癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


人を、そして自分を癒し真なる喜びをもたらす
   
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シルディ・サイババ(第四十七章 前置き)

2011-10-24 | シルディ・サイババ

サイのかんばせは恵みである。私たちが一瞬彼を見るだけで、彼は数多くの過去世の悲しみを打ち砕き、私たちに大きな至福を与えてくれる。そして彼が恩寵を持って私たちを見るなら、私たちのカルマの束縛はただちに解かれ、幸福へと導かれるのである。ガンジス河は沐浴に行く全ての人々の汚れや罪を洗い流すが、彼女(ガンジス河)はその心の内では聖者に来てもらい、その足で触れて彼女を祝福をし、彼女の中に蓄積している罪を取り除いて欲しいと切望している。

これを取り除くことができるのは、聖者の神聖な足だけだということを彼女は確信しているのである。サイは聖者の中で最高の宝石である。さあ、彼の心洗われるような物語を聴いてみよう。


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シルディ・サイババ(二匹の羊)

2011-10-23 | シルディ・サイババ

  ある時レンディから戻る途中、ババは羊の群れを見た。そのうちの2匹がババの注意を惹いた。ババは彼らの元へ行き、抱きしめて優しく撫でてから、彼らを32ルピーで買った。帰依者たちはババのこの行動に驚いた。彼らはババが騙されて取引させられたのだと思った。

というのも羊は一匹あたり2ルピーで買えるもので、高くても34ルピー、二匹で8ルピー程度だったからだ。彼らはこのことでババを叱り始めたが、ババは穏やかなままだった。シャマとタティヤ・コテはババに説明を求めた。

彼は家もなく面倒を見る家族もいないのだから、市場の価格などどうでもいいのだと言った。彼は自分の金で彼らに4セール(3.732kg)のダル(レンティル)を買ってくるように頼み、それを羊に食べさせた。それが済むと、ババは羊を群れの主人に返し、次のような羊にまつわる思い出を語った。

 

  「おお、シャマとタティヤ、君たちは私がこの取引で騙されたと思っている。違うのだ。羊たちの話を聞きなさい。彼らは前世で人間であり、私の側に座っていたのだよ。彼らは異父兄弟で、最初は互いに愛し合っていたが、後には敵同士になった。兄は怠け者だったが、弟は活発な男でたくさん金を稼いだ。

 

兄は貪欲で嫉妬深くなり、弟を殺して金を奪おうと考えた。彼らは兄弟の関係を忘れ、互いに諍い合うようになった。兄はあれこれと手を尽くして弟を殺そうとしたが、全て失敗に終わった。彼らは不倶戴天の敵同士となり、最後には兄が大きな棒で弟の頭をひどく殴り、弟は斧で兄を叩き、結果どちらもその場で死んでしまったのだ。彼らの行動の結果として、今世は二人とも羊に生まれてきた。

 

彼らが通り過ぎたとき、私はすぐに彼らだと分かった。そして彼らの過去世の物語を思い出したのだ。彼らを可哀相に思って、私は彼らに食餌を与え、休ませ慰めてやりたかったのだ。こういう理由で私は金を使い、そのことで君たちは私を責めた。君たちは私の取引が気に入らなかったから、私は彼らを羊飼いに返したのだ」羊に対するなんというサイの愛情であろう!

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように


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シルディ・サイババ(ガヤへの旅)

2011-10-23 | シルディ・サイババ

  

  カカサヘブ・ディクシットがサイババに紹介されてしばらく後、彼は長男バブの聖糸の儀式(ウパナヤン)をナグプールで行うことに決めた。同じ頃、ナナサヘブ・チャンドルカールは長男の結婚式をグワリオールで行うことに決めていた。ディクシットもチャンドルカールもシルディにやって来て、愛情を込めてババを招待した。

ババは彼らにシャマを代理として連れて行くように言った。どうしてもババ本人に来て欲しいと嘆願されると、ババは彼らにシャマを連れて行くように伝えてこう言った。「ベナラスとプラヤグを後にする頃には、私はシャマより先に着いているよ」さて、この言葉を覚えておこう。やがてこれがババの遍在性を示すことになる。

