ババがサンスクリット語を知っているとは誰も思っていなかった。ある日、彼はナナサヘブ・チャンドルカールにギータの詩篇を解説して、皆を驚かせた。この件についてはマムラトダールを退官したB.V.Dev氏が”Shri Sai Leela”誌のCol.IV. Sphuta Vishaya, 563項にマラティ語で短い文章を掲載している。同じように短い文章であるが、”Sai Baba’s Charters and Sayings”の61項と、”The wondrous Saint Sai Baba”の36項にも掲載されており、どちらもB.V.ナラシンハ・スワミによるものである。B.V.Dev.氏はまた同誌の英語版にも1936年9月27日付けで声明を掲載しており、ナルシンハ・スワミによる”Devotees’ Experiences, Part III”の66項に掲載されている。Dev氏はこれについてナナサヘブ本人から最初に情報を得ているので、彼の文章を下記に引用しよう。
ナナサヘブ・チャンドルカールはヴェーダンタをよく学んでいた。彼は解説付きのヴェーダを読んでいた。彼は、ババはサンスクリット語の原文を何も知らないのではないかと思っていた。するとババはある日、本性を現した。それはまだ群集がババの元に群がってくる前の頃で、ババはモスクで帰依者たちと個人的に会っていた。ナナはババの側に座って、ババの足をマッサージし、何かを小声でぶつぶつとつぶやいていた。
ババ:ナナ、君は何をぶつぶつ言っているのかね?
ナナ:私はスローカ(詩篇)を唱えているのです。
ババ:何のスローカだね?
ナナ:バガヴァッド・ギータです。
ババ:大きな声で言ってみなさい。
ナナ:それではバガヴァッド・ギータの4章34節から。
‘Tadviddhi Pranipaatena Pariprashnena Sevaya,
Upadekshyanti Te Gnyanam Gnyaninastattwadarshinah’
ババ:ナナ、内容を理解しているかね?
ナナ:はい。
ババ:それでは意味を言って見なさい。
ナナ:意味は、「グルにひれ伏し、尋ね、仕え、その知識を学びなさい。そうすればブラフマンの真の知識を得た人々は、知識の教えを与えることができる」
ババ:ナナ、サンザ全体のそういった主旨はいらない。それぞれの言葉、文法上の力や意味について説明しておくれ。
そこでナナは一語ずつ説明した。
ババ:ナナ、ただひれ伏すだけで充分かね?
ナナ:’Pranipaat’という言葉に、’ひれ伏す’以外の他の意味があるのかは分かりません。
ババ:’Pariprashna’とは何のことだね?
ナナ:質問をすることです。
ババ:’Prashna’はどういう意味かね?
ナナ:同じです。
ババ:もし’Pariprashna’が’Prashna’と同じ意味だとしたら、なぜヴィヤサは’Pari’という接頭辞を付けたのかね?ヴィヤサは頭を取ったのかね?
ナナ:’Pariprashna’のほかの意味については分かりません。
ババ:’Seva’とは、どんな’Seva’のことかね?
ナナ:私たちがあなたに対してしているようなことです。
ババ:そのような奉仕をするだけで充分かね?
ナナ:’Seva’という言葉がそれ以上何を示唆しているのかは分かりません。
ババ:次の行の’Upadekshyanti te Gnyanam’では、’Gnyanam’の代わりに使える他の言葉はあるかね?
ナナ:はい。
ババ:どんな言葉だね?
ナナ:Agnyanamです。
ババ:その言葉を使って、詩篇の意味が成り立つかね?
ナナ:いいえ。シャンカラのバーシャはそのような解釈をしていません。
ババ:彼がしていなくても気にしなくて良い。より意義のある詩篇になるとしたら、’Agnyan’という言葉を使うことに異論があるかね?
ナナ:’Agnyan’に置き換えるとどんな解釈になるのか、私には分かりません。
ババ:なぜクリシュナはアルジュナをタットヴァダルシスの元へ差し向けて、平伏させ、質問をし、奉仕をさせたのかね?クリシュナがタットヴァダルシであり、実際Gnyanそのものではなかったかね?
ナナ:はい、そうです。でも私はなぜ彼がアルジュナをGnyanisに委ねたのかよく分かりません。
ババ:君はこれを理解していないのかね?
