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シルディ・サイババ(ヘマドパントのシムガの食事)

2011-10-20 | シルディ・サイババ

  それでは次はババが写真として現れ、帰依者の望みを叶えた物語を紹介しよう。

  1917年、満月の朝、ヘマドパントはヴィジョンを得た。ババが身なりの良いサニヤーシの姿で彼の夢に現れて彼を起こし、その日の食事に行くからと告げたのだった。ヴィジョンは夢の一部だった。

彼は完全に目覚めると、そこにはサイもサニヤーシもいないのを確認した。だが彼が夢を思い出し始めると、夢の中でサニヤーシが言った一言一句を全て思い出した。彼はババと知り合って7年になり、いつもババを瞑想しているが、ババが彼の家に食事をしに来ることなど想像だにしたことがなかった。だが彼はババの言葉に大変喜んで、妻の所へ行って、その日はホーリーの日で、サニヤーシが食事をしに来るから、少し多目に食事を準備するように伝えた。

彼女は誰がどこからやってくるのかを尋ねた。そこで変な誤解をさせたくなかったので、彼は夢の話をし、真実を彼女に伝えた。彼女はババがシルディからこんな所までやって来られるのか、シルディでのおいしい食事に慣れているババが彼らの粗末な食事を食べることができるのか、と疑いながら聴いた。ヘマドパントは、ババ自らが来ることはないかもしれないが、客の姿を借りて現れるかもしれないので、余分に食事を料理しても彼らが損をすることはないと、妻に請合った。

 

  この後食事の用意がされ、正午には準備が出来た。ホリカ(ブラフマンの力で焼き殺された悪魔)の礼拝が行われ、葉1が広げられて、その周りにはランゴリ(祝いのときに作られる色とりどりの絵やアート)が置かれた。テーブルの中央の2つの席が高貴な客人のために用意された。家族全員 - 息子たち、孫たち、娘たち、義理の息子たち等がやってきて席に座り、様々な道具が配られた。これが終わると、皆が客人の席を見たが正午を過ぎても誰も現れなかった。

そこで玄関が閉められ、アンナ・シュディ(ギー)が配られた。これが食事を始める合図だった。ヴァイシュワデヴァ()へ供物が捧げられ、スリ・クリシュナへのナイヴァイディヤも終わり、家族は食事を始めようとしたとき、階段を上る足音がはっきりと聞こえた。ヘマドパントはすぐに立ち上がってドアを開けると、アリ・モハメッドとモウラナ・イスム・ムジャヴァールという二人の男が立っていた。

彼らは、食事が並べられ家族全員が食べ始めようとしていた光景を見てヘマドパントに謝罪をし、自分たちが邪魔をしにきた弁明をさせてくれと言った。彼らは言った。「あなたが席を離れて私たちのところへ駆けつけてきたので、他の皆さんはあなたを待っています。ですから先にこれを受け取って下さい。

全ては後でお話ししますから」そう言うと、彼は脇に抱えていた古い新聞紙でくるまれた包みを取り上げて、テーブルの上に置いた。ヘマドパントが包みを開けてみると、それは大きくて素晴らしいサイババの写真であった。それを見て彼は大変感動して目からは涙が流れ、全身の毛が逆立ち、彼はひざまずいて写真の中のババの足に頭を付けた。彼は、ババがこのリーラで彼を祝福してくれたのだと思った。

彼は気になってアリ・モハメッドに、どうして彼がこの写真を手に入れたのかと尋ねた。彼は店で購入したのだと言い、皆が彼を待っているので、詳しいことは後で話すから先に彼らと食事を済ませてくれるように言った。ヘマドパントは彼に感謝し、別れの挨拶をして、ダイニングホールに戻った。写真は客人の為に用意されていた中央の座席に置かれ、ナイヴァイディヤの捧げ物を済ませてから、家族は予定した時間に食事を始め食べ終えた。写真に映った美しい姿のサイを見ながら、皆は非常に喜び、どうしてこのようなことが起きたのか不思議に思った。

 

  サイババはヘマドパントの夢で約束したことを、このようにして守ったのだった。この写真にまつわる詳細、つまりアリ・モハメッドがどのようにして写真を手に入れ、なぜ彼がヘマドパントの所へ持ってきたのかについては、次章で述べることにする。

 

1.大きなサイズの葉が薪の破片に留められ、その上に食事が配膳される。葉は繰り返し皿として使われる。

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように


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シルディ・サイババ(Dev氏のウディヤパンの式典)

