお納得してもらえるだろう。
こういう姿勢です。

私は今、どちら側にもいい顔をしている教務主任になっちゃっています。
なんともやりきれない…
しかし、自分で招いたことですし。

教務主任として管理職のサポートをしながら、反対側では現場の先生たちにそれを翻すためのアドバイスをしている。
なんという奴だ。笑

自分もはっきりとどちら側につくと示せれば楽だし、現場もそのほうが混乱しないのでしょうが、今回、私にはそれができませんでした。
どちら側もがんばってるし、いい人なんですもの。笑
…って、そんな甘いこと言ってるからこうなっちゃうんだって…

はぁ
なんとか誰の傷も深くならず、丸く収まればいいなと思っています。
最後の話し合い場で、両サイドから
「教務主任、結局どうするんだ!?」
なんて詰め寄られたら、どうしよう?笑

子どもが本当に解く「必要性」を感じられる問題を

2016-02-11 20:54:06 | 授業中の攻略法
5年生の算数「割合」
今日は「こみぐあい」を求める学習です。

定員120人で96人乗っている小型飛行機Aと
定員540人で459人乗っている大型飛行機Bでは
どちらがこんでいるか。

お決まりの問題です。
この問題に対して子どもたちの中には、あっさりと
「Aは96÷120=0.8で
Bは459÷540=0.85だから
Bがこんでいる」
とする子が、結構な数いました。

これで正解です。
なぜいきなりこの子たちはこれができるのか。
1つは、前時の学習を生かしているから。
前時には、
「バスケットのシュート成績」ということで「10本中8本入った選手の成績は?」のような問題を考えています。
そこで、「8÷10」を経験しているので、今回も同様に当てはめているのでしょう。
もう1つは、この前時に限らず、これまでの学習で「単位量」の学習を中心に、こういった場面で割り算を適用することの有効性を肌で覚えているんだと思います。
だから、そういった経緯で今回も一応の立式を答えを導いているこの子たちは、この時点で一定の評価はできると思います。
もちろん、ここではこれで満足ではありませんが。

問題はこの式の中身ということになるのは言うまでもありませんが、それはさておき、この子たちにとっては、
「どちらがこんでいるか」
というそもそもの問題は、もう解けているわけで、もうこの問題に対する意欲とか緊迫感とかドキドキ感はなくなっているのは間違いないでしょう。

しかし、この子たちだって、感覚でこう解いただけで、その中身については理解できていません。
だから、こう問い直します。

「じゃあ、出てきた「0.8」とか「0.85」っていうこの数字って、何?」

この瞬間、数秒ですが、シーンとなります。
この静けさも、授業ではたまらないものです。
そしておもむろに口を開きだします。
「…こみぐあいです」
「何ていうか… 平均?」
「違う違う、昨日のシュートの話みたいに、乗客1人あたりの、こみぐあい… あれ?」
こんな感じで、ここに、とてもほどよい「?」が教室中に広がりました。

そこで思いました。
だったら、そもそもの問題は、これの方がよかったんだぁ
「こみぐあいを調べるのに、太郎君は 96÷120=0.8 としました。
すると花子さんが「太郎くん、その0.8って何?」とたずねました。
太郎君は答えに困ってしまいした。
太郎君は何と説明すればよいでしょうか」
こんな感じ、どうでしょう?

もうストレートに、0.8にポイントを絞る問いです。
もちろん、最初の問題でも、こみぐあいを求める中で、0.8の意味を考えはするのですが、それでは少し焦点がぼける恐れがあります。
割り算で答えを導いて満足している子は、そこから先の追究をさぼる可能性があります。
理解の遅い子は、話題があちこち飛んでる感じに聞こえて、混乱するかもしれません。

だから、問題を焦点化します。
子どもたちの反応から、この0.8を考える問題は、おもしろい展開になりそうです。
こみぐあいはあっさり立式した子たちも、この問題には苦戦します。
そして、0.8の意味を解明したいと食いついてきます。
ここに、子どもたちにとっての、問題を解く「必要性」が生まれてきます。
これこそ、いい授業になる大前提となるものです。

