(ご近所の万両)
ここ1週間くらい阪神・淡路大震災の追悼番組が多い。
そして、20年前の映像が流れると、いやでも20年前に引き戻される。
私は、20年前の地震のときは46歳だった。
長女が21歳、長男が20歳、次男が11歳だった。
地震の2日前の15日は長男の成人式だった日で、それを祝って家族で蟹を食べに行ったことを覚えている。
長女と長男は、たしか大学の後期試験の最中だった。
17日の早朝に地震があったが、大学の後期試験が中止になるという連絡はなかったから、二人とも大学に向かった。
長女は京都の大学に通っていたが、電車が遅れて、大分遅刻して到着したか、途中で引き返したかはよく覚えていない。
が、さすが試験どころではなく、試験は中止か延期になったと記憶している。
娘の友人の中には新幹線で登校した人もあったと聞いたような記憶があるから、在来線は止まってしまっていたのかもしれない。
今思い出そうとするのだが、思い出せない。人の記憶というのは所詮はこんなものかと思う。
あの頃は、大阪のマンションに親子5人が犇いて暮らしていた。
マンションを脱出したくてたまらなかったのだが、当時は、バブルが弾けたといっても、まだまだ地価は高く、買うことができなかった。教育費のピークだった頃でもあったし。
しかし、いま思い出してみれば、あの頃が一番楽しかったような気もする。
経済的には一番大変なときではあったが、毎日親子5人でご飯を食べて、寝る。
そんなささいなことが、現在の夫婦二人暮らしと比べて格段に楽しかったと思える。
たしかに毎日毎日食べ盛りの子供達に食べさせるのは大変であった。
しかし食べてくれる人のいることの張り合いというのは、いなくなって分かることだ。
その後、長女、長男は、次々と就職して、そして次々と結婚した。
長女の結婚が1999年、長男の結婚が2001年。
寂しかったが、まだ次男がいたので、切実ではなかった。
が、この頃から、私は体調がおかしくなってきて、一切食事が摂れなくなっていた。
翌2002年に隣県の大学に進学した次男は、1回生の間は自宅から通学していたが、やはり遠すぎるということで、2003年、2回生からは下宿することになった。
4月に次男を下宿させて、ますます体調が悪くなって、ついにその年の7月に心臓弁膜症の手術を受けることになった。
幸い術後の回復もよく、1年後くらいから元気になったが、今度は子供達のいなくなった寂しさにさいなまされるようになった。
私は、それまでは、外で働くほどの体力はなかったので、ずっと専業主婦として、家族一筋に尽くしてきた。
だから、子供達がいなくなった寂しさが身にしみた。
こんなとき、健康な耳、健康な体が与えられていたら、仕事を見つけることもできただろう。
人生は自分で切り開くものといわれるが、しかし、そうしたくてもできない人間がいることも、また事実なのである。
そうこうしているうちに、2006年12月からは義母の介護のために、ここ川西市に越してきた。
が、翌2007年11月に大腸癌が見付かり手術を受けて、さらに2011年にはネットでのトラブルが元で鬱病になった。
大きな手術を受けるたびに難聴は進んだ。
その間、孫ができたり、姑が亡くなったりの出来事はあったが、なにやら病気ばかりしていた20年のような気もする。
平均寿命からすると、あと20年くらい残されていそうだが、どんな残生になるだろう。
ふたととせ病(やまひ)に伏してゐたりけりあとふたととせ如何にかあらむ biko
ここ1週間くらい阪神・淡路大震災の追悼番組が多い。
そして、20年前の映像が流れると、いやでも20年前に引き戻される。
私は、20年前の地震のときは46歳だった。
長女が21歳、長男が20歳、次男が11歳だった。
地震の2日前の15日は長男の成人式だった日で、それを祝って家族で蟹を食べに行ったことを覚えている。
長女と長男は、たしか大学の後期試験の最中だった。
17日の早朝に地震があったが、大学の後期試験が中止になるという連絡はなかったから、二人とも大学に向かった。
長女は京都の大学に通っていたが、電車が遅れて、大分遅刻して到着したか、途中で引き返したかはよく覚えていない。
が、さすが試験どころではなく、試験は中止か延期になったと記憶している。
娘の友人の中には新幹線で登校した人もあったと聞いたような記憶があるから、在来線は止まってしまっていたのかもしれない。
今思い出そうとするのだが、思い出せない。人の記憶というのは所詮はこんなものかと思う。
あの頃は、大阪のマンションに親子5人が犇いて暮らしていた。
マンションを脱出したくてたまらなかったのだが、当時は、バブルが弾けたといっても、まだまだ地価は高く、買うことができなかった。教育費のピークだった頃でもあったし。
しかし、いま思い出してみれば、あの頃が一番楽しかったような気もする。
経済的には一番大変なときではあったが、毎日親子5人でご飯を食べて、寝る。
そんなささいなことが、現在の夫婦二人暮らしと比べて格段に楽しかったと思える。
たしかに毎日毎日食べ盛りの子供達に食べさせるのは大変であった。
しかし食べてくれる人のいることの張り合いというのは、いなくなって分かることだ。
その後、長女、長男は、次々と就職して、そして次々と結婚した。
長女の結婚が1999年、長男の結婚が2001年。
寂しかったが、まだ次男がいたので、切実ではなかった。
が、この頃から、私は体調がおかしくなってきて、一切食事が摂れなくなっていた。
翌2002年に隣県の大学に進学した次男は、1回生の間は自宅から通学していたが、やはり遠すぎるということで、2003年、2回生からは下宿することになった。
4月に次男を下宿させて、ますます体調が悪くなって、ついにその年の7月に心臓弁膜症の手術を受けることになった。
幸い術後の回復もよく、1年後くらいから元気になったが、今度は子供達のいなくなった寂しさにさいなまされるようになった。
私は、それまでは、外で働くほどの体力はなかったので、ずっと専業主婦として、家族一筋に尽くしてきた。
だから、子供達がいなくなった寂しさが身にしみた。
こんなとき、健康な耳、健康な体が与えられていたら、仕事を見つけることもできただろう。
人生は自分で切り開くものといわれるが、しかし、そうしたくてもできない人間がいることも、また事実なのである。
そうこうしているうちに、2006年12月からは義母の介護のために、ここ川西市に越してきた。
が、翌2007年11月に大腸癌が見付かり手術を受けて、さらに2011年にはネットでのトラブルが元で鬱病になった。
大きな手術を受けるたびに難聴は進んだ。
その間、孫ができたり、姑が亡くなったりの出来事はあったが、なにやら病気ばかりしていた20年のような気もする。
平均寿命からすると、あと20年くらい残されていそうだが、どんな残生になるだろう。
ふたととせ病(やまひ)に伏してゐたりけりあとふたととせ如何にかあらむ biko