昨日書いた友人は、中学校からずっと友人なので、親友といえるだろう。
高校も、同じコース(文系進学クラス)だったため、3年間ずっと同じクラスであった。
もっとも、私は、当時、得意科目からいえば、理系タイプであったのだが、理系コースは少数精鋭になるので、楽な文系コースを選んだというわけであった。
親友とは実家も近かったから、高校を卒業してからも休みごとに両家を行ったり来たりして、交流した。
彼女は、東京のミッション系の大学に進学したが、在学中は、私が上京して、彼女の下宿に泊めてもらって、東京をあちこち見物したりした。東京だけでなく、鎌倉、横浜などにも足を伸ばして見物したものだった。
また、彼女が高知に帰省するときには、彼女が帰途、大阪にあった私の下宿に逗留し、京都、奈良などに出かけたものだった。
一度など、あまりにも長逗留しすぎて、彼女が高知に帰ってこないことを彼女の実家のご両親が心配して大騒ぎになっていたこともあった。
そんな仲よしだったので、お互いが結婚してからも、気軽に泊まりにいけたりする。
私は、高校時代から少し難聴であったが、その後どんどん難聴が進んで、現在では、彼女以外の友人とは余り交流していない。
彼女はずっと(放課後指導員というのだろうか)放課後の先生をしていたが、定年退職したあたりから、視力が衰えてきて、現在は、外出時は白い杖をついている。
それでも勉学に対する意欲はますます盛んで、現在も高知大学の聴講生として週一回通学している。
これは昔からだが、料理も上手で、目が見えないのにこんな料理ができるのが不思議と思うようなものを、私が訪問した折には食べさせてくれる。
彼女の言うのには、「自分の家だったら、どこに何があるか全部頭に入っているから、見えなくても困らない」
一方、私はというと、補聴器をしていると、少人数の場合のみ何とか会話できるのだが、大勢のいるところでは無理である。
だから帰省して会うときも、私が彼女の家に行って会うのが一番都合がいいのである。
これには、まだおまけがあって、彼女のお連れ合いも、昨日『いとしのカモたち』でご紹介したような本を著されるほどの文才のおありの人なのだが、近年はパーキンソン病を患っていて、右腕の不随意運動のため、執筆できなくなっている。さらに最近は歩行も十分にできなくなって、歩行器のようなものを利用して歩いている。
彼女は、「私達夫婦は2人合わせても一人前ではなくて、2人合わせて0、7人前よ」と自嘲気味に言う。
そんな2人なのだが、兄の亡くなったときには、律儀に、御通夜にも、お葬式にも、来てくれた。
御通夜に来てくれた夜は、帰る段にタクシーを呼ぶことになったのだが、友人は目が見えず、お連れ合いは手が使えないで、タクシー会社の電話番号を押すことができない。
そこで、私が友人の(大声で)発する電話番号を聞きながらタクシー会社の電話番号を押した。
そして電話は、タクシー会社にかかってしまう前に大急ぎで友人に手渡さなければならなかった。
なぜなら、私は電話の声を聴き取ることができないから。
あとで3人で、「私達3人揃っても、一人前といえるかどうか」と笑いあったものだった。
目の見えぬ友の電話を耳遠き私がかけて友に手渡す biko
ps 武中宏氏は、「いとしきカモたち」の前にも、若い頃の放浪生活を高知新聞に連載されていた。彼は、非常に頭のいい人だが、いわゆるエリートコースは歩まず、とても個性的な人生を送ってこられた人だ。その体験を連載されていたのだ。パーキンソン病にならなければ、もっともっと書き続けることができたのにと、私は残念に思っている。
高校も、同じコース(文系進学クラス)だったため、3年間ずっと同じクラスであった。
もっとも、私は、当時、得意科目からいえば、理系タイプであったのだが、理系コースは少数精鋭になるので、楽な文系コースを選んだというわけであった。
親友とは実家も近かったから、高校を卒業してからも休みごとに両家を行ったり来たりして、交流した。
彼女は、東京のミッション系の大学に進学したが、在学中は、私が上京して、彼女の下宿に泊めてもらって、東京をあちこち見物したりした。東京だけでなく、鎌倉、横浜などにも足を伸ばして見物したものだった。
また、彼女が高知に帰省するときには、彼女が帰途、大阪にあった私の下宿に逗留し、京都、奈良などに出かけたものだった。
一度など、あまりにも長逗留しすぎて、彼女が高知に帰ってこないことを彼女の実家のご両親が心配して大騒ぎになっていたこともあった。
そんな仲よしだったので、お互いが結婚してからも、気軽に泊まりにいけたりする。
私は、高校時代から少し難聴であったが、その後どんどん難聴が進んで、現在では、彼女以外の友人とは余り交流していない。
彼女はずっと(放課後指導員というのだろうか)放課後の先生をしていたが、定年退職したあたりから、視力が衰えてきて、現在は、外出時は白い杖をついている。
それでも勉学に対する意欲はますます盛んで、現在も高知大学の聴講生として週一回通学している。
これは昔からだが、料理も上手で、目が見えないのにこんな料理ができるのが不思議と思うようなものを、私が訪問した折には食べさせてくれる。
彼女の言うのには、「自分の家だったら、どこに何があるか全部頭に入っているから、見えなくても困らない」
一方、私はというと、補聴器をしていると、少人数の場合のみ何とか会話できるのだが、大勢のいるところでは無理である。
だから帰省して会うときも、私が彼女の家に行って会うのが一番都合がいいのである。
これには、まだおまけがあって、彼女のお連れ合いも、昨日『いとしのカモたち』でご紹介したような本を著されるほどの文才のおありの人なのだが、近年はパーキンソン病を患っていて、右腕の不随意運動のため、執筆できなくなっている。さらに最近は歩行も十分にできなくなって、歩行器のようなものを利用して歩いている。
彼女は、「私達夫婦は2人合わせても一人前ではなくて、2人合わせて0、7人前よ」と自嘲気味に言う。
そんな2人なのだが、兄の亡くなったときには、律儀に、御通夜にも、お葬式にも、来てくれた。
御通夜に来てくれた夜は、帰る段にタクシーを呼ぶことになったのだが、友人は目が見えず、お連れ合いは手が使えないで、タクシー会社の電話番号を押すことができない。
そこで、私が友人の(大声で)発する電話番号を聞きながらタクシー会社の電話番号を押した。
そして電話は、タクシー会社にかかってしまう前に大急ぎで友人に手渡さなければならなかった。
なぜなら、私は電話の声を聴き取ることができないから。
あとで3人で、「私達3人揃っても、一人前といえるかどうか」と笑いあったものだった。
目の見えぬ友の電話を耳遠き私がかけて友に手渡す biko
ps 武中宏氏は、「いとしきカモたち」の前にも、若い頃の放浪生活を高知新聞に連載されていた。彼は、非常に頭のいい人だが、いわゆるエリートコースは歩まず、とても個性的な人生を送ってこられた人だ。その体験を連載されていたのだ。パーキンソン病にならなければ、もっともっと書き続けることができたのにと、私は残念に思っている。