ナナは恥をかかされ、プライドを傷つけられた。そこでババは説明を始めた。
(1)Gnyanisの前にただひれ伏すだけでは充分ではない。私たちはサドグルにサルヴァスヴァ・シャラナガティ(完全に身を委ねること)をしなくてはならない。
(2)ただ質問をするだけでは充分ではない。質問は不適切な動機や態度でしてはならないし、グルを騙してその答えの間違いを捉えたり、無駄に好奇心から行ってはならない。質問は、霊的な進歩と解脱を達成する目的を持った真面目なものでなくてはならない。
(3)セヴァは好きな時に申し出て嫌なときは断ればいいという気持ちで行うものではない。セヴァを行う者は、肉体の主人は自分ではなくグルであり、彼に奉仕を行うためだけにあるのだと感じなくてはならない。
このようにしていれば、前のサンザの中でどのような知識について言及していたのかサドグルは君に示してくれるだろう。
ナナはグルがAgnyanを教えるというくだりの意味が理解できなかった。
ババ:Gnyan Upadesh、すなわち、悟りを授けるとはどういうことだろうか?無知を打ち砕くことがGnyanである。(詩篇Ovi – ギータ18章66節についての1396年の解説書ドニャネシュワリではこう述べている:「おお、アルジュナ、もしも夢や眠りが消えてしまったら、君は君自身だ。無知を取り除くということは、そのようなことだ」また、ギータ5章16節についてOvi83ではこう述べている。「無知を破壊するということを除いて、Gnyanには何か異なる、独自の意味はあるだろうか?」)闇を追い払うと光が現れる。二元性(ドワイタ)を破壊すると、非二元性(アドワイタ)が現れる。私たちがドワイタを破壊することについて語るときはいつでも、アドワイタについて語ることになる。もし私たちがアドワイタの状態を理解しなくてはならないのなら、私たち自身の中にあるドワイタの感覚を取り除かなくてはならない。それがアドワイタの状態を理解するということだ。アドワイタについて語ることができる者で、ドワイタの状態に留まっているものはいるかね?非二元性の状態に到達しない限り、どうやってそれを知り理解することができようか?
シシュヤ(弟子)はサドグルと同様にGnyanの具現化したものである。両者の違いはその態度にある。サドグルは高い悟りの境地にあり、素晴らしい超人的なサットヴァ(存在)で、無比の能力とアイシュヴァルヤ・ヨガ(神聖な力)を持っている。サドグルはニルグンで、サットチットアナンドである。彼は人類を向上させ世界を高めるために人間の形を取っている。だが彼の真のニルグンの性質は少しも壊されることがない。彼の存在(あるいは真実)、神聖な力、智慧は衰えることがない。弟子も実際には同じスワルパなのである。
だが無知の姿で数え切れないほどの生を繰り返すサンスカールに覆われて、自分がシュッダ・チャイタニヤ(純然たる意識)(バガヴァッド・ギータCh.56章15節参照)であるということが隠されているのだ。その点で、彼の受けた印象はこうだ。「私はジーヴァであり、おとなしく貧しい生き物である」グルはこのような無知の横枝を根こそぎにして、ウパデシュ、教えを授ける必要があるのだ。果てしない世代交代の中で、自分はジーヴァであるという考えにがんじがらめになった弟子に対して、グルが”あなたは神であり、全能で豊かである”という教えを授けるのである。
そこで彼は自分が本当に神であることを悟るのである。弟子が、自分は肉体であり、生き物(ジーヴァ)であり、エゴであり、神(パラマートマ)や世界は自分とは異なると思い込んでいる、この永久に続く思い違いが、数え切れないほどの過去世から受け継がれてきた無知なのである。これに基づいた行動から、彼は喜びや悲しみ、また両方の入り混じった感情を味わう。この思い違い、間違い、根本の無知を取り除くために、彼は質問を始めなくてはならない。どのようにして無知は生じるのか?それはどこにあるのか?これを彼に示すことが、グルのウパデシュと呼ばれている。次に挙げるのはAgnyanの例だ。
1.私はジーヴァ(生き物)である。
2.肉体が魂である(私は肉体である)。
3.神と世界はジーヴァとは異なる。
4.私は神ではない。
5.肉体は魂でないことを知らない。
6.神と世界はジーヴァと一つであることを知らない。
このような間違いが眼前にさらされない限り、弟子は神やジーヴァ、世界、肉体とは何であるかを学ぶことができないし、それらがどのように相互に関係しているのか、それらは互いに異なるものなのか、それとも同一なのかについても、知ることができない。なぜGnyanはジーヴァ(Gnyanムルティ)に授けられる必要があるのか?ウパデシュは彼に間違いを示し、その無知を破壊することである。