2011-10-20 | シルディ・サイババ

  B.V.Dev氏はダハヌ(タナ地区)のマムラトダールだった。彼の母親は2530の誓いを立てており、これに関連したウディヤパン(完結)の式典が行われることになった。この式典では100人から200人のブラーミンに食事を振舞うことになっていた。Dev氏は式典の日取りを決め、バプサヘブ・ヨグに手紙を書いて、ババの出席なしにはこの式典は完了しないので、ババに式典の夕食に出席してくれるよう代わりに依頼してくれるように頼んだ。

バプサヘブ・ヨグはこの手紙をババに読んで聞かせ、ババは純粋な心で招待をしていることを汲んでこう言った。「私は私のことを思い浮かべる彼のことをいつも考えているよ。私には乗り物は必要ない。トンガも列車も飛行機もいらない。私は私のことを愛情を込めて呼ぶ彼の元へ私を顕現させる。彼には、私たち3人、私自身と君と3人目のもう一人が出席すると返事を書いておきなさい」ヨグ氏はババの言ったことをDev氏に知らせると、Dev氏は大変喜んだが、彼はババがラハタやルイ、ニムガオン以外の場所へは自ら行ったことがないことを知っていた。

だが彼は、ババは遍在しているのだから、彼には不可能なことは何一つないと思い、突然何かの姿になって現れ約束を成就してくれるのかもしれないと考えた。

  その数日前に、ベンガリ服を着たサニヤーシが牛を守るために活動していると言って、寄付を集めにダハヌの駅長の元へやってきた。駅長は彼に、町へ行ってマムラトダール(Dev)に会い、寄付を募るようにと言った。丁度その時マムラトダールがそこへやってきた。そこで駅長はサニヤーシを彼に紹介した。両者はホームに座って話しを始めた。Dev氏は、現在は他の慈善事業が進んでいて、先導する市民ラオ・サヘブ・ナロッタム・シェッティによって寄付申込リストが既に用意されているので、別の慈善事業を始めるのは適当ではなく、24ヶ月にまた尋ねてくれるのがよいと言った。これを聴いたサニヤーシはその場を去った。

 

  それから一ヶ月ほどして、サニヤーシはトンガでやってきて、午前10時頃にDev氏の家の前で止まった。Dev氏は彼は寄付のことでやってきたのだろうと思った。式典の準備で忙しくしている彼を見て、サニヤーシは自分は金集めに来たのではなく、食事を食べに来たのだと言った。Devは言った。「分かりました。歓迎しますよ」サニヤーシは言った。「私には二人連れがいるのですが」Dev氏は言った。「では、一緒に来てください」食事が配膳されるまでに2時間ほどあったので、Devは彼らをどこに迎えにゆけばよいかと尋ねた。サニヤーシは、時間になったらやってくるので迎えの必要はないと答えた。Devは彼に正午に来るようにと言った。12時ちょうどに3人はやって来て、パーティーに参加し、食事を済ませると帰っていった。

 

  式典が終わった後、Devはバプサヘブ・ヨグに手紙を書いて、ババが約束を破ったと文句を言った。ヨグは手紙を持ってババのところへ行ったが、ババは手紙を開ける前にこう言った。「ああ、彼は私が行くと約束したのに、彼を騙したと言っているのだろう。彼に言いなさい。私は他の2人と一緒に食事会に出席したが、彼は私だと気づかなかったと。それになぜ彼は私のことを全く呼ばなかったんだね?彼はサニヤーシが金集めに来たと思っていたが、私は彼の疑念を払わなかっただろうか。私は他の2人と共に行くと言わなかっただろうか。

そして3人で時間通りにやってきて食事を食べなかっただろうか?ごらん、私は約束を守るために生涯を捧げるのだ。私は決して約束を破らない」この答えを聞いてヨグの心は踊り、この答えの全てをDevに伝えた。Devは手紙を読むなり、喜びの涙を流した。だが彼はいたずらにババを責めたことで、精神的に苦しんだ。なぜ彼はサニヤーシが事前に寄付を求めてやってきたことに惑わされてしまったのか、なぜ彼は他の二人と一緒に食事に来るからと言ったサニヤーシの言葉の意味に気づかなかったのか、不思議に思った。

 

  この物語は、帰依者が完全にサドグルに自らを委ねる時、彼は帰依者の家で宗教的行事が形式に従って行われているかを見届けているのだということを、はっきりと示している。


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シルディ・サイババ(第四十章 前置き)

2011-10-20 | シルディ・サイババ

  スリ・サイ・サマルタは神の祝福を受けた有難いお方だ。現世的な事柄と霊的な事柄の両面において、彼の帰依者たちに教えを授け、彼らの人生の目的に到達せしめて彼らを幸福にしたのだから。サイがその手を帰依者の頭に置くと、彼の力が彼らに移動し、区別する感覚を破壊し、手に入れられない物を得ることができるようになる。