解く必要性のある問題に食いついてきた子たちには、その後何を要求しても面白くなります。
自分の考えを伝えたがります。
自然と、算数で重要な数直線や表を駆使して何とか説明しようとする子が出てくるでしょう。
友達の考えを聴きたがります。
友達と話し合いたがります。
簡単に先生の口から答えを聴きたくない、と言います。

そして授業が活性化します。
協働的で、能動的な学習を生む要素がそこにはあります。

教科書の指導書には載っていない展開例です。
だから、自分で発想するしかありません。
大事なことは、どの子たちに対してもこれがうまくいくというわけではないということ。
どんな問題がその子たちにとって解く必要性を感じるかは、もちろんその子たちの実態によります。
だから、それを注意深く見極める目が先生には必要です。
授業の前に見極めて準備をすることができればいいですが、授業の途中で見極めることだってあるでしょう。
今回の私もそうでした。
そういうときに、しらけてしまっている子どもたちを放っておいて相変わらず予定通りの授業を進めるのではなく、柔軟に展開を変えていける力も必要です。

だから授業は難しいし、だから授業は面白い。

改めてそう思えます。



嫌な体育を見ました

2016-02-09 21:45:45 | 授業中の攻略法
とある学校に出向き、そこの授業を参観する機会がありました。
その学校の全クラスが授業を公開していて、どの授業を見てもよいという形でした。
年度末の忙しい時期に、授業を見せてくださった先生方、お疲れ様です。

体育館では3年生だったかな、4年生だったかな、体育の授業で「跳び箱」をしていました。
どんな跳び箱の授業かな、足を運んでみると…

すごく嫌な体育でした。
公開してくれている授業なので、できるだけいいものを見つけるつもりで回っていたのですが、この体育だけは、とても無理でした。

なぜ嫌か。

子どもたちが跳び箱に向かう助走位置のところに列を作っていたのですが、その一列の人数がとても多くて、待ち時間の長いこと長いこと。
これじゃ体育の基本である「運動量の確保」はとても見込めません。
跳び箱がわずか3台しか設置してなかったので、長蛇の列ができたのでしょう。

運動に変な順序がつけられていました。
その先生の進め方では
1 開脚跳びの4段
それができたら
2 抱え込み跳び
それができたら
3 台上前転
というステップを踏ませていました。
設置した3台の跳び箱は、それぞれの場に分けられていました。
でも、これは明らかにおかしい。
跳び箱の運動特性として、そんな順序性はないからです。
支持系と回転系では運動を構成するものそのものが違います。
それに、こんなバラバラなものを次々に跳ばせる授業では、そこに子どもの学びが生じにくいでしょう。
体育の授業が成り立ちません。

そして何より嫌だったのは、先生の言葉でした。
「ちがう!何度言ったら分かるんだ!」
「跳ぶ気で助走してないだろ!」
「○○~ 全然できてない。一個前に戻れ」(台上前転をやめさせて抱え込み跳びに行かせる)
(見学してる子に)「○○~ △△は下手だから、△△が跳ぶときだけは横について落ちないようにしてやって」
こんな心無い言葉が常に響き渡っていました。
ほんの少し体育館にいた私が
「こんなところにもういたくない」
と思ったくらいですから、毎日その授業を受けているあのクラスの子たちの心情を思うと…
かわいそうです。
長蛇の列ばっかりできた場合、普通そこにいる子どもたちはおしゃべりとか遊びだす子がいるものですが、この授業では列の子たちもシーンとしていました。
完全に、先生に対して萎縮していました。
公開授業で、お客さんが見ているにも関わらず、そんな言葉を口にする先生って… 唖然としてしまいました。

は~
なんか久しぶりにここまでの嫌な授業を見ました。
「今でもこんな先生いるんだな」
って思いました。
残念でした。

このブログではいい授業やいい先生を見つけて紹介することはよくあるのですが、珍しく逆を紹介しました。
書いてて気分のいいものではありませんが、あまりにひどかったので…
少しでもこんな授業を減らしていけるようにとの願いをこめて書きました。