 

  ババの許可を得て、シャマは儀式と式典に出席するためナグプールとグワリオールに行くことになり、それからカシとプラヤグとガヤに行くことになった。アッパ・コテは彼について行くことにした。彼らは共にまず聖糸の儀式に出席するためにナグプールに行った。カカサヘブ・ディクシットは経費としてシャマに200ルピーを渡した。それから彼らは結婚式に出席するべくグワリオールへ行った。

そこではナナサヘブ・チャンドルカールがシャマに100ルピーを渡し、彼の親戚のジャタール氏がまた100ルピーを渡した。それからシャマはカシへ行ってから、アヨダヤへ行った。彼はカシ(バナラシ)ではラクシュミ・ナラヤンのジャタールの美しい寺院で、アヨダヤではラーマ・マンディールで、ジャタールの支配人から大変歓迎された。シャマとコテはアヨダヤに21日間滞在し、カシ(バナラシ)には2ヶ月滞在した。

それから彼らはガヤへ向かった。列車の中で、ガヤでは疫病が流行っていると聞き、彼らは少し不安になった。夜にはガヤの駅に降り立ち、彼らはダルマシャラに宿泊した。朝になると、ガヤワラ(巡礼者の為に宿泊や乗船などの手配をする僧)がやってきて言った。「巡礼の旅は既に始まっています。あなたがたも急いだ方がいいですよ」シャマは何気なく、ガヤでは疫病が流行っているのかと尋ねた。

「いいえ」ガヤワラは言った。「どうぞ怖がらずに、自分で行って見て下さい」それから二人は彼について大きくて広いワダである彼の家に滞在した。シャマは自分に提供された下宿に喜んだが、一番彼を喜ばせたのは建物の中央と正面に飾ってあるババの大きくて美しい肖像画であった。この肖像画を見てシャマは感情がこみ上げてきた。彼はババの、「カシとプラヤグを後にする頃、私はシャマより先に着いているよ」という言葉を思い出して、涙がこみ上げた。

彼の髪の毛は逆立ち、喉は詰まり、すすり泣きを始めた。ガヤワラは、彼が疫病が蔓延しているのを恐れて泣いているのだろうと思った。だがシャマは彼に、どうしてババの肖像画をここに置いたのかと尋ねた。彼は、ガヤへの巡礼者の面倒を見るためにマンマドやプンタンベで働いている200から300人の彼の仲介人から、ババの評判を聴いたのだと答えた。そして12年前、彼はシルディへ行ってババのダルシャンを受けた。そこで彼はシャマの家に掛かっているババの肖像画に惹かれ、ババの許可を得て、シャマから譲ってもらったのだと言った。これはその肖像画だった。そういわれてシャマはその出来事を思い出した。

ガヤワラは、以前彼に親切にしてくれたシャマ本人が自分の客人だと知って、大変に喜んだ。つまり彼らは互いに愛と奉仕を交換し、非常に喜び幸せであった。ガヤワラは彼に心のこもったもてなしをしてくれた。彼は大変に裕福だった。彼は輿に座り、シャマを象に乗らせて、彼が快適なように便宜を図ってくれた。

  この話の教訓は、ババの言葉は文字通り現実になるということ、帰依者に対する彼の愛は無限であるということだ。だが次の物語を見てみよう。彼はまた全ての生き物を等しく愛したのであり、彼は万物と一つだと感じていたことが分かる。


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シルディ・サイババ(第四十六章 前置き)

2011-10-23 | シルディ・サイババ

 

  おお、サイ、あなたの御足は恵み深く、あなたを思い浮かべることは恵みであり、カルマの束縛から私たちを解放してくれるあなたのダルシャンは祝福です。あなたの御足はもう私たちには見えませんが、帰依者があなたを信じれば、彼らはあなたから生きた体験を得ることができます。

 

目に見えない捉えがたい糸で、帰依者たちを遠くからあなたの足元へ引き寄せて、優しい愛深い母のように彼らを抱きしめてくださる。帰依者たちはあなたがどこにいるのか知りませんが、あなたはとても巧みに糸を引いているので、あなたが背後で助けてくれているのだと彼らは最後に悟るようになります。利口で賢く博学な人もエゴイズムのせいでサンサールの落とし穴に落ちる。