 

彼は自分の前にひれ伏すバクタたちを、二元性や区別の感覚を全く持たずに抱きしめる。海が河と共にあるように、彼はバクタたちと一つになる。さて、本章の物語に戻ることにしよう。


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シルディ・サイババ(サマディ・マンディールの建設)

2011-10-20 | シルディ・サイババ

  ババは自分がやり遂げたいことについては、何も騒ぎ立てることなしに非常に巧みに状況を整えてしまうので、人々はゆっくりであっても確実に結果が出ることに驚くのであった。サマディ・マンディールの建設はその一例だ。

 

ナグプールの高名な百万長者のシュリーマン・バプサヘブ・ブティは、家族と共にシルディに住んでいた。ある時彼の心には自分の建物を建てるべきだという考えが浮かんだ。それからしばらく後、彼がディクシット・ワダで眠っているときにヴィションを得た。ババが夢に現れて、寺院のあるワダを建設するようにと命じたのだ。

 

そこで眠っていたシャマも似たようなヴィジョンを見ていた。バプサヘブが目を覚ますと、シャマが泣いていたので、彼はそのわけを尋ねた。シャマはこう答えた。「ヴィジョンの中で、ババが現れてはっきりと「寺院のあるワダを建てなさい!私は皆の望みを叶えよう」と命じたのだ。この美しく愛に満ちた言葉を聴いて、私は感極まって、喉が詰まり、涙が溢れてきて、泣き出してしまったのだ」バプサヘブは二人のヴィジョンが似ていることを知って驚いてしまった。金も技術もある彼はそこにワダを建てることを決意し、シャマ(マドハヴラオ)と一緒に計画を練った。

カカサヘブ・ディクシットもまたこれを承認した。そして計画をババの前に持って行くと、ババはすぐにこれを認めた。そこでシャマの監督の元、工事が始められ、一階と床、天井が順調に完成した。ババもまたレンディを行き来する途中に立ち寄って、いくつかの改善点を指摘した。その先の工事はバプサヘブ・ヨグに託された。工事が進んでいる時に、バプサヘブ・ブティの心にある考えが浮かんだ。中央にオーオプンスペースか足場を作って、そこにムルリダール(主クリシュナがフルートを吹いている)の像を安置するというものだった。

彼はこの案をババに伝えて了解を取ってくれないかとシャマに頼んだ。シャマは、ババがちょうどワダの横を通り過ぎた時にこの件について尋ねた。シャマの話を聞いたババは、それを了承してこう言った。「寺院が完成したら、私はそこに住むだろう」それからワダを見つめながら、こう付け加えた。「ワダが出来上がったら、私たちは皆そこに集い、暮らし、語らったり遊んだり、互いに抱き合ったりして楽しく過ごすだろう」それからシャマは、寺院の中央の部屋の基礎工事を始めるのに今は吉兆の時期かとババに尋ねた。ババはそうだと答えた。

それからシャマはそこでココナツを割って工事を始めた。しばらくして工事は完了し、ムルリダールの素晴らしい像を創るよう指示が出された。像が出来上がる前に、事態が急展開した。ババが重篤な病状になったのである。バプサヘブは大変悲しんで落胆し、もしババがなくなってしまったら、自分のワダはババの御足の聖なる一触れで聖別してもらえなくなり、大金(百万ルピー)が無駄になってしまうだろうと考えた。だがババが亡くなる直前に彼が発した、「私をワダに置きなさい」という言葉が、バプサヘブのみならず皆を慰めたのだった。

しばらくしてババの神聖な肉体はムルリダールのために用意されていた中央の寺院に安置され、ババ自身がムルリダールとなり、ワダはサイババのサマディ・マンディールとなったのであった。彼の素晴らしいリーラは図りがたいものだ。

  バプサヘブ・ブティは恵まれており幸運である。彼のワダに、ババの神聖で純粋な肉体は横たわっているのだ。

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように


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シルディ・サイババ(ババの解説)

2011-10-20 | シルディ・サイババ

  

  ババがサンスクリット語を知っているとは誰も思っていなかった。ある日、彼はナナサヘブ・チャンドルカールにギータの詩篇を解説して、皆を驚かせた。この件についてはマムラトダールを退官したB.V.Dev氏がShri Sai Leela誌のCol.IV. Sphuta Vishaya, 563項にマラティ語で短い文章を掲載している。同じように短い文章であるが、Sai Babas Charters and Sayings61項と、The wondrous Saint Sai Baba36項にも掲載されており、どちらもB.V.ナラシンハ・スワミによるものである。B.V.Dev.氏はまた同誌の英語版にも1936927日付けで声明を掲載しており、ナルシンハ・スワミによるDevotees Experiences, Part III66項に掲載されている。Dev氏はこれについてナナサヘブ本人から最初に情報を得ているので、彼の文章を下記に引用しよう。

