癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


人を、そして自分を癒し真なる喜びをもたらす
   
        人生の生き方を学ぶ 癒しの森湯布院

お問い合わせ先

2011-08-31 | 聖者

                        ☆お問い合わせ先☆ 

メール        siva@tuba.ocn.ne.jp      お気軽にメールして下さい。

郵便番号       879-5101

住所          大分県由布市湯布院町塚原135番地

施設名         癒しの森湯布院

代表者         須藤 健三

所在地         大分県由布市湯布院町塚原高原135番地(山荘 四季庵の裏 

電話           0977-85-2332

FAX                 々

携帯電話        090-3327-8373 

            ☆お振込先☆

☆ゆうちょ銀行

名義人      須藤 健三(スドウ ケンゾウ)

記号        17210

番号        11131921

☆大分みらい信用金庫  湯布院支店

名義人       イヤシノモリ スドウ ケンゾウ

普通口座      9163240 

☆ゆうちょ銀行

名義人       星野 史(ホシノ フミ)

記号         19990-2

番号         2190901


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ヒマラヤ聖者:プジャリ行  補足(バラモン)

2011-08-31 | 聖者

 

今回開催されるヒマラヤ聖者行のプジャリ行とアストロロジーの教えはバラモンの家系に伝わっている教えであり、ヴェーダーの聖典の教えであります。講師である聖者は勿論正真正銘のカースト制の最高位であるバラモン階層であり、アストロロジーの大家でもあります。 

 

バラモンを調べて分かったのですが、バラモンはブラフマー神と繋がっており、プージャもアストロロジーもブラフマー神のエネルギーを使う見たいです。また、火の儀式の中に出てくるヤジュニュアもヴェーダーの聖典の中の一つの教えで、ウパニシャッド(奥義)もヴェーダーの聖典の中の一つの教えです。

 

そして、同じ聖者でもバラモン階層でないと、一般大衆を教義することが出来ない伝統が今でも守られているとの事で、このバラモンの家系に何千年にも渡って継承されている教えは、相当価値あるものであると推測出来ます。し、プージャの材料である、薬草やオイルやその他諸々の物も全て揃っているのは「神の里」だけだそうです。特にカルマの解毒剤に使う薬草の一部は他の地区では、全て絶えてしまい、今や幻の薬草と呼ばれているとの事です。コブラ草も貴重な薬草です。

 

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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ヒマラヤ聖者:心と食物

2011-08-31 | 聖者

ウパニシャッドの教え

その人の食べる物が純粋であれば、性質も純粋になる。性質が純粋になれば、記憶もしっかりする。しっかりした記憶を持てば、すべての束縛を断ち切れる、とウパニシャッドでは述べている。

 

心は摂取された食べ物からつくられる。食物の最も繊細な部分は上に登り、ハートに入り、そこから血管に入る。これに基づいて、言葉などの運動器官や感覚器官の全ての働きが生ずる。このようにして心は力を得る。食べ物によって強化された心は、物質であって永遠ではない。

 

ウッパニシャッドの哲学者は、心の生成には食べ物が必要だと考えた。「摂取された食べ物は三つの異なったものに転換される。粗大な思い部分は排泄物となる。中間の部分は血や肉となり、最も細やかな部分は心となる。」

 

ちょうどクリームを攪拌すると、細やかな部分が浮いてバターに変わるように、摂取された食べ物は、心に変えられるのだ。かの「バガヴァッド・ギーター」にも三つの性質が述べられている。サットワ(純粋)、タジャス(動的)、タマス(鈍い)である。この三つの異なった性質の食べ物の為だとされているのである。

 

心の質は食べ物の質に左右される

食べ物は、心と密接して直接の関わりがあり、心のあり方に重要な役割を果たしている。ラジャスの食物は心を興奮させる。サットワな食事は心を落ち着かせる。肉食獣であるトラと、草食の牛の性質の違いに注目しなさい。食べ物は心に重大な影響を与えるのである。

 

我々は日々、この事実を明確に見聞きしている。重い豪華な、消化のよくない食事の後で、心を支配するのは難しい。心は、サルのように、終始走ったり、さまよったり、飛び跳ねたりする性質を持っている。また、アルコールは心に非常に激しい興奮を起こす。

