癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


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シルディ・サイババ(パンダルプールの弁護人)

2011-10-06 | シルディ・サイババ

本章を締めくくるのは、ババは全知であり、彼は人々の過ちを正し、正しい道に向かわせるためにそれを活かすのだということを示す短い物語である。ある時パンダルプールの弁護人がシルディにやってきて、マスジッドに行きサイババに会って、その足元にひざまずいた。ダクシナを要求されることはなかったので、彼は隅へ行って座り、話を聞きたがっていた。

 

するとババは彼の方を向いて言った。「なんと狡猾な者たちだ!彼らは足元にひざまずいてダクシナを差し出すが、裏では人々を口汚くののしっている。驚くべきことではないか?」この言葉は弁護人に向けられたもので彼が受け取るべきものだった。だが誰もその言葉が理解できなかった。

 

弁護人はその意味を把握したが黙っていた。彼らがワダに戻るとき、弁護人はカカサヘブ・ディクシットに言った。「ババの言ったことは完全に正しい。私は他人の悪口を言ったり憤慨させることにふけってはいけないのだ。

 

パンダルプールの副判事(ノールカール氏)がここにやって来て病の治癒のために滞在していたとき、パンダルプールの酒場ではそれについてあれこれと議論がなされた。副判事の煩っている病気は、医薬品を使わず単にサイババのところに行くだけで直ることなどありうるのか、また副判事のような教育のある人がそのような方法に頼ることが適切であるのか、といったような議論だった。

 

副判事もサイババも同様に批判された。私もこれに加わっていたので、サイババは今私の行いが間違っていたことを示して見せたのです。これは私に対する譴責ではなく、どのような中傷や他人の悪口にもふけってはならず、不必要に他人の問題に首を突っ込むべきでないという教訓であり、親切な行為なのです」

 

  シルディはパンダルプールから50kos(4.8km)ほど離れていたが、ババの全知は酒場で起こっていたことを知っていた。間に存在する川やジャングルや山は彼の全てを見通す目には何の障害にもならず、万人の心を読むことができたので、彼に隠し立てできることは何一つなかった。

 

距離に関係なく全ての事柄が彼には日の光のように明らかに、はっきりと開かれていていた。離れていようと近くにいようと、人はサイババの全てを見通す瞳から逃れることはできなかった。この事例から、弁護人は他人のことを悪く言ったり、不必要に批判してはならないという教訓を得た。そして彼の悪い性癖は完全に取り除かれ、正しい道に向かったのである。

 

  この物語は弁護人の例であるが、皆に当てはまるものである。皆がこの教訓を心に留め役に立てるのがよい。

 

  サイババの偉大さは計り知れないものであり、彼の素晴らしいリーラも同様である。彼の人生もまた同じであり、なぜなら彼はパラ・ブラフマン(全能の神)の化身であるからだ。

 

スリ・サイに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように


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シルディ・サイババ(9つの糞(ナヴァ・ヴィダ・バクティ)のたとえ話)

2011-10-06 | シルディ・サイババ

「ある時商人がここへやってきた。彼の前で雌馬が糞(9つの糞)を落とした。自分のドタール(上着)を広げて熱心に商売をしていた商人は、9つの糞も一緒にその中に包み込んで、心の平安を得た」

                         

  ペタンカール氏はこの話の意味が分からなかったので、ガネーシュ・デモダール別名ダダ・ケルカールに「ババが言っているのは何のことですか?」と尋ねると、彼は「私にも皆目分かりませんが、私が理解した範囲でお話ししましょう。

 

雌馬は神の恩寵で、9つの糞は9つの種類のバクティ、すなわち(1)シュラヴァン(聞くこと)(2)キルタン(祈ること)(3)スマラン(思い出すこと)(4)パダセヴァン(御足に助けを求めること)(5)アルチャン(礼拝)(6)ナマスカール(敬礼)(7)ダーシャ(奉仕)(8)サキヤム(友情)(9)アートマニエダン(自己の放棄)です。

 

これらが9つのバクティの種類です。このうち一つでも信仰を持って実践するなら、主ハリはお喜びになって帰依者の家にご自身を顕現させます。全てのサーダナ、すなわちジャパ(声を発する礼拝)、タパ(苦行)、ヨガの実践や、経典を学んだり解釈したりすることは、バクティすなわち信仰心を伴わなければ、全く無意味なのです。

 

ヴェーダの知識や偉大なドゥヤニとしての名声は単なる形式的なバジャン(礼拝)に過ぎず、何の役にも立ちません。自分自身をこの商人、または真実を探求する者として考えて、彼のように熱心に9つの信仰心を集め養いなさい。そうすればあなたは心の安定と平安を得ることができるでしょう」

 

  翌日ペタンカールがババの元へ挨拶をしに行くと、ババは彼に9つの糞は集めたかと尋ねた。そこで彼は、自分は貧しい身分なので、先にババに恩寵を戴いてからなら、集めることができるでしょうと答えた。そこでババは彼を祝福し、彼は平和と幸福を得ることができるだろうと言って彼を元気付けた。これを聞いたパタンカールは大喜びして幸福な気持ちになった。

 

 


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シルディ・サイババ(アナントラオ・パタンカール)

2011-10-06 | シルディ・サイババ

プーナからやってきたアナントラオ・パタンカールという名の紳士はババに会いたいと願っていた。彼はシルディにやってきて、ババのダルシャンを受けた。彼は満たされ大変喜んだ。彼はババの足元にひざまずき、適切に礼拝を終えた後、ババに言った。