  ナナサヘブ・チャンドルカールはヴェーダンタをよく学んでいた。彼は解説付きのヴェーダを読んでいた。彼は、ババはサンスクリット語の原文を何も知らないのではないかと思っていた。するとババはある日、本性を現した。それはまだ群集がババの元に群がってくる前の頃で、ババはモスクで帰依者たちと個人的に会っていた。ナナはババの側に座って、ババの足をマッサージし、何かを小声でぶつぶつとつぶやいていた。

 

  ババ:ナナ、君は何をぶつぶつ言っているのかね?

  ナナ:私はスローカ(詩篇)を唱えているのです。

  ババ:何のスローカだね?

  ナナ:バガヴァッド・ギータです。

  ババ:大きな声で言ってみなさい。

  ナナ:それではバガヴァッド・ギータの434節から。

     Tadviddhi Pranipaatena Pariprashnena Sevaya, 

          Upadekshyanti Te Gnyanam Gnyaninastattwadarshinah

   ババ:ナナ、内容を理解しているかね?

  ナナ:はい。

  ババ:それでは意味を言って見なさい。

  ナナ:意味は、「グルにひれ伏し、尋ね、仕え、その知識を学びなさい。そうすればブラフマンの真の知識を得た人々は、知識の教えを与えることができる」

  ババ:ナナ、サンザ全体のそういった主旨はいらない。それぞれの言葉、文法上の力や意味について説明しておくれ。

  そこでナナは一語ずつ説明した。

  ババ:ナナ、ただひれ伏すだけで充分かね?

  ナナ:Pranipaatという言葉に、ひれ伏す以外の他の意味があるのかは分かりません。

  ババ:Pariprashnaとは何のことだね?

  ナナ:質問をすることです。

  ババ:Prashnaはどういう意味かね?

  ナナ:同じです。

  ババ:もしPariprashnaPrashnaと同じ意味だとしたら、なぜヴィヤサはPariという接頭辞を付けたのかね?ヴィヤサは頭を取ったのかね?

  ナナ:’Pariprashna’のほかの意味については分かりません。

  ババ:Sevaとは、どんなSevaのことかね?

  ナナ:私たちがあなたに対してしているようなことです。

  ババ:そのような奉仕をするだけで充分かね?

  ナナ:Sevaという言葉がそれ以上何を示唆しているのかは分かりません。

  ババ:次の行のUpadekshyanti te Gnyanamでは、Gnyanamの代わりに使える他の言葉はあるかね?

  ナナ:はい。

  ババ:どんな言葉だね?

  ナナ:Agnyanamです。

  ババ:その言葉を使って、詩篇の意味が成り立つかね?

  ナナ:いいえ。シャンカラのバーシャはそのような解釈をしていません。

  ババ:彼がしていなくても気にしなくて良い。より意義のある詩篇になるとしたら、Agnyanという言葉を使うことに異論があるかね?

  ナナ:Agnyanに置き換えるとどんな解釈になるのか、私には分かりません。

  ババ:なぜクリシュナはアルジュナをタットヴァダルシスの元へ差し向けて、平伏させ、質問をし、奉仕をさせたのかね?クリシュナがタットヴァダルシであり、実際Gnyanそのものではなかったかね?

  ナナ:はい、そうです。でも私はなぜ彼がアルジュナをGnyanisに委ねたのかよく分かりません。

  ババ:君はこれを理解していないのかね?

  ナナは恥をかかされ、プライドを傷つけられた。そこでババは説明を始めた。

  (1)Gnyanisの前にただひれ伏すだけでは充分ではない。私たちはサドグルにサルヴァスヴァ・シャラナガティ(完全に身を委ねること)をしなくてはならない。

  (2)ただ質問をするだけでは充分ではない。質問は不適切な動機や態度でしてはならないし、グルを騙してその答えの間違いを捉えたり、無駄に好奇心から行ってはならない。質問は、霊的な進歩と解脱を達成する目的を持った真面目なものでなくてはならない。

  (3)セヴァは好きな時に申し出て嫌なときは断ればいいという気持ちで行うものではない。セヴァを行う者は、肉体の主人は自分ではなくグルであり、彼に奉仕を行うためだけにあるのだと感じなくてはならない。