 

一方、食べ物は瞑想にも重要な役割を果たすことがわかる。良い瞑想をするためには、食べ物は軽く、サットワで、滋養のあるものでなければならない。体はアンナマヤという食べ物の鞘でできている。果物・ミルクなどの軽いサットワ食は、対象と主観の消えた状態、知る者、知ること、知られる者が消え去った。精神集中へと導いてくれる。

 

心の質が摂取する食べ物に依存している以上、瞑想生活を送る修行者や、俗世界のままの在家行者は、サットワな食生活を送るように最大の注意を払うことが必要である。

 

害のある食べ物・・・・・さまざまな食物は、脳の各部位に多種多様の影響を及ぼす。スパイスの効いた食物、酸っぱい物、玉ねぎ、ニンニク、ワイン、魚、肉、からし油などは情欲を盛んにする為、避けるべきである。修行者は特にこれらの食物は避けること。

 

宗教の修行者(サーダカ)は絶対に肉、魚、アルコールなどを摂ってはならない。これらの食べ物は心を俗にし、心を興奮させるから修行の妨げとなる。また、重い食事は、眠気と怠情(=怠け・ぐうたら)をもたらし、力を弱める。砂糖は適度に摂るべきで、できればやめた方が良い。

 

瞑想を助ける食べ物・・・・・ミルク、果物、アーモンド、氷砂糖、バター、オート麦、ヒヨコマメ、パンなどは、みな瞑想を助ける。ヒマラヤに豊富にあるカンダムーラは巨大な澱粉質の根菜であり、乾燥ショウガの粉は修行者にはとても良い。ミルクに入れて飲む。心は爽やかになり、消化を助ける。ヨーギーはこれを良く摂るのである。三つの果実の粉である。ホリタキ、アムラ、バハラを水に溶いてヨーギーは摂取するが、便秘によく、身体を冷やし、夢精に効く。ヨーガを行う者はよく、ホリタキを咬む。精液を保ち、夢精を防ぐ。塩なしで煮たり、火で焼いたジャガイモはとても良い。

 

ゆっくり、着実に 

何事も急激に変わるより、ゆっくりと変わって行った方が良い。特に食べ物は、急に変えてはいけない。徐々に変えて行くべきである。体に反動を起こさせないような変え方が良い。自然は飛び越して前には進まない。ゆっくり、着実に、一歩一歩前進していく。

 

断食のしすぎは、体を極端に弱くする。これでは何の修行もできない。正しく考えることができなくなり、論理的にものを考えたり判断できなくなってしまう。何でも自分に合った食物を摂って良い。あまりこだわらないことである。簡単に手に入って、自分の体に合っていれば、どんな食物も害は及ぼさない。

 

いつ食物は必要でなくなるか 

食物はエネルギーの塊である。水は体にエネルギーを補給し、空気もまた、エネルギーを供給する。我々は何日間も、食べ物なしでも生きられるが、ほんの数分間でさえ、空気なしでは生きられない。酸素はさらに重要である。体を維持するのに必要なのはエネルギーそのものである。仮に、もし他からエネルギーを摂取できれば、食物はまったく要らないことになる。

 

ヨーギーはネクター、すなわち甘露を飲むことによって、食べ物なしで体を維持することができる。ニャーナ・ヨーガでは、純粋で強力な意志の力で、直接宇宙の源からエネル儀0を得る事ができ、食べ物なしに体を維持できるといわれている。いったん、宇宙のエネルギーから直に必要なエネルギーを得る方法を知れば、このエネルギーだけで、どんな長時間でも体を維持できるようになる。

 

蜜蜂のような乞食 

心は食べ物の細やかな部分からなっていると先に述べた。心は食物を与えてくれる人に執着する。例えば、友人と一緒に、一、二ヶ月間一緒に住んで、食事を共にすれば、心は食物を与えてくれる友人に執着するようになる。このため、サンニャーシン、すなわち修行者は、常に四、五軒の家から食べ物の施しを受ける。

 

