癒しの森 湯布院(仙人の健康相談室)  


人を、そして自分を癒し真なる喜びをもたらす
   
        人生の生き方を学ぶ 癒しの森湯布院

NO498・・・般若心経

2016-03-26 | エンジェルスティック

般若心経と仏舎利に関するブログを見付けましたのでご紹介します。 

 

般若心経解説・・・わかりやすく解説されています。


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NO497・・・入魂とは

2016-03-16 | エンジェルスティック

             入魂とは

魂を入れると書きます。それでは、一体誰の魂を入れるのかと言うことになるのですが、当然仏の魂と言うことになります。では、仏とはどのような方を指すのでしょうか?仏教徒なら阿弥陀如来と云う事になるのです。

 

お釈迦さんは、人々を阿弥陀如来の教えに導く為のお役として如来になった訳であり、自分の教えを広めたかったわけでは無いと思います。阿弥陀如来は、法蔵菩薩として修行中に一つの誓い(48の誓願)を立てられました。

 

その誓い(一番重要な弥陀の18願)とは、「南無阿弥陀仏」を唱えて、仏になれない者がいたなら、私は仏(解脱)にはならないとの誓いでありました。しかし、五逆罪を犯した者は除くと付け加えられています。そして如来になられたわけですから、五逆罪を犯さなければ全員仏(解脱)になれると云う事になります。

 

であるわけですから、当然、阿弥陀如来(無量の光や宇宙根源の神とも云う)の魂を入れて頂く事が、入魂になると思うのです。人に魂を入れる場合は、入魂とは言わず「開眼法要や開眼潅頂・伝法潅頂」などと呼ばれる儀式で行われます。

 

この場合、ブッダである釈迦如来にお願いして阿弥陀如来に繋いで頂く事になりますので、ブッダにお願いする儀式を授からなければなりません。私が生き神様に伝授して頂いた方法は、ヤントラとマントラとブッダの遺品とブッダが好きなお花と如意宝珠の粉他2点を口から飲むと言うものです。

 

この後に、伝授用の特別な法具(開眼法要用の特別なスティック)とマントラとヤントラを使い、阿弥陀如来の魂を入れて頂くことになるのです。このようなわけで、今日は朝から小さなマントラとヤントラを書いて疲れたので、昼から別府の蒸し湯に行き癒しました。

 

この蒸し湯は、石の上に石菖(せきしょう)を敷き詰めており、体の芯まで温まる事によって、可也の毒素が出るようです。今、私には癒しが必要な時期ですから、いろいろなものに挑戦しているところです。

 

 


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NO496・・・悟りの段階

2016-03-12 | 悟り

            四段階の悟り

 

悟りには、四段階あると言われている。特別行を行い脱皮に成功した人は、悟りの初段階に到達したと思われる。何故なら「証=あかし」」が出たからである。証とは、証明の事であり、大分の田中さんは、丹田の前にアナログのカウント計が現れることで証明された。他の人も何らかの証が現れている。何らかの法力が一度出ると、更なる法力を与えられるようになるであろう。

 

ある人は、夢にカーリー神かカーリー神に似た女神様が現れ、神秘的な方法を持ってエネルギーを与えられており、この世では考えられないほどの至福であったと述べている。また、丹田が熱くなり、強いクンダリニーの力が起こった後、一瞬にして全てのチャクラが開いたなどである。今後は悟りの四段階の最上階を目指す修行になるのだが、それを達成させるには、伝授(生き神様より継承された、特別な法具と方法でナターヤFUMIが行う開眼法要」)と三種の神器が必要になってくる。仏のエネルギーを受け取るには、三つの法物が必要である。ヤントラ、マントラ、仏舎利であるが、ご存知のように、仏舎利は金不還(きんふかん=お金で換えることは出来ない)と言われ、本物の入手は難中の難で難しい。そこで、生き神様伝来の如意宝珠(入手も難しい)を使っていたのだが、それでも二~三段階までしか達成出来ないと言われていた。

 

 

1~2年前に「生き神様」の末裔と縁が結ばれ、信頼を得る努力を重ねて来ていたのだが、その願いがやっと叶い、1000年以上続いている「法」を継承されているところである。今後余程のことがない限り、特別行の方に約束している四つの舎利(舎利佛と目連)他が継承されるであろう。これが入手できれば、三種の神器が揃うのである。つまり、釈迦如来と繋がるヤントラとマントラと如意宝珠の粉を中に埋め込んだ「如意宝珠の杖」と生き神様伝来の「宝珠杵」(特別行以外の方は五鈷杵)とペンダントである。ペンダントの中には、当然ヤントラとマントラと ? も収めらるのである。

 