 

だがあなたは、その力で貧しく質素で信仰の厚い者を救ってくださる。内側の見えないところであなたはゲームをしておられるが、ゲームには関心がない。そのようにしながら、あなたご自身は行為者でないかのように振舞う。あなたの生涯を知るものは誰もいない。私たちにとって最良の道は、私たちの身体や言葉や心をあなたの足元に委ね、私たちの罪を打ち砕くために常にあなたの名前を唱えることだ。

 

あなたは帰依者の願いを叶えてくれ、何の欲も持たない者には、最高の至福を与えてくれる。あなたの美しい名前を唱えることは、帰依者にとっても一番簡単なサーダナである。このサーダナによって、私たちの罪、ラジャス、タマスの性質は消え、サットヴァの質と正義が優勢になり、これに伴い識別力や平静な心、知識がやってくる。すると私たちは自己と私たちのグル(一つであり同一)の中に留まるのである。これがグルに完全に身をゆだねるということである。

これを行っていると確実に、私たちの心は静まり平安になる。こうして全てを委ねること、信仰心、知識の素晴らしさは比類がなく、平和、無執着、名声や救いなどが続いてやってくるのである。

  ババが帰依者を受け入れると、ババは昼となく夜となく、家にいようと海外にいようと、彼の後についてゆき彼の側に立つ。帰依者の好きなところへ行かせ、ババは何らかの形を取って思いもよらない方法で、彼より先にそこへ現れるのである。次の物語はこのことについて記したものである。


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シルディ・サイババ(木製の厚板のババの寝台は、バガット(帰依者)には不向き)

2011-10-23 | シルディ・サイババ

 

  ババが若い頃は、長さ4腕尺、幅たったの23センチほどの木製の厚板の上で眠り、パナティス(土製のランプ)を4つ角に灯していた。後に、彼は厚板を粉々に壊して捨ててしまった(第十章参照)。ある時ババはカカサヘブにこの厚板の偉大さや重要性について説明した。これを聴いてカカサヘブはババに言った。

「まだ木製の厚板を愛しておいでなら、あなたが心地よく眠れるよう、私がもう一度マスジッドに吊るすか掛けるかしましょう」ババは答えた。「ムハルサパティを床に残したまま、私が上で眠る気にはならない」そこでカカサヘブは言った。「それならムハルサパティにも別の厚板を用意しましょう」ババは言った。

「彼がどうして厚板の上で眠れるかね?厚板の上で眠るのは容易ではない。良い資質を多く持つ者だけができるのだ。目を大きく開けたまま眠れる者にはできるだろう。私が眠るとき、よくムハルサパティに私の横へ来させて、彼の手を私の心臓の上に置かせ、私が主の御名を唱えるのをそこで見ていて、もし私が眠りそうになったら、私を起こしてくれと頼むのだ。だが彼はこんなことさえできない。

 

彼自身が眠くなって、頭をこっくりさせ始めるのだ。私の心臓の上にある彼の手が石のように重くなったなと思うと、私は大声を上げるのだ。「おお、バガット」すると彼は動いて目を開ける。そのように床の上でも満足に座ったり眠ったりできず、アー

サナが安定せず、眠りの奴隷である者が、どうして空中の厚板の上で眠れようか?」他の機会にもババは帰依者への愛情からこう言った。

 

(善いものでも悪いものでも)私たちの物は私たちと共にあり、他者のものは他者と共にある」

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように


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シルディ・サイババ(カカサヘブの疑念とアナンドラオのヴィジョン)

2011-10-23 | シルディ・サイババ

  サイババがカカサヘブ・ディクシットに毎日スリ・エクナスの2つの書物を朗読するよう言いつけていたのは良く知られている。一つはバグワットで、もう一つはバヴァルタ・ラーマーヤナである。カカサヘブは、ババが生きている間は毎日これらの書物を朗読し、ババが亡くなった後もこの慣習を続けたのだった。