そうすることで執着を離れて、村から村へと托鉢の旅をするのである。これが蜜蜂の乞食である。巡礼生活の間は、一つの村に一日以上留まってはならない。すぐれた修行者はこのような施し物で生活し、心はガンガーの水のように清く、どんな執着からも完全に自由である。

 

対象に執着することは、束縛につながる。不自由に束縛されると、行きながら死の苦しみを味わう。だから、執着は諸悪の根源である。執着を捨てた時、明かりが見える。

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)


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スワミ:水のマントラを使った癒し方

2011-08-31 | 聖者

水の中で、エネルギーをひとつの身体から、もう一つの身体へと流通させる必要がある。このヒーリングは、外のプールか、あるいはヒーラーとその助手が患者を支えられるように、融通がきく静かで大量の水のあるところで、行わなければならない。 

ヒーリングの最中は、いかなる時も、患者はヒーラーに触る事はできません。あなたと相手は身体の90%以上を水に浸けて座らねばなりません。大きな浴槽、プール、湖の一方の端から始め、マントラを108回患者の顔を見ながら唱えなさい。 

患者は電気ショックを感じるでしょう。ヒステリックか、制御不能になるかも知れません。貴方には、この時患者の身体を押さえている二人の助手が必要です。患者に触れてはいけません。彼らに触らせてもいけません。 

マントラを唱え続け、患者の顔を見続けなさい。15~20分唱えて放電しなさい。もし、屋内のプールや水のあるところでヒーリングをしたのなら、完全に水を流し出し、放電の前に新しい水を張らなければなりません。屋外のプールなら水を流し出す必要はありません。太陽が自然に水を浄化するからです。

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)


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シルディ・サイババ(水を油に変える)

2011-08-30 | 聖者

サイババは光を非常に好んだ。彼は小売店主たちにいつも油を借りて、マスジッドと寺院では夜中ランプを灯していた。これはしばらく続いた。油を無料で提供していたバニアス(小売店主)たちは、あるとき集まって彼にはもう油をやらないことに決めた。

いつものようにババが油を乞いに行くと、彼らは皆はっきり”NO”と言った。ババは狼狽することもなくマスジッドに戻ると、ランプに乾いたろうそくの芯を置いた。バニアスらは好奇心から彼をじっと見ていた。ババはほんの数滴の油の入ったタムレル(ブリキのポット)を手に取り、そこへ水を入れてそれを口に入れ、それから容器の中へ戻した。

このようにしてブリキのポットを清めると、彼はブリキのポットから水をランプに注ぎ、灯りをつけた。ランプは燃え始めると、夜中燃え続けたため、これを見ていたバニアスたちはびっくり仰天した。バニアスたちは後悔してババに謝ると、ババは彼らを許し、これからはもっと信心深くなるよう言った。

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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シルディ・サイババ(偽者グル、ジャヴハール・アリ)

2011-08-30 | 聖者

前述したレスリング勝負から5年の後、アーメドナガールからジャヴハール・アリとそこでいう名のファーキルが弟子を連れてラハタへやってきて、ヴィラバドラ寺院の近くにあるバクハル(広々とした部屋)に滞在した。ファーキルは博学で、コーランの全てを暗誦でき、美しい弁舌を披露した。

宗教的で信仰深い多くの村人たちは彼の元へやってきて、彼を崇め始めた。こうした人々の支援があって、彼はヴィラバドラ寺院の近くにイドガー(壁に囲まれた土地でイスラム教徒がイド日に祈りを捧げる場所)を建設した。この件では少々諍いがあって、そのためにジャヴハール・アリはロハタを去らなくてはならなくなった。

そこで彼はシルディにやってきて、ババと共にマスジッドに住んだ。人々は彼の美しい弁舌に心を奪われ、彼はババのことを自分の弟子と呼び始めた。ババはこれには反論せず、彼のチェラ(弟子)であることに同意していた。それからグルとチェラはラハタに戻って共に暮らすことにした。

