神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

噂をすれば河野裕子

2016年09月08日 21時04分38秒 | 短歌
うわさをすれば何とかやらで、今朝書いた記事「芦屋・・・短歌に関わる思い出」に河野裕子さんのことを書いたが、今日届いた「塔」誌に珍しくパンフレットが同封されていて、見ると『あなた 河野裕子歌集』とあった。

短歌に関心のない人は、河野裕子さんといっても、「なにや、その人」と思われるだろうから、このパンフレットの写真を貼り付けさせていただく。

岩波書店の刊行で、値段は本体1800円です。

高いようですが、普通の歌集を買うよりは安いです。

普通歌集は、だいたい2500円から3000円しますから。

別に岩波書店の回し者ではありませんが、ご紹介させていただきました。

  亡くなりて六年経ちぬ「あなた」とふ題名つけてあなたの歌集  biko

  朝書きし記事にあなたの教室を、夜の記事にはあなたの歌集  biko

芦屋・・・短歌に関わる思い出

2016年09月08日 07時02分47秒 | 思い出
芦屋は、県外の人たちもよく知っている高級住宅地である。

この芦屋には少し思い出がある。

私が短歌を最初に始めたのは、この川西市のアステという商業ビルにある朝日カルチャーセンターの短歌教室であったが、ある日、教室の待合室でパンフレットを眺めていると、芦屋教室では河野裕子さんが講師をしていられることがわかった。

河野裕子さんは、当時NHKの短歌の番組で先生をしていられた。

その番組を観ていた私は、河野裕子さんにお習いしたくなった。

それで、川西教室に籍を置きながら、芦屋教室にも通うことにした。

そのころ私は大阪に住んでいたから、芦屋の教室も、川西の教室と同じように、簡単に通うことができた。

むしろ、芦屋の教室はJRの駅前にあったから、JR川西池田から長い陸橋を歩いていく川西教室より楽に行けたくらいだった。

その後、河野裕子さんが先生をしていられた結社に入会させていただき、その結社の芦屋歌会にも出させていただくようになったから、川西の教室のほうは止めた。

大阪からは、そのほうが便利でよかったのだが、その後、川西に引っ越してきてからは、芦屋に通うのは、ほんの少し不便になった。

だけでなく、認知症の義母の世話をしないといけなくなったから、物理的にも通うことができなくなった。

それと前後して、先生の河野裕子さんの癌の再発があったりして、芦屋教室に通うのも止めてしまった。

思い返せば、川西の短歌の教室に通い始めたのは、将来川西に住まなければならなくなるのを見越して、川西で友人を作っておこうという軽い気持ちだった。

始めたのは1998年4月だったから、今春で満18年経った。

最初のころこそ、よく勉強したが、最近は半ば惰性でやっているようなところがある。

短歌賞に応募したりして賞をいただいたりしたのも、最初の数年だった。

いわゆるビギナーズラックで、賞がいただけていたのだろう。

その後は、応募するのにも飽きて応募することも止めてしまった。

それと比例して、だんだん下手になってきているようにも思うが、しかし、そうではなくて、最初のころは自分を過信していただけのことだったのだろう。

止めよう止めようと思いながら、止めないのは、好きというより、他に何のとりえもないから、続けているのではないか。

  JR芦屋駅前ラポルテの故河野裕子さんの教室  biko

  難聴のわれは真横に座らせていただき聴きき先生の声  biko

  あれはまだ二十世紀のことなりしと二十一世紀の今日思ひ出す  biko

  あのころはわれも河野先生も若かりしかな五十の初め  biko

  先生のお宅に塔誌の校正に行かせていただきしころの先生  biko

  岩倉のお宅でお茶を淹れくれし河野裕子先生の影  biko

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今朝、ブロ友さんのブログを拝見していると、芦屋のことが書かれてあったので、思い出して書いてみた。