ある時、チョウパティ・ムンバイにあるカカ・マハジャニの家で、午前中にカカサヘブがエクナスのバグワットを読んでいた。マドハヴラオ・デシュパンド、別名シャマとカカ・マハジャニがその場にいて、朗読されている部分、すなわち同書の11Skandha2章に注意深く耳を傾けていた。そこはリシャバ家の9人のナタ(シッダ)、すなわち、カヴィ、ハリ、アンタリクシャ、プラブッダ、ピッパラヤン、アヴィロトラ、ドゥルミル、カマス、カラバジャンが、バグワット・ダルムの主旨についてジャナカ王に詳しく説明するくだりであった。

王は9人全員のナタにとても重要な質問をし、それぞれが質問に充分に答えたのだった。最初のナタ、カヴィはバグワット・ダルムとは何かについて。ハリは、バクタの特徴について。アンタリクシャはマーヤとは何かについて。プラブッダはどのようにしてマーヤを越えてゆくかについて。ピッパラヤンはパラ・ブラフマンとは何かについて。アヴィロトラはカルマとは何かについて。ドゥルミルは神の化身と彼らの行いについて。カマスは帰依者でない者は死後どうなるのかについて。カラバジャンは時代によって異なる神への礼拝の仕方について。全ての解説の要旨は、カリ期においては解脱の唯一の道はハリ()またはグルの御足を思い浮かべることである、だった。朗読を終えると、カカサヘブは気落ちした声でマドハヴラオらに言った。

9人のナタのバクティや信仰についての論説はなんと素晴らしいのだろうか。だが同時に実践するのはなんとも難しい!ナタたちは完璧だが、我々のような愚者に彼らが叙述したような信仰心を得ることは可能だろうか?幾世を経ても得られないとしたら、その時私たちはどうやって救いを得たらよいのだろう?全くもって私たちには希望がないように思える」マドハヴラオはカカサヘブのこのような悲観的な態度は好きではなかった。彼は言った。

「幸運にもババのような素晴らしい宝石を戴いた者がそのように非難がましく泣き言を言うものではない。もしババに揺ぎ無い信仰を持っているなら、なにを不安に感じることがあろう?ナタのバクティは強固で力強いかもしれないが、私たちの愛や情愛はそうではないというのかい?それにババは、ハリやグルの名前を思い出し、唱えることで救いが与えられると私たちに厳然と言わなかったかい?それなら怖れや不安を感じる必要がどこにあるんだね?」カカサヘブはマドハヴラオの説明には満足しなかった。彼はどうすればナタの力強いバクティが得られるのかと考え込んで、一日中不安で落ち着かなかった。翌朝、次のような奇跡が起こった。

 

  アナンドラオ・パカデという紳士がマドハヴラオを探してそこへやってきた。その時はバグワットの朗読が行われていた。パカデ氏はマドハヴラオの近くに座って、何かを彼に囁いた。彼は低い声で、自分の夢のヴィジョンについて話した。その囁き声で朗読は中断され、カカサヘブは読むのを止めてマドハヴラオにどうしたのかと尋ねた。マドハヴラオは言った。「昨日、君が疑念を感じていたけれど、今それについての説明がもたらされたよ。パカデ氏のヴィジョンは、信仰の特徴を説明していて、グルに敬礼したり御足を礼拝するという信仰だけで充分だということを現しているから、聞いてくれ」皆が、特にカカサヘブがヴィジョンについて聞きたがった。彼らの要請に応えて、パカデ氏はヴィジョンについて次のように語り始めた。

 

  私は海の中で腰の高さまで水につかって立っていました。そこで私は突然サイババを見たのです。彼はダイアモンドが散りばめられた美しい玉座に座っており、足は水の中に入っていました。私はババの姿に大変喜びました。このヴィジョンはとてもリアルで、とても夢だとは思えませんでした。大変興味深いことに、マドハヴラオもそこに立っていました。彼は私にしみじみと言いました。「アナンドラオ、ババの御足にひれ伏そう」私も言いました。「私もそうしたいんだが、ババの足は水の中じゃないか。どうやって頭を付けたらいいのだろう?困ったな」これを聴いて彼はババに言いました。

 