グルは自分の弟子の真価を全くわかっていなかったが、弟子の方はグルの欠点を見抜いていた。だがババは彼を見下すことなく、彼の行動を注意深く見ていた。ババはマスターに色々と奉仕までした。彼らは時々シルディにやってきたが、主な滞在場所はロハタだった。シルディにいるババを愛する帰依者たちは、ババが彼らを置いてロハタにいることが気に入らなかった。

そこで彼らは代表団を作り、ババをシルディに連れ戻そうとした。彼らはイドガーの側でババに出くわし、自分たちがやってきた目的を話すと、ババはファーキルは怒りっぽく不機嫌で自分の元を離れないだろうから、ファーキルが戻る前に彼らだけでシルディに戻る方が良いと言った。そのようなことを話していると、ファーキルが現れて、自分の弟子を連れて行こうとする彼らにカンカンになって怒った。

そこで熱い口論が巻き起こり、最終的にはグルとチェラの両者がシルディに戻るのがよいということになった。そして彼らはシルディに戻り共に暮らした。だが数日後、グルはデヴィダスに試されて、欠陥のあることが暴かれたのだった。

ババが結婚式の一団に混じってシルディにやってくる12年前、10歳か11歳だったデヴィダスはシルディに来てマルティ寺院に住んでいた。デヴィダスは美しい顔立ちで輝く瞳をして、平静の権化でディヤーニ1であった。多くの人々、すなわちタティヤ・コテ、カシナスその他の人々が彼を自分たちのグルだと見なした。

彼らはジャヴハール・アリを彼の前に連れて行き、行われた討論の中でジャヴハールが負かされ、彼はシルディから逃げ去ったのだった。彼はビジャプールに滞在し、長い年月の後シルディに戻ってくると、サイババの前にひれ伏した。彼がグルでサイババが彼のチェラだという思い違いは一掃され、彼は後悔したが、サイババは尊敬の念を持って彼を扱ったのだった。この場合、サイババは自ら身をもって、人はエゴイズムを取り除き、最高の高み、すなわち自己認識を得るために弟子としての義務を果たさねばならないということを示したのだった。この物語はムハルサパティ(ババの偉大な帰依者)の記述に従って綴られている。

次章では、ラーム・ナヴァミ祭2、マスジッドの初期の状態と後の修復等について述べることにする。

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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(シルディ・サイババ)モヒディン・タンボリとのレスリング勝負と人生の変容

2011-08-30 | 聖者

ババの別の物語に移ろう。シルディにはモヒディン・タンボリという名のレスラーがいた。ババと彼はいくつかの点で意見が合わず、勝負を行うことになった。この時はババが負けた。それからババは服装と生活様式を変えた。彼はカフニを身につけ、ランゴット(腰巻き)を着け、頭を布きれで覆った。

またベッドを荒布で覆い、破れて擦り切れたボロ布をまとうことで満足した。彼は常にこう言った。「貧困は王の身分より、貴族の身分よりよい。主は常に貧しい者の兄弟だ」ガンガギールもまたレスリングを非常に好んだ。

あるとき彼がレスリングをしていると、平静な気分が彼に降りてきた。そして適切な時に、お前は神に祈ることにその身をすり減らしなさいというマスターの声が聴こえた。そこで彼はサンサーラを断念し、神を悟る方向に向かった。彼はブンタンベのそばの川岸にマスを建設し、弟子たちと共にそこに住んだ。

サイババは人々と交わったり喋ったりしなかった。彼はただ質問されたときにだけ答えていた。日中、彼は常にニームの木の下に座り、時にはバブールの木陰や小川の側や村はずれに座ることもあった。午後になると、適当に歩き始め、ニムガオンに行くこともあった。

そこで彼はしばしばバラサヘブ・デングルの家を訪れた。ババはバラサヘブ氏を愛した。彼の弟のナナサヘブは二人目の妻を娶っていたが、息子がいなかった。バラサヘブがナナサヘブをサイババのダルシャンに行かせると、しばらくして彼の恩寵によりナナサヘブは息子を授かった。それから後、人々は大挙してサイババに会いにくるようになり、彼の名声は広まってアーメドナガールにまで届くようになり、その後ナナサヘブ・チャンドルカールとカシャヴ・チダンベールやその他大勢がシルディにやってくるようになった。ババは日中は帰依者たちに囲まれ、夜は荒廃したマスジッドで眠った。