聖者の境地、悟りには四つの段階がある。

第一は預流果(よるか)、初めて悟りに向かう流れに乗り、聖者の仲間に加わった位。

第二は一来果(いちらいか)、一生迷いの生涯を送れば聖者になれる位。

第三は不環果(ふげんか)、もう二度と迷いの生死に環ることなく悟れる位。

第四は阿羅漢果(あらかんか)、苦悩からの完全な解脱を成就した聖者の位です。

 

 

 

 


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NO495・・・日本密教の歴史を考える

2016-03-11 | 悟り

 

          日本密教の歴史を考える

 

日本で密教を広めたのは、何といっても空海さんに間違いのないところである。空海さんが立宗した真言宗は表に出ている宗教であるが、この真言宗を広めるにおいて数々の法力を使ったと記されている。が、その法力は真言密教として縁ある人にしか教えられていないように思う。

 

 

また、なぜ密教に必要な仏舎利が死後500年以上経った後日本に渡り、その後、後白河法皇(ごしらかわほうおう)に渡ったのであろうか?わずか80粒しか持って帰ってない仏舎利をである。謎である。親鸞聖人の師匠は法然上人である。親鸞聖人は法然上人の教えに「他力本願」を加えることになる。他力本願とは、イニシエーションと言われる伝法(開眼法要)を授かった後、「南無阿弥陀仏」を9回唱えるだけで極楽浄土に行けると言われる法である。最近はナムの一声でも良いと言われているようである。 

 

お釈迦さんは、6年間の修行を行い悟りを得た。解脱に成功した後「6年間の苦行は無駄であった」と言われている。何か親鸞聖人の言う「他力本願」に似ていないだろうか?おそらくであるが、親鸞聖人はイニシエーション用の特別な仏舎利を、何らかの方法で入手したのではと思うのである。何らかの方法とは、後白河天皇経由しか考えられないのである。後白河天皇は1,127年に生まれ1,192年に没している。法然上人は、1,133年に生まれ1.212年に没している。親鸞聖人は、1.133~1.263年である。完全にかぶっているのである。

 

親鸞聖人が、浄土真宗を立宗し他力本願を打ち出すことにより、困ったのは他宗派である。負けてなるものかと、仏舎利を探すが見つからないので、やむなく仏舎利に似た石(仏舎利石)や宝石を祀るようになったのであろう。これが今日に至っており、仏舎利塔や五重の塔に奉納されている仏舎利は、学者の調査によると99.9%偽物であることが判明したのであります。

 

でありますから、中国政府は精巧なレプリカの仏舎利をミャンマー等のお寺に寄贈し、仏教徒の心を中国に向けらせる事に成功したのであります。これらの事で考えられることは、釈尊のエネルギーは間違いなく仏舎利に流れていることが推測できるのであります。もう一つ考えられることは、釈尊はナーガラージャ即ち龍の宝珠において解脱したと考えられることであり、釈尊イコールナーガラージャ(龍)の化身と考えられるのであります。

 

 

イニシエーションを与えると、その人のエネルギーを吸い取る為かかなりのダメージを受けます。今日はナターヤFUMIとある人と砂風呂に行き、毒素を出す静養を行う予定です。与える者の宿命で一定レベルを超すまで、自分で吐き出すことは出来ません。頼るのは自然界に存在する神のエネルギーだけです。この上に辿り着くために、今は死闘を行っているところなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 


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NO494・・・東の国

2016-03-10 | 悟り

 

             東方の国

 

インドに行くと、日本は東にある国だから、霊性能力が高いと言われる。「なぜ東の国だから高いのですか?」と生徒が問うが明確な答えは返って来ない。当たり前である。インドに行くという事はヒンドゥ教かバラモン教かシーク教などの聖者を求めて行くわけだから明確な答えが返って来ないのである。

 

 

仏教では、インドから見たら日本は東にある国である。日本からインドを見れば西にある。であるから、死んだ後向かう場所は西にあるインドのブッダガヤに49日間かけて魂は帰るのである。ブッダガヤは仏教の聖地であるからである。であるから、この地を西方浄土というのである。

 

この世は陰と陽の二極のエネルギーにおいて、バランスを取りながら運行されていると言われる。陰が陽を支え、その陰のエネルギーのお陰で陽は精力的に活動することが出来る。人間の肉体は、決して表に出ることのない魂のエネルギーで動かすことが出来る。奥様は旦那様を支える事によって、旦那様は外で7人の敵と戦う事が出来る。奥にしとやかに籠っているから奥様と言うのである。静脈は血液を肺に戻し、新しい酸素を与え陽である血液にエネルギーを与える。これが真理である。

 

これをインドと日本で考えてみたい。なぜ鑑真和尚は危険を冒してまで日本に仏教を持ち込んだのか?その時、仏教において、とても貴重な国宝級の法具を持ってきたのか?  空海さんは、何故中国から一切合切の教えと法具を持ち帰ることが出来たのか?