「おお、デーヴァ、水の中に沈んでいるお御足を出して下さい」するとババはすぐに足を出してくれました。私は遅れをとるまいとそれを捉え、頭を垂れたのです。これを見て、ババは私を祝福してこう言いました。「さあ行きなさい。君は幸福を得るだろう。怖れることも不安になることもないよ」彼はまたこう付け加えました。「私のシャマにシルクの縁取りのあるドタールを与えなさい、そうすれば君に恩恵があるだろう」

  ババの命に応えるために、パカデ氏はドタールを買って、マドハヴラオに渡してくれるようカカサヘブに頼んだが、マドハヴラオは受け取るのを拒んだ。ババが受け取るようにと示唆してくれない限り、自分は受け取らないと彼は言った。その後いくらか議論をした後、カカサヘブはくじを引くことに決めた。

 

疑いのある事柄についてはくじを引いて、引いたメモの結果に従うのがカカサヘブの習慣であった。この場合にも、一つには受け取る、もう一方には断ると書かれた2つのメモがババの足元に置かれ、子供に一つを引かせた。受け取るのメモが引かれたので、マドハヴラオはドタールを受け取った。このようにしてアナンドラオもマドハヴラオも満足し、カカサヘブの心配事も解決したのだった。

 

  この話は、他の聖者の言葉にも敬意を払うよう私たちに熱心に勧めるものであるが、同時に私たちの母、すなわちグルに全幅の信頼を置き、その指示には従うように求めるものでもある。なぜならグルは私たちの幸福について、他の誰よりもよく知っているからである。あなたのハートにババの次の言葉を刻み込んでおくとよい。「世界には数え切れないほどの聖者がいるが、私たちの父(グル)は真のグルだ。

他の聖者もたくさん善いことを言うかもしれないが、私たちは自分のグルの言葉を忘れてはいけない。つまり心から自分のグルを愛し、完全に彼に全てを委ね、うやうやしく彼の前にひれ伏すのだ。そうすれば太陽にとって暗闇が無いのと同じように、君の前には越えるべき世俗の海はない」


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シルディ・サイババ(第四十五章 前置き)

2011-10-23 | シルディ・サイババ

前置き

  これまでの3章において、ババの逝去について述べてきた。彼の肉体としての有限の姿は確かに私たちの目の前からは消えてしまったが、無限の霊的な姿(ババの魂)は永遠に生きている。彼の生前に起きたリーラは、今に至るまで詳細に語り継がれている。彼が亡くなった後でも、さらなるリーラは起こり、今も尚起こり続けている。

これは、ババが永遠に生き、以前と変わりなく帰依者を助けていることを如実に示すものである。ババが生きている間に彼に出会うことができた人々は、言うまでも無く大変幸運であるが、彼らの中で世俗の物事や楽しみに対して心を静められず、神に専心できなかった者は本当に不幸である。その当時望ましかったこと、そして今もなお望ましいことはババへの心からの信仰である。

私たちの感覚や器官や心は全て、ババを礼拝し仕えるために協力し合うべきである。いくつかの器官が礼拝に携わっていても、他の器官がそっぽを向いていれば、それは意味が無い。礼拝や瞑想を行うのなら、私たちの心と魂の全てで行わなくてはならない。

  純潔な女性が夫に抱く愛情は時折、弟子がマスターに対して抱く愛と比較される。だが前者は短い間に終わるものであり、後者は比類のないものである。たとえ父でも、母や、兄弟や親類であろうと、誰も人生の目的(自己認識)に到達するために私たちを助けてはくれない。

私たちは自分自身で計画を立て、自己認識の道を横断しなくてはならない。私たちは非現実と現実を区別し、この世と来世の楽しみを絶ち、感覚と心を制御し、解脱のみを求めなくてはならない。他者に頼る代わりに、私たちは自分自身に全幅の信頼を置くべきである。

私たちが区別を実践し始めると、世の中は移ろいやすく非現実だということが分かり、世俗的な物事に対する情熱は冷めていき、最終的にはそれらに対する無執着に至ることができる。私たちがグルそのものであるブラフマンだけが唯一の真実であることを知ると、それは外見上の宇宙を超越し、かつ包み込んでいるので、私たちは全ての生き物の中のそれを礼拝するようになる。

 

これが合同のバジャンや礼拝である。私たちがブラフマンやグルを心を込めて礼拝するとき、私たちは彼と一つになり、自己認識を得る。つまり常にグルの名を唱え、彼に瞑想することで、私たちは万物の中に彼を見ることができ、永遠の至福を手に入れることができるのだ。次の物語はこのことを示している。


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シルディ・サイババ(私とは誰か?)

