永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(長谷寺本堂)

2008年11月25日 | Weblog
長谷寺本堂 

 鐘楼」に近接して「本堂」(東側から見た本堂)が建てられている。「本堂」は木造建築物としては東大寺の大仏殿に次ぐ大きさといわれているが、長谷寺全体の規模が大きい関係からか、見た目にはそんなに大きな感じをうけない。
 
 長谷寺は創建以来、何回も火災に遭っているようで、現存の「本堂」は慶安3年(1650年)に再建されたものとされている。

源氏物語を読んできて(231)

2008年11月24日 | Weblog
11/24  231回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(10)

 右近は、豊後介がお食事をさし出していますのを、物陰から見て、この男をどこかで見たような気がします。また、豊後介が、

「三條、ここに、召す」
――三條、姫君がお呼びですよ――

などと言っていて、呼ばれた女を見ますと、これまた見たことのある人です。

「故御方に、下人なれど、久しく仕うまつりなれて、かの隠れ給へりし御住処までありしものなりけり、と見なして、いみじく夢のやうなり。」
――亡き夕顔に、下女ではありますが、久しく仕えていて、あの隠れ住んでいました夕顔の宿までお供した者であったと気づいたときは、何とも夢のような心地がしました。――

 お仕えしている方を知りたいけれど、とにかくその女に訊ねてみます、

「覚えずこそ侍れ。(……)人違いにや侍らむ。」
――思いがけませんことで。筑紫の国に二十年ばかりも暮らしました、賤しい私を知っておいでの方とは、……お人違いではございませんか。――

右近は、
「なほさしのぞけ。われをば見知りたりや」
――もっとよく覗いてごらんなさい。私が分からないかしら――

三條は、差し出た顔を右近と知って、すっかり喜んで、夕顔の消息を尋ねながら、大声に泣きだします。
長い年月を経て、この上なくあわれに右近も涙にくれながら、

「『先づおとどはおはすや。若君はいかがなり給ひにし。あてきを聞こえしは』とて、君の御ことは、言い出でず。」
――「まず、お乳母殿はおいでになるの。姫君はどうおなりになったのでしょう。あのとき‘あてき’といった女童は」といって、夕顔のことは言いだせないのでした。

ではまた。

源氏物語を読んできて(女性の旅姿・被衣姿 )

2008年11月24日 | Weblog
被衣(かづき)姿

「虫垂れぎぬ姿」と同じように、袿(うちぎ)をからげ、裾をつぼめた外出姿である。小袖、単、袿を重ねて着た一番上に、普通のものにくらべ襟(えり)づけ・脇(わき)あき等が異なった、被衣用の仕立てになった袿を、袖を通し頭にすっぽりとかぶる。

 赤い懸(掛)帯をかけ、物詣でや旅に出かける際には、懸(掛)守りを首に下げた。市女笠を手に持ち,足には緒太(草履)をはく。

◆写真:被衣(かづき)姿  風俗博物館

源氏物語を読んできて(230)

2008年11月23日 | Weblog
11/23  230回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(9)

さらに、
「うち次ぎては、仏の御中には、長谷なむ、日の本の中には、あらたなる験あらはし給ふ、と、唐土にだに聞こえあなり。(……)」
――続いては、御仏の中では、大和の国の初瀬寺(はせでら)の観世音が、日本国中にあらたかな霊験をお示しになると、唐土までも評判だそうです。(ましてや、我が国の中ですもの、)――

 といって初瀬に出立おさせになります。仏に願をかけての参詣ですので、とくに徒歩で行くことに決めました。

 姫君には、慣れないことで、切なくお辛いようですが、夢中で歩いて行かれます。母君夕顔の生死さえ分からぬながら、せめてお顔を見せてくださいと仏に祈りつつ、慣れない旅を難儀しながら、ようやく椿市(つばいち)というところに、四日目の巳の時刻に(午前十時ごろ)たどりつきました。玉鬘は、

「歩むともなく、とかく繕ひたれど、足のうら動かれずわびしければ、せむ方なくて休み給ふ。」
――姫君は歩くどころではなく、なんやかやとお手当をしましたが、足の裏が痛んで動かれず、こらえ難く苦しそうですので、仕方なくお休みになっています。――

 この一行はといえば、乳母はもちろんのこと、頼り者の豊後介、弓を持った家来二人、下人、童などが三、四人、女は三人とも(玉鬘、乳母、兵部の君)壷装束で、ほかに樋洗(ひすまし)らしい者、年とった女二人という、ひっそりと人目を忍んでのご様子です。