 

「私はたくさん書物を読み、ヴェーダやヴェーダンタやウパニシャドを学び、全てのプラナについても学びましたが、心に平安が訪れず、私が学んだことは全て無駄だったのではないかと感じています。

 

純粋で無知で信仰深い人々の方が私より優れています。心が穏やかにならない限り、本を読んでも何の役にも立ちません。私は大勢の人々から、あなたはほんの一瞥や説得力のある言葉だけで大勢の人に容易く心の平安を与えていると聞き、やってきました。どうか私を憐れんで祝福してください」するとババは次のようなたとえ話を始めた。

 


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シルディ・サイババ(タクール氏)

2011-10-06 | シルディ・サイババ

V.H.タクールB.A.氏は国税局の職員で、一度査察団に同行してベルガオン(マイソール州南部)の近郊のヴァドガオンという町にやってきたことがある。そこで彼はカナリーズの聖者(アッパ)に会い、彼にお辞儀をした。

 

聖者はニシャル・ダース(ヴェーダンタについての定評のある作品)ヴィチャル・サガールという書物の一部について、観衆に説明をしていた。タクールが別れを告げようとすると、聖者は彼にこう言った。「あなたはこの本を学びなさい。そうすればあなたの望みは叶い、将来職務を果たしに北へ行くときに、幸運にも偉大な聖者に出会うことになるでしょう。そのときには彼はあなたに進むべき道を示し、心に平安を与えて幸せにしてくれることでしょう」

                                                       

  それから彼はジュナールに転属になったので、ナーン・ガートを渡らなくてはならなかった。このガートは急勾配で険しく、バッファロー以外の乗り物では渡ることはできなかった。

 

そこで彼はバッファローに乗ってガートを越えて行ったが、それは非常に不便な旅であった。それから彼は昇進してカルヤンに転属になり、そこでナナサヘブ・チャンドルカールと出会った。彼はサイババについてたくさんのことを聴き、ババに会いに行きたいと願うようになった。

 

翌日、ナナサヘブはシルディに行く用事があったので、タクールに同行するかと尋ねた。彼は民事裁判でタナの民事法廷に行かなくてはならず、同行することはできなかった。そこでナナサヘブは一人で行った。タクールはタナに行ったが、裁判は延期になっていた。彼はナナサヘブに同行しなかったことを後悔した。

 

それでも彼はシルディに向かうと、現地に到着した時には、ナナサヘブは前日に発ってしまったことが分かった。そこで出会った彼の幾人かの友人たちが、彼をババのところへ連れて行ってくれた。彼はババに会い、その足元にひざまずくと、彼の心は喜びで溢れた。

 

彼の目は涙でいっぱいになり、髪の毛は逆立った。しばらくして全知のババはこう言った。「ここに至る道はカナリーズの聖者アッパの教えのように易しいものではなく、バッファローによるナーン・ガート越えよりも厳しい。この霊性の道では、あなたは最大の努力をしなくてはならない、とても困難な道だ」タクールは彼にしかわからないこうした意味のある言葉を聴いたとき、喜びの感情に圧倒された。

 

彼はカナリーズの聖者の言葉が現実になったことを知ったのである。それから両手を合わせ、頭をババの足に置くと、彼は自分が受け入れられ祝福されますようにと祈った。するとババは言った。「アッパが言ったことは全て正しかったが、そこから学んだことは実践され生かされなくてはならないよ。ただ読んだだけではだめだ。読んだことを考え実行しなければ意味がない。

 

グルの恩寵なしにただ本を学んだだけでは、自己認識には到達できないのだ」タクールは論理的な部分をヴィチャル・サガールから学び、その実践方法はシルディで示されたのであった。次に記述する物語はこの真実をより力強く伝えてくれるものだ。


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シルディ・サイババ(聖者なる人物)

2011-10-06 | シルディ・サイババ

大昔からこの世には聖者が存在していた。様々な場所に様々な聖者が現れて(自らを顕現させて)自分たちに割り当てられた使命を果たしてきたが、彼らは別々の場所で働いているにもかかわらず、まるで一つであるかのようなのだ。

 

彼らは全能の主の共通の権威の元に調和して働いていており、それぞれが自らの場所で何をしているかをよく知っていて、必要な場面では補完的に働いている。このことを記した例を次に挙げる。

 


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シルディ・サイババ(第二十一章 前置き)

2011-10-06 | シルディ・サイババ

概して、過去世の徳の積み重ねによる幸運のおかげで、私たちは聖者の近くに座してその恩恵を被ることができるとされている。ヘマドパントはこの原則を証明すべく、自らの体験を綴っている。

 

彼はムンバイ郊外のバンドラ地区の行政長官を長年勤めていた。ピール・モウラナという名の有名なイスラム教の聖者がそこに住んでおり、ヒンドゥー教や、パルシー教など、数多くの異なる宗教の教徒たちが彼のダルシャンを受けに来ていた。

 

ユヌスという名のムジャヴァール()は彼に会いに行くようにと、ヘマドパント何度も薦めていた。だが色々な理由で彼は会いに行くことができなかった。何年も後に、彼の順番がやってきて、彼はシルディに呼ばれ、永久にサイババのダルバールに暮らすことになったのである。

 

不運な者たちはこのように聖者と関わることはない。幸運な者だけがその機会を得られるのである。

 


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