この時のババの持ち物は、チルムとタバコ、’タムレル’(ブリキのポット)、長いカフニ、頭に巻く布切れ、そして彼が常に持ち歩いているサトカ(短い棒)だけであった。白い布切れはもじゃもじゃの髪の毛に巻かれ、左耳のところから背中に垂れていた。この布は数週間も洗濯されることがなかった。彼は靴もサンダルも履かなかった。荒布の切れ端がほとんど一日中彼の腰掛けだった。

彼はコウピン(布の腰巻き)を着け、寒さを凌ぐために常に南向きのドゥーニ(聖なる火)の前に座り、左手を木の手すりにかけていた。ドゥーニでは、彼はエゴイズムや欲望を供物として捧げ、常に「アッラー・マリク(アラーは偉大なり)」と口にしていた。彼のいたマスジッドには2部屋しかなく、帰依者たちはみなそこへやってきて彼に会った。

1912年以降、変化があった。古いマスジッドが修復され、歩道が作られた。ババがマスジッドに住むようになる前は、長い間タキアと呼ばれる場所に暮らしており、そこでババはグングル(小さなベル)を足首に付け美しく踊り、憐れみ深い愛を込めて歌っていた。

1.(7-8-0ルピー):1957年以前、インドルピーは16アナと同等で、1アナは4パイサと同等だった)

 
(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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シルディ・サイババ(ババの服装と毎日の仕事)

2011-08-30 | 聖者

サイババは若い頃、髪を腰まで伸ばしていて頭は剃っていなかった。彼は運動選手のような格好をしていた。彼がラハタ(シルディから3マイルの場所)を訪れたとき、マリーゴールドとジャイとジュイの小さな苗木を持って帰ってきた。

手入れをした後、彼はその苗木を植えて水をやった。ヴァマン・タティヤという名の帰依者は、毎日2つの焼いていない土製の水差しを彼に渡していた。これを使って、ババ自身で苗木に水をやっていたのだ。

彼は井戸から水を汲み上げ、肩に水差しを背負って運んだ。夜になると、水差しはニームの木の根元に揃えて置いてあった。水差しは泥で作られ焼かれていなかったので、そこに置かれた後すぐに壊れてしまった。

翌日タティヤはまた2つの新しい水差しを渡した。こうしたことが3年間繰り返され、サイババの骨折りと努力の甲斐あって、庭園ができた。この場所に現在は大きな館が建てられている - ババのサマディ・マンディールで、現在も非常に多くの帰依者たちが頻繁に訪れている。

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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シルディ・サイババ(この物語の完全版)

2011-08-30 | 聖者

タナ地区のマムラトダールを退職したサイババの熱心な帰依者であるB.V.Dev氏は、この件でサグン・メル・ナイクとゴヴィンド・カムラカール・ディクシットに照会を行って、”Sai Leela” Vol.11, No.I 25項にパドゥカ据付の物語の完全版を掲載した。内容は次の通りである。

釈迦歴1834年(紀元1912年)、ムンバイのドクター・ラムラオ・コターレがババのダルシャンを受けにシルディにやってきた。彼の調合師と彼の友人のバイ・クリシュナジ・アリバグカールが彼に同行した。調合師とバイはサグン・メル・ナイクとG.K.ディクシットと親しくなった。彼らは色々と議論をしているうちに、サイババが最初にシルディに現れ、聖なるニームの木の下に座ったという何かしらの記念碑を作らなくてはならないと考えた。


彼らはババのパドゥカをそこに据付けようと考え、石でおおまかな形を作ってみることにした。そしてバイの友人の調合師は、もしこの件が彼の主人のドクター・ラムラオ・コタレの耳に入れば、彼は立派なパドゥカを用意してくれるだろうと提案した。皆がこの提案を気に入ったので、ドクター・コターレに連絡を入れた。