  このようにしていれば、前のサンザの中でどのような知識について言及していたのかサドグルは君に示してくれるだろう。

  ナナはグルがAgnyanを教えるというくだりの意味が理解できなかった。

  ババ:Gnyan Upadesh、すなわち、悟りを授けるとはどういうことだろうか?無知を打ち砕くことがGnyanである。(詩篇Ovi  ギータ1866節についての1396年の解説書ドニャネシュワリではこう述べている:「おお、アルジュナ、もしも夢や眠りが消えてしまったら、君は君自身だ。無知を取り除くということは、そのようなことだ」また、ギータ516節についてOvi83ではこう述べている。「無知を破壊するということを除いて、Gnyanには何か異なる、独自の意味はあるだろうか?」)闇を追い払うと光が現れる。二元性(ドワイタ)を破壊すると、非二元性(アドワイタ)が現れる。私たちがドワイタを破壊することについて語るときはいつでも、アドワイタについて語ることになる。もし私たちがアドワイタの状態を理解しなくてはならないのなら、私たち自身の中にあるドワイタの感覚を取り除かなくてはならない。それがアドワイタの状態を理解するということだ。アドワイタについて語ることができる者で、ドワイタの状態に留まっているものはいるかね?非二元性の状態に到達しない限り、どうやってそれを知り理解することができようか?

 

 

  シシュヤ(弟子)はサドグルと同様にGnyanの具現化したものである。両者の違いはその態度にある。サドグルは高い悟りの境地にあり、素晴らしい超人的なサットヴァ(存在)で、無比の能力とアイシュヴァルヤ・ヨガ(神聖な力)を持っている。サドグルはニルグンで、サットチットアナンドである。彼は人類を向上させ世界を高めるために人間の形を取っている。だが彼の真のニルグンの性質は少しも壊されることがない。彼の存在(あるいは真実)、神聖な力、智慧は衰えることがない。弟子も実際には同じスワルパなのである。

だが無知の姿で数え切れないほどの生を繰り返すサンスカールに覆われて、自分がシュッダ・チャイタニヤ(純然たる意識)(バガヴァッド・ギータCh.5615節参照)であるということが隠されているのだ。その点で、彼の受けた印象はこうだ。「私はジーヴァであり、おとなしく貧しい生き物である」グルはこのような無知の横枝を根こそぎにして、ウパデシュ、教えを授ける必要があるのだ。果てしない世代交代の中で、自分はジーヴァであるという考えにがんじがらめになった弟子に対して、グルがあなたは神であり、全能で豊かであるという教えを授けるのである。

 

そこで彼は自分が本当に神であることを悟るのである。弟子が、自分は肉体であり、生き物(ジーヴァ)であり、エゴであり、神(パラマートマ)や世界は自分とは異なると思い込んでいる、この永久に続く思い違いが、数え切れないほどの過去世から受け継がれてきた無知なのである。これに基づいた行動から、彼は喜びや悲しみ、また両方の入り混じった感情を味わう。この思い違い、間違い、根本の無知を取り除くために、彼は質問を始めなくてはならない。どのようにして無知は生じるのか?それはどこにあるのか?これを彼に示すことが、グルのウパデシュと呼ばれている。次に挙げるのはAgnyanの例だ。

 

 

 1.私はジーヴァ(生き物)である。

 2.肉体が魂である(私は肉体である)

 3.神と世界はジーヴァとは異なる。

 4.私は神ではない。

 5.肉体は魂でないことを知らない。

 6.神と世界はジーヴァと一つであることを知らない。

  このような間違いが眼前にさらされない限り、弟子は神やジーヴァ、世界、肉体とは何であるかを学ぶことができないし、それらがどのように相互に関係しているのか、それらは互いに異なるものなのか、それとも同一なのかについても、知ることができない。なぜGnyanはジーヴァ(Gnyanムルティ)に授けられる必要があるのか?ウパデシュは彼に間違いを示し、その無知を破壊することである。


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シルディ・サイババ(第三十九章 前置き)

2011-10-20 | シルディ・サイババ

スリ・サイがマハサマディに入るまで暮らしていたシルディもドワルカマイも恵まれている。ババが恩恵を施し、住み暮らしたシルディの人々は恵まれている。

 

シルディは小さな村であったが、彼が現れたお陰で重要な場所となり、ティルタ、聖地、巡礼の地となった。同様にシルディの女性たちは恵まれている。

 

彼らのババに対する純粋で専心の信仰は祝福されている。彼女らは沐浴をしながら、粉をひきながら、とうもろこしを砕きながら、様々な家事をしながら、ババの栄光を歌ったのである。


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