 

一見謎に見えるが、釈尊の意思が思いがそうさせたのであろう。西は東を支えることによってバランスが保たれる。ブッダは百も承知していたのである。仏教を広げるには、西ではなく東からであることを知っていたのである。であるから、中庸の場所に位置する中国は西と東の橋渡しを行ったのであろう。

 

こう考えれば物事はスムーズに解決するのであります。釈尊の教えは日本で花開いたのであり、ブッダである釈尊は日本にも来ているのである。もちろん肉体を持つ釈尊ではなく、死後魂が来ているのである。ある時の鑑真和尚の説法はまるでブッダが乗り移ったように人々を魅了させたという。

 

生存中の釈尊の時代は、とても日本に来れる時代ではなく。時が来るのを待っていたのであろう。死後500年600年を経った後、やっと日本の地を踏むことが出来たのである。鑑真が日本に持ち込んだ目録の中に仏舎利30粒と記載されている。ちなみに空海さんは80粒の仏舎利を日本に持ち帰ったと記載されている。他に三蔵法師玄奘も持ち帰っていますが、このことには、そのうちに書きたいと思っています。

 

この空海さんが持ち帰った仏舎利は、その後どういうわけか、一部が「後白河法皇」の手に渡り、今の仏教の原型が定着したのである。時は、「他力本願」を広める、親鸞聖人が活躍を始めた時代であろう。六波羅蜜の教えなどもこの時代である。また仏舎利の他に、釈尊の命と言われるマニ宝珠も持ち込まれている事が考えられるのであります。これこそが釈尊そのものと考えられる。マニ宝珠とは、釈尊の亡骸の頭の中から見つかったといわれており、霊験が現れる宝珠であり、思うままの事が叶うと言われている白い玉であります。

 

このように貴重な物はすべて日本に持ち込まれているゆえ、ミャンマーやタイやチベットやスリランカ等には仏舎利は存在しないというのが通説であり、法力の事は語りつがれていないのであります。近年中国政府からレプリカの仏舎利がミャンマーやタイやスリランカに寄贈され、多くの仏舎利塔が建立されだしたと報道されたのであります。が、中身は精巧に作られたレプリカの仏舎利であります。※ミラレパが起こした、チベットの法力は土着宗教から発展したものと言われています。

 

つまり全ての仏舎利は、日本にあるか、当時、価値のわからなかったインドのお寺のどこかに埋もれている可能性が大であり、偶然廃寺から見つかった仏舎利は、ネルー首相により日本に寄贈されたと歴史に刻まれているのであります。このような事から、今後も日本はインドに経済的にも精神的にも支えられる事が予言出来るのであります。奇しくも、今日のニュースにインドで作られたスズキの車が日本で販売される事になったと報じられていたのであります。中国政府がミャンマー等に寄贈したレプリカの仏舎利も日本にも持ち込まれているようです。

 

 

 

仏舎利の代替品

補足(ウイキペディアより)

 

仏舎利とは本来、釈迦の遺骨・遺灰・毛髪等であり、このような仏舎利を「真舎利」「真身舎利」という。 しかし真舎利は入手が困難であり、数も限られてくるので、各国で仏舎利の代替品を塔に納めるようになる。

 

一つは遺骨によく似た宝石や貴石等を代替品とする例であり、 日本では特に津軽地方の母衣月(ほろづき)の舎利浜(現在の青森県今別町袰月)やその周辺の海岸で採れる翡翠石英を、仏舎利とみなして古くから珍重した。

 

浄書した経典を仏舎利とみなして塔に納めることもある。このような例を「法舎利」「法身舎利」という。 法隆寺百万塔陀羅尼も法舎利信仰の一つである。

 

 

 

 


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NO493・・・密教伝来の秘密

2016-03-09 | 悟り

            密教伝来の秘密

 

今回は、日本で密かに受け継がれている密教の教えについて発表出来る範囲で綴ってみます。三蔵法師玄奘は何を求めてインド(現在のブッダガヤ)を目指したのでしょうか?当時のヒマラヤ超えは山賊の巣であり、命がけの旅でありました。一説によるとブッダが書かれた経典という事になっていますが?ブッダの書かれた経典はこの世には存在しません。仏教の経典は、ブッダが死んだ後に弟子によって書かれた物で直筆は存在しないわけです。

 

その後、盲目の中国の僧である鑑真和尚(がんじん)は小型船に乗って日本を目指しました。当時の船はちょっと大きな時化にあうと難破する危険な行動だったのですが、東の国である日本に仏教を広めなければならない使命で日本に辿り着きました。当然当時の天皇に説得できるだけの法具一式は持参していたわけです。

 

