私たちの聖典には時代によって様々な異なるサーダナ(目的達成の手段)が規定されている。クリタ期にはタパ(苦行)が、トレタ期にはドゥニャン(知識)が、ドワパラ期にはヤグニャ(捧げ物)が、カリ期(現在)はダーン(慈善)が推奨されてきた。あらゆる慈善の中で、食べ物を差し出すのが最も良いとされる。私たちは昼になって食べ物がなければ、非常に不安になる。他の生き物も同じ状況下では同様に感じる。
このことを知っていれば、貧しい者や空腹の者に食べ物を与える人が最高の施主であり、慈愛深い人だと分かるだろう。タイットリヤ・ウパニシャドはこう言っている。「食べ物はブラフマンである。食べ物から全ての生き物は生まれ、食べ物によって生き、この世を去った後も再び食べ物の中へ入るのだ」アティティ(客)が正午に戸口にやってきたら、食べ物を与えてその人を歓迎するのが私たちの義務である。
その他の慈善、すなわち富や財産や服を与えるには、いくらかの識別力が必要だが、食べ物を与える上においてはそのような考慮は不要だ。もし誰かが正午に戸口にやってきたら、その人には直ちに食事を与えるべきである。足や体が不自由な人や、盲目な人、病気の人がやってきたら、まず食事は最初に彼らに与えるべきであり、健康な人や知り合いは後回しにするべきである。
前者に食事を与える利益は後者に与えるよりはるかに大きい。他の慈善行為はこのアンナ・ダーン(食事の供与)がなければ、月のない星のように、ペンダントのないネックレスのように、峰のない山頂のように、蓮のない池のように、信仰心のないバジャンのように、クムクムをつけていない既婚女性のように、美しい声のない歌のように、塩の入っていないバターミルクのように不完全である。ヴァラン(豆のスープ)が他の料理より優れているように、アンナ・ダーンは最高の利益がある。さて、ババがどのように食べ物を準備し、人々に配ったかを見てみよう。
以前は、ババは自分自身の為にほんのわずかな食べ物を乞い、彼が必要な分はどんなにわずかであっても、数件の家々に乞い求めて回ったと言われている。だが彼が皆に食べ物を分け与えると決めた時、自分自身で全ての準備を整えた。彼はこれについては誰にも頼らず、誰にも迷惑を掛けなかった。まず彼はバザールに行ってとうもろこしや小麦粉、スパイスなど必要なものを買い、現金で支払いをしている。彼はまた粉ひきもしていた。マスジッドの中庭で、大きな炉床を作って火を起こした後、適量の水を入れたハンディ(調理鍋)をかけた。ハンディは小さいものと大きなものの二種類があった。
小さい鍋では50人分の食事を用意し、大きい方は100人分を用意できた。時には彼は’ミテ・チャヴァル’(甘い飯)を作ったり、肉を混ぜて’ビルヤニ’を作ったりした。時にはヴァラン(スープ)を煮て、小麦粉で作ったパンの小さな塊を入れたりした。彼はスパイスを石板で砕き、砕いた細いスパイスを調理鍋に入れた。彼は料理が誰の口にもあう味の良いものになるように骨を折っていた。彼はジャワリ粉(ヒエ粉)を水に溶いて沸騰させ、バターミルクと混ぜて再び煮込んで、’アンビル’を用意していた。彼は食事にはこのアンビルを添えて配っていた。
料理の出来具合を見るために、ババはカフニの袖をまくりあげて、恐れも知らず沸騰している鍋の中に素手を突っ込んで、中身を横へ上下へかき混ぜた。彼の腕には火傷の跡はまったくなく、その顔に恐怖の表情もなかった。調理が終わると、ババはマスジッドに鍋を持って行き、イスラム教の僧に聖別させた。まず彼は料理の一部をプラサドとしてムハルサパティとタティヤ・パティルに渡し、それから残りを自らの手で貧しい人や寄る辺のない人々に配ったのだった。ババ自らが用意し給仕した食事を食べた人々はなんと恵まれていて幸運だったことか。
ここで次のようなことを尋ねる人もいるだろう。「ババはヴェジタリアン食もノンヴェジタリアン食もプラサドとして帰依者の全てに配ったのか?」答えは明瞭で簡単だ。ノンヴェジタリアン食を食べていた人々には、ハンディからノンヴェジタリアン食がプラサドとして与えられ、そうでない人々にはヴェジタリアン食が与えられたのだ。彼はこの食事を大食いして堪能したいという願いや欲望を彼らの中に決して起こさなかった。グル自身が何かをプラサドとして与える時に、受け取るべきかどうか悩んだり疑ったりする弟子は地獄に落ちるという法則がある。
弟子がこの法則を心得ているかどうかを見るために、ババは時折彼らをテストすることがあった。例えばエカダシの日(新月から11日目。前日の日没から翌日の日の出の48分後まで断食するとよいとされる)にババはダダ・ケルカールに数ルピーを渡して、コーハラに行って肉を買ってきてくれるように頼んだ。このダダ・ケルカールは正統派のブラーミンで、彼は生まれてからずっと伝統的な作法に従ってきた。彼は、富や、穀物、布などをサドグルに捧げるだけでは充分ではなく、絶対的に彼に従い、彼の命令には即座に応じることが、彼を一番喜ばせる本当のダクシナであった。
そこでダダ・ケルカールは着替えて、言われた場所へ向かった。するとババは彼を呼び戻して言った。「君が行かずに、誰かを行かせなさい」するとダダは自分の従者のパンドゥを行かせることにした。ババは彼が出かようとするのを見て、ダダを呼び戻しその予定はキャンセルにしてくれと言った。別の時には、ババはダダに塩辛い’ビリャニ’(マトン料理)がどんな風に料理されているのか見たいと言った。
ダダは不用意に、あれはとてもおいしいと答えた。するとババは彼に言った。「君は自分の目で見たこともなければ、自分の舌で味わったこともないだろう?それなのになぜおいしいと言えるのだ?蓋を取って見てみなさい!」こう言いながら、ババは彼の腕を掴んで鍋の中に突っ込み、こう付け加えた。「君の伝統的なやり方は捨てて、鍋の中身を取って少し食べてみなさい」母親の心に真実の愛の波が沸き起こった時には子供をつねりもするし、子供が泣き出した時は、自分の胸に引き寄せて抱きしめるものだ。同様にババも本当の母親がするように、ダダ・ケルカールをこうしたやり方でつねったのだ。実際には、伝統に従っている弟子に、彼の宗教では禁止されている食べ物を無理矢理食べさせるようなことをする聖者やグルなどいないだろう。
ハンディを使った料理は1910年頃まで続き、その後はやらなかった。前に述べた通り、ダース・ガヌがキルタンによってババの名声をムンバイ自治区の遠く広くまえ広めたため、その地域から人々がシルディに群がり始め、シルディはすぐに巡礼の聖地になった。帰依者たちは様々な品を差し出し、ナイヴァイディヤとして色々な食べ物を捧げるようになった。彼らから差し出されるナイヴァイディアの量はとても多く、ファーキルや貧困者が心行くまで食べても、まだ残るほどであった。ナイヴァイディアがどのように分配されていたかを述べる前に、ナナサヘブ・チャンドルカールの物語を引用して、ババが地元の寺院や神々に敬意を表していた様子を述べることにする。