彼はシルディにやってきて、パドゥカの図面を描いた。彼はカンドバ寺院のウパサニ・マハラジを訪ねて、彼にその図面を見せた。マハラジは多くの修正を行い、蓮、花、巻貝、円盤、矛等を描いて、ニームの木の偉大さとババのヨガのパワーについてのスローカ(詩篇)を刻むよう提案した。詩篇は次のようなものであった。

“我、主サイナスに頭を垂れる。辛く不快な時も、常にニームの木の根元に座して、
甘露が滲み出るようにして下さった(この木から滲み出るものは“アムリタ”と呼ばれ、癒しを行う甘露である) - カルパヴルクシャ(願いを叶える木)よりも優れたお方。”

ウパサニの提案が認められ準備が進められた。パドゥカはムンバイで製作され、調合師によってシルディに送られた。ババは、シュラヴァン月のプルニマの日(15日)に据付をするのがよいと言った。その日の午前11時、G.K.ディクシットはカンドバ寺院からドワルカマイ(マスジッド)までの間、頭にパドゥカを乗せて行進した。ババはパドゥカに触れて、これは主の御足であり、ニームの木の根元に据付をするようにと人々に言った。

これに先立って、ムンバイのパルシー教徒の帰依者パスタ・シェスが郵便為替で25ルピーを送っていた。ババはこのお金をパドゥカの据付に使った。据付にかかった合計の費用は100ルピーで、そのうち75ルピーは寄付金でまかなわれた。最初の5年間は、G.K.ディクシットが毎日のパドゥカ礼拝していたが、やがてこれはラクスマン・カチェシュワール・ジャカディが行うようになった。

最初の5年間、ドクター・コターレはランプを灯す費用として月に2ルピーを送っていたが、パドゥカを囲む柵の費用も払った。柵を駅からシルディに運び(7-8-0ルピー1、現在の価値にして7.50ルピー程度)、屋根を付ける費用はサグン・メル・ナイクが支払った。現在はジャカディ(ナナ・プジャリ)が礼拝を行い、サグン・メル・ナイクがナイヴァイディア(甘いお菓子を供えること)と夜のランプの点灯を行っている。

バイ・クリシュナジは元々はアッカルコット・マハラジの帰依者であった。彼は釈迦歴1834年、アッカルコットに行く途中にパドゥカの据付の時にシルディにやってきた。彼はババのダルシャンを受けた後は、アッカルコットに行きたいと思っていた。彼がこの許可をババに願い出ると、ババはこう言った。「おや、アッカルコットとはどこだね?君はなぜそこに行くのかね?彼の地のマハラジはここにいる。私自身だ」これを聞いてバイはアッカルコットへいくのをやめた。パドゥカの据付の後も、彼は時々シルディにやってきたのだった。

B.V.Dev.氏は、ヘマドパントはこうした詳細を知らなかったと結んでいる。知っていれば、彼は”サッチャリタ”の中でこうした出来事について記述しないはずがない、としている。


(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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シルディ・サイババ(ニームの木の下のパドゥカ(足跡)の物語)

2011-08-30 | 聖者

アッカルコット・マハラジの帰依者のバイ・クリシュナジ・アリバグカールはアッカルコット・マハラジの写真を礼拝していた。あるとき彼はアッカルコット(ソラプール地区)へ行って、マハラジのパドゥカ(足跡)のダルシャンを受け、真摯に祈りを捧げたいと考えた。だがそこに行く前に、彼は夢でビジョンを得た。

アッカルコット・マハラジが現れて彼にこう言ったのだ。「今はシルディが私の休息の場だ。そこへ行って君の礼拝を捧げなさい」それだからバイは予定を変更してシルディに行き、ババを礼拝し、6ヶ月間そこに滞在して幸福に過ごした。

このビジョンの思い出に、彼はパドゥカを用意して、釈迦歴1834年(紀元1912年)シュラヴァン月(ヒンドゥー月暦で7月~8月)の吉兆の日に、ダダ・ケルカールとウパサニによって執り行われた相応の儀式と手続きの元、ニームの木の下で、据付を行った。あるディクシットのブラーミンが礼拝式の遂行を任され、管理は帰依者のサグンに委託された。

(シルディー、サイババに頭を垂れよ - 皆に平安が訪れますように)

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