 宿の手違いで一つ所に二組が休憩することになってしまい、姫君は軟障(ぜじょう)などで仕切った中においでになります。
 実は、そこに隣り合わせた客というのは、いつも変わらず姫君を恋い慕って嘆いていました右近なのでした。

◆都を出立するのは、大抵夜明けなので、椿市まで丸3日、その夕方長谷寺まで4キロの山道を登ります。初瀬寺とも長谷寺とも。

地図の左側に椿市・金谷があり、初瀬川に沿って右上へ辿ります。

ではまた。


源氏物語を読んできて(椿市)

2008年11月23日 | Weblog
椿市(海石榴市)つばいち

 玉鬘が、かつての夕顔の女房・右近と劇的な再会を果たす椿市(つばいち。「海石榴市」とも書きます)の地は、大和国城上郡の長谷山口(現在の奈良県桜井市金屋)にあり、初瀬詣が盛んになった平安時代以降、長谷寺への参詣者を受け入れる宿泊地として栄えました。

海石榴市の名前は奈良時代の文献にも見えますが、『古代地名大辞典』は、『万葉集』の時代に「八十の衢」と詠まれて交通の要衝に位置する市場として賑わった海石榴市は金屋よりも南方にあり、初瀬詣の盛行に伴って道路が初瀬川沿いに変更され、市の場所も金屋に移ったとする推論を注記しています

 身分も事情もさまざまの人々が初瀬観音の霊験に縋って椿市の地を行き交った様子が窺われます。この巻きから、椿市で長谷寺に参詣する仕度を整え、参詣後にはまた精進落しなどをしたことがわかります。

 参詣の仕度の具体的な内容は、上記引用文に「大御燈明のこと」「御明・燈心器等」とあるように仏前に供える灯明などでした。

 どのような理由があったのかはわかりませんが、椿市で仕度を整えた後、夜になってから長谷寺に入るのが常だったようです。椿市から長谷寺までは、東へと初瀬川を遡る約4kmの道のりです。
両側を山に囲まれた谷中の道を、長谷寺へと登ってゆくことになります。

◆写真:現在の金谷の地。椿市はここからそう遠くはないようですが、今でははっきり分からないようです。万葉集に有名。

源氏物語を読んできて(女性の外出・壺装束)

2008年11月23日 | Weblog

壺装束 虫垂(むした)れぎぬ姿

 貴族の女性の外出姿で、袿(うちぎ)をからげ、裾をつぼめるので「壺装束(つぼしょうぞく)」という。懸(掛)帯をかけ、首に懸(掛)守りを下げ、足には緒太の草履(ぞうり)をはく。頭には菅や藺(い)で編んだ笠を被(かぶ)り、笠には「苧(お)(真麻)」で作られた布を垂れる。

 これは顔を隠すためであるが、虫除けにもなるという利点がある。市女笠を被るので「市女姿(いちめすがた)」とも言う。

◆写真:虫垂(むした)れぎぬ姿  風俗博物館

源氏物語を読んできて(229)

2008年11月22日 | Weblog

11/22  229回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(8)

 川尻(淀川の河口)に近づいたという声に、やっと生き返った心持がします。
豊後介は、思えば、よくも皆妻子を打ち捨ててここまで来てしまったことよ、役に立ちそうな家来を皆連れて来てしまい、逃げ去ったことを知った監の怒りが、妻子を追い散らしてどんな目に合わせるか、と思うと、年甲斐もなく彼らの身の上を顧みずに出てきてしまったと、心が落ち着くに従って、あまりにも無分別だった旅立ちを思い続けて心細く涙ぐまれるのでした。

「『胡の地の妻児をば空しくすてすてつ』と誦するを、兵部の君が聞いて、
――白氏文集の句を誦すのを、妹の兵部の君が聞いて――

 本当に思えば不思議なことをしてしまったこと。年来従ってきた夫の心にも背いて逃げ出してきてしまいましたが、今頃何と思っていることでしょう、と、こちらも捨ててきた家族を思ってしみじみ思いめぐらしております。
京に行っても、定めた所があるわけでもなく、知りあいや頼もしい人も浮かばない。ただこの姫君をお守りするために来たものの、良い思案が浮かばない。

「あきれて覚ゆれど、いかがはせむとて、いそぎ入りぬ。」
――今さら呆然とするけれども、後に引き返せるものでもなし、ともかくも、急いで京に入りました。――

 つてを探して、九条に宿を借りおいて、豊後介という、あちらでは頼もしき人も、京では慣れない生活の頼り無さにと、今さら筑紫に帰るのも具合悪く、従者たちも縁故を求めて出て行く者も、筑紫に戻っていく者もいて、散り散りの有様です。