2011-10-22 | シルディ・サイババ

 

  サイババは何度も、この私とは誰であるかについて詳しく説明している。彼は言った。「あなたは私を探すために遠くへ行く必要はない。名前や姿を除いてみると、万物と同様にあなたの中には、存在するという感覚、あるいは存在の意識がある。それが私自身だ。これが分かれば、あなたは万物と同様に、あなた自身の内側に、私を見る。これを実践すれば、あなたは全てに浸透しているものを悟り、私と一つになるだろう

 

  そこでヘマドパントは謙虚に愛情を込めて読者に、全ての神、聖者、帰依者を愛し尊敬するよう求めている。ババはしばしばこう言わなかっただろうか。「他人の揚げ足を取り、あら捜しをする者は、私の心に穴を開け私を傷つけるのだ。だが苦しみ我慢して耐える者は私を最も喜ばせる」ババはあらゆる存在や生き物に浸透している。彼は全ての存在を愛する。このような甘露、純粋で吉兆をもたらす神の食物が常にババの唇から流れたのであり、それ故にババの名声を愛を込めて歌う者も、それを信仰心を持って聴く者も、共にサイと一つになる、とババは断じたのである。

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように


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シルディ・サイババ(ババの甘露のような言葉)

2011-10-22 | シルディ・サイババ

  優しく慈悲深いサイババは何度も次のような甘い言葉をマスジッドで語っている。「私を最も愛するものは常に私を見るだろう。私なしでは彼にとって全世界が侘しく、彼は私以外の話はせず、止むことなく私を瞑想し、常に私の名を唱える。私に完全に身を委ね、いつも私を思い浮かべる者に私は恩義がある。私は彼に救い(自己認識)を与えることでこの恩義を返そう。

私は、私を想い渇望し、まず私に食べ物を捧げなくては何も食べることのできない者の奴隷である。私の元へやって来る者は、ちょうど河が海と合流して一つになるように、私と一つになる。だからプライドもエゴイズムも跡形も無く捨て去り、あなたのハートの中に座している私に全てを委ねなさい」


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シルディ・サイババ(バプサヘブ・ヨグ、サニヤスをとる)

2011-10-22 | シルディ・サイババ

  ヘマドパントはヨグがサニヤスをとったことを記して本章を締めくっている。サカラム・ハリ・アリアス・バプサヘブ・ヨグはプーナの高名なヴァルカリ・ヴィシュヌブア・ヨグのおじであった。彼には子供がなかった。彼は1909年に行政機関(彼は公共事業局の監督官であった)を退官すると、妻とシルディにやってきた。メガの死後、ババのマハサマディまで、バプサヘブは毎日マスジッドとチャヴァディでアーティを執り行った。彼はまたドニャネシュワリとエクナスのバグワットをサテのワダで観衆に朗読し解説する仕事も任されていた。

長年仕えた後、ヨグはババに尋ねた。「私は長い間あなたに仕えてきましたが、私の心はまだ穏やかに落ち着くことがありません。聖者たちとの触れ合いが私を変えてくれないのはどうしてなのでしょう?いつになったらあなたは私を祝福してくださるのですか?」このバクタの祈りを聞いたババは答えた。「じきに君の悪い行い(その果実、結果)は打ち砕かれ、君の美点も欠点も灰に帰すだろう。

君が全ての執着を捨て、欲望や味覚を絶ちあらゆる障害を取り除き、心から神に仕え、物乞いの鉢を求める時(サニヤスをとる)に、私は君を祝福しよう」しばらくすると、ババの言葉は真実になった。彼の妻は先立ち、彼には何も執着するものがなかったので、彼は自由になり、死ぬ前にサニヤスをとり、人生の目的を果たしたのである。


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