その後、空海さんが自費で遣唐使の船に乗り中国を目指しました。青龍寺の恵果阿闍梨に会いにいったのですが、その青龍寺の初代館長は南インド人でありました。恵果阿闍梨は三代目になるわけですが、初代は南インドからある物を持って教えを始めたのです。そのある物を、空海さんは日本に持ち帰りました。 

 

今、私たちが勉強している密教は、前期の密教である鑑真和尚の流れを汲む生き神様に継承された密教であり、ある物とヤントラとマントラによって釈尊と繋がる方法であるのです。このある物とヤントラとマントラが前期密教の全てであり、仏教の全てであると言っても良いでしょう。でありますから、三法無くして神仏は語れないと、私は思っているのです。そして目に見ないエネルギーが釈尊や功徳を積んだ死後の聖者等から注がれる意味が始めて理解できるのであります。


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NO492・・・解明できない世界

2016-03-06 | 悟り

          解明できない世界

 

人間の知恵で解明できない世界が神の世界である。今回大分のTさんにミラクルな力が発現した。今行っている行は右手に角の杖を持ち、左手に五鈷杵をもって行う行の為、ジャパマーラーでマントラをカウントすることが出来ない。そこで彼は彼なりに工夫して、頭の中で数字をカウントしていたのであるが、数が多くなるにつれ間違う事が多い。

 

それを見かねたは彼の丹田の前にデジタルのカウント計を出現させたのである。もちろん本物の計器ではなく浮かびあがるのである。マントラを1回唱えると1の数字がくっきりと表れる、50回唱えると50の数字が現れ、絶対間違いのない数字が表示されるのである。そしてマントラを唱え終ると自動的に消える。

 

 

今回行を始める前に、ナターヤFUMIが生き神様の末裔から継承された「開眼法要」の法を授け、空海さんが考案したと思える五鈷杵を使用した為である。この五鈷杵には空海さんの弟子にさえ教えられてない秘密が隠されており、法の仕組みが解明できるものでもある。

 

 

これをどのようにして見つけたか?・・・・これが私に与えられた法力であり、頭の中に秘密が浮き上がって来ることで解明出来たのである。角の中に隠された秘密や黒焼きに隠された秘密も同じ方法で入手したのである。。また、生き神様の縁も同じ方法で縁結び出来たのである。であるから、生き神様の教えで作られた角の杖や五鈷杵は、見かけは同じ物でも中身は次元の違う別物であるのだ

 

 

人間とは、不思議なものであり、これらが現れてくると、苦が苦でなくなるのである。長時間の瞑想が苦痛であった者が、今は発破をかけなくても、寸暇の時間を惜しんで瞑想するのである。これらの法力は、いくら解明しようと思っても解明はできない。それが神の世界の教えだからである。

 

 

解明しようとすればするほどドツボに嵌る。これは頭は良いが理屈が多いと世間から思われている人々が陥りやすい、ドツボなのである。神を知るには脳では無く魂で知るのである。人間の能力で神の能力をはかるような事は時間の無駄である。そのようなものに能力を傾ける時間があれば、マントラの一つでも唱えることである。

 

そのためには、馬鹿になることであろう。霊性修行で成功したいのであれば、人間の知識などは神の能力に比べたら、無に等しい事を心の底から理解することが先決であり、ブッダ(釈尊)のお言葉を疑う事無く、信用することが肝心である。ブッダはこのように言っている。・・・私の6年間の苦行は無駄であった。・・・私にできる全てのことは、私の縁に巡り会える者なら誰にもできるようになる。

 

法と呼ばれる神の世界の真理は、縁のみで継承されるものである。であるから、人間に生まれた者は、何をおいても法の縁を求めなければならないのである。知識を求めるのでは無く、縁を求めなければならないのである。求めない者には、与えることは出来ない。これも真理である。多くの人は、真剣に求めていると言うが、ジーザス(キリスト)の言う「求めよさらば与えられん」とは次元が違うように感じる昨今である。


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NO491・・・娑婆(しゃば)

2016-03-02 | ヒーリング

娑婆とは、やくざ言葉ではなく、立派な宗教言葉で、この世で生活している場所の事を言います。私はある事情で21日間娑婆から離れていた場所で生活していたため、十分な連絡がとれずご迷惑をおかけしました。

 

特にface bookで誕生日のお祝いメッセージを頂いた方には、お礼の文書をお返しすることも出来ず、ご無礼を致したことをお詫び申し上げます。

 

私は相変わらず、夢物語を追いかけているのですが、今回の21日間で確かな回答を得ることが出来る21日間であったと思っているところです。人間とは、はかない一生であるが、貴重な一生でもあることを身を持って知ることが出来ました。

 

また、生きている間に、何をやらなければならないかも、はっきりと気がつける貴重な日々でもありました。これらの事を、機会を見ながら書こうと思っていますので、今しばらくお時間を頂けたら幸いです。

 

 

 

 


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