湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

河童忌俳句

2023-07-24 06:36:21 | 文学

今日は芥川龍之介の忌日。漱石門で俳句もよくし「餓鬼」という俳号を名乗っていました。享年36歳でした。

季語「河童忌」で4句。

河童忌や小口の金のくすみけり

 小口とは本を開いた時外側にくる部分。芥川龍之介全集の外側に施された金の塗料が褪せている様子を詠みました。

河童忌の川に果実の数多浮き

 龍之介が横須賀線で通勤していた時の体験を基に書いた「蜜柑」。その蜜柑が供物のように川に流れています。

河童忌の死体役Quaxと鳴き

 龍之介晩年の代表作「河童」を戯曲にして上演したら、死んだ河童役が小説「河童」に出てくる鳴き声をうっかり発してしまいました。

唯ぼんやりと餓鬼忌の暮れて総毛立つ

 遺書に書かれた「唯ぼんやりした不安」が自死を企たせたのだとしたらと、日暮に戦慄を覚える心持ち。

↑横須賀の吉倉公園に建つ芥川龍之介文学碑

以下、横須賀市ホームページより

『蜜柑(みかん)』は、芥川龍之介が横須賀の海軍機関学校教官時代、鎌倉の下宿への帰路、横須賀線内でたまたま出会った出来事を題材としています。横須賀駅を出た汽車の中で、二・三等車の区別もわからぬ少女が、自分を見送るため待ちかまえていた弟たちに、窓から蜜柑を投げ与えその労に報いた姿を見て、最初にいだいた不快感から一転明るい感動を覚えたことを作品化したものです。彼は一時期、市内汐入580・尾鷲梅吉方(現・汐入町3丁目1番地)に下宿しましたが、塚本文との結婚で再び鎌倉に移りました。

海軍機関学校での生活は、時間的拘束や生徒の気風になじめず、芥川龍之介のいわゆる「不愉快な二重生活」であったようですが、そのためか週末はほとんど田端の自宅で過ごしていた時期もありました。だがそうした感情とは別に、彼は授業に対してはたいへん熱意があり、内容もおもしろく有益なものであったと当時の教え子が述懐しています。また、この学校勤務の期間(大正5年(1916)12月~同8年(1919)3月)にも文筆を続けており、「偸盗(ちゅうとう)」「或日の大石内蔵助」「蜘蛛の糸」「奉教人の死」などの名作が発表されました。

吉倉公園には蜜柑を持つ少女の像もあります。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 坂の詩パート2 | トップ | 坂の詩パート3 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

文学」カテゴリの最新記事