乳母は豊後介を気の毒に思い嘆きますと、豊後介は、

「何か、この身はいとやすく侍り。人ひとりの御身にかへ奉りて、いづちもいづちも罷り失せなむに咎あるまじ。われらいみじき勢いになりても、若君をさるものの中にはふらかし奉りては、何心地かせまし。」
――なんの、私は気楽なものです。姫君お一人の御身に代わってどこへなりと放浪しましょうとも、誰が何をとがめましょうぞ。たとえ私どもが立派な権勢を持つ者になったとしましても、わが姫君を大夫の監のような中にお捨て置きしては、どんな気持ちでいられましょうか。――

 神仏がきっとお導きくださるでしょう、と、近いところでは石清水八幡宮に、先ずは京に無事に着きましたことのお礼に行きましょう。と言って姫君を八幡宮に参詣おさせ申します。



源氏物語を読んできて(石清水八幡宮)

2008年11月22日 | Weblog
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)

 石清水八幡宮は京都府八幡市の男山山上にある神社である。宇佐神宮などとともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる。本殿など建造物9棟が国の重要文化財に指定されている。 また、本社は伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟とされている。

 860年、清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする。「石清水」の社名は、もともと男山に鎮座していた石清水山寺(現在は石清水八幡宮の摂社)に由来する。

 以来、京都の北東にある比叡山延暦寺と対峙して京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として皇室・朝廷より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。

源氏物語を読んできて(228)

2008年11月21日 | Weblog
11/21  228回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(7)

 乳母は、二男が監の味方に引き入れられたのも恐ろしく、監に敵視されてはここに居てもひどい目に逢うに違いなく、一方では玉鬘は心痛のあまり死んでしまいたいとまで、お思いのご様子に、豊後介は、

「いみじき事を思ひ構えて出で立つ。」
――自分としても固く決心をして、この地を離れることと決めました。――

 妹の方の‘あてき’は、今は兵部の君といいますが、長年連れ添った夫を捨てて、玉鬘のお供をして出立します。監が、吉日を選んで来ようとするその隙に、夜、逃げるように船に乗りました。

 姉の‘おもと’の方は、子供が沢山いて一緒に行くことができません。お互いに別れを惜しんで、再び逢う日はいつとも知らぬ心細さに、悲しみに浸る間もなく。

「かく逃げぬる由、おのづから言い出でつたへば、まけじ魂にて追い来なむ、と思ふに、心も惑ひて、早船といひて、様異になむ構へたりければ、思ふ方の風さへ進みて、あやふきまで走りのぼりぬ。」
――こうして姫君が逃げ去ったことが、自然と噂になって監の耳に入ったならば、負けてなるものかと、追って来るに違いないと思うと、気が気ではなかったのですが、この船は初めから早船に仕立ててあったので、風さえも順風で、恐ろしいほど早く走っていったのでした。――

 こうして響の灘も無事に過ぎますと、だれかが、「海賊の船かも知れない、小さい船が飛ぶように来る」と言います。物捕りの海賊よりも、もしやあの恐ろしい監が追って来るのではないかと思うと、乳母は生きた心地もしないのでした。

◆早船:「関船」(せきぶね)とも。 当初、海賊を防ぐために造られた早船。下関で造られたことからこの名が付いた。櫓四十二挺立てから八十挺立てまであったという。

◆写真:山口県周防から見る瀬戸内海。玉鬘一行はどこから出発したのでしょう。

源氏物語を読んできて(響の灘)

2008年11月21日 | Weblog
◆響の灘(ひびきのなだ)

 響の灘とは播磨灘のうちで飾磨から高砂辺を指すのだろうか、どうして都の人は響の灘即ち播磨灘を恐れたのだろう、他所よりも恐ろしかったのだろうか。

 瀬戸内海は島また島でいたる所で海賊が出没していたのは確。奈良・平安時代は西国への道中は駅制も完備している往還を利用して海路はあまり利用していなかった、都の者は西はせいぜい明石辺りまでしか知らないから瀬戸内海の物騒な話はすべて「響きの灘」で片付けたのではないかと思われる。

 加古川市の尾上神社には国の重要文化財「尾上の鐘」朝鮮製がある。この鐘の聞こえる範囲の海を「響きの灘」と呼んでいたそうだ。参考:『高砂の尾上の鐘や響の灘』-滝野瓢水(1684~1762加古川市別府出身)より