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永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(228)

2008年11月21日 | Weblog
11/21  228回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(7)

 乳母は、二男が監の味方に引き入れられたのも恐ろしく、監に敵視されてはここに居てもひどい目に逢うに違いなく、一方では玉鬘は心痛のあまり死んでしまいたいとまで、お思いのご様子に、豊後介は、

「いみじき事を思ひ構えて出で立つ。」
――自分としても固く決心をして、この地を離れることと決めました。――

 妹の方の‘あてき’は、今は兵部の君といいますが、長年連れ添った夫を捨てて、玉鬘のお供をして出立します。監が、吉日を選んで来ようとするその隙に、夜、逃げるように船に乗りました。

 姉の‘おもと’の方は、子供が沢山いて一緒に行くことができません。お互いに別れを惜しんで、再び逢う日はいつとも知らぬ心細さに、悲しみに浸る間もなく。

「かく逃げぬる由、おのづから言い出でつたへば、まけじ魂にて追い来なむ、と思ふに、心も惑ひて、早船といひて、様異になむ構へたりければ、思ふ方の風さへ進みて、あやふきまで走りのぼりぬ。」
――こうして姫君が逃げ去ったことが、自然と噂になって監の耳に入ったならば、負けてなるものかと、追って来るに違いないと思うと、気が気ではなかったのですが、この船は初めから早船に仕立ててあったので、風さえも順風で、恐ろしいほど早く走っていったのでした。――

 こうして響の灘も無事に過ぎますと、だれかが、「海賊の船かも知れない、小さい船が飛ぶように来る」と言います。物捕りの海賊よりも、もしやあの恐ろしい監が追って来るのではないかと思うと、乳母は生きた心地もしないのでした。

◆早船:「関船」(せきぶね)とも。 当初、海賊を防ぐために造られた早船。下関で造られたことからこの名が付いた。櫓四十二挺立てから八十挺立てまであったという。

◆写真:山口県周防から見る瀬戸内海。玉鬘一行はどこから出発したのでしょう。

源氏物語を読んできて(響の灘)

2008年11月21日 | Weblog
◆響の灘(ひびきのなだ)

 響の灘とは播磨灘のうちで飾磨から高砂辺を指すのだろうか、どうして都の人は響の灘即ち播磨灘を恐れたのだろう、他所よりも恐ろしかったのだろうか。

 瀬戸内海は島また島でいたる所で海賊が出没していたのは確。奈良・平安時代は西国への道中は駅制も完備している往還を利用して海路はあまり利用していなかった、都の者は西はせいぜい明石辺りまでしか知らないから瀬戸内海の物騒な話はすべて「響きの灘」で片付けたのではないかと思われる。

 加古川市の尾上神社には国の重要文化財「尾上の鐘」朝鮮製がある。この鐘の聞こえる範囲の海を「響きの灘」と呼んでいたそうだ。参考:『高砂の尾上の鐘や響の灘』-滝野瓢水(1684~1762加古川市別府出身)より

源氏物語を読んできて(平安時代の瀬戸内海)

2008年11月21日 | Weblog
瀬戸内海の地理

地形
 瀬戸内海は灘や湾と呼ばれる広い部分が、瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ多島海である。平均水深は38メートルであるが、全体的な傾向としては東に行くほど浅くなっている。瀬戸と呼ばれる水路は強力な潮流によって海底部が浸食されており、深いところでは水深454メートルもある(速吸瀬戸)。

強い潮流
 周防灘と安芸灘の間にある大畠瀬戸の潮流。
瀬戸内海は潮の干満差が大きいことで知られている。これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の燧灘周辺では干満差は2メートル以上にもなる。この為、瀬戸内海の潮流は一般に言って極めて強く、場所によっては川のように流れている所もある。
 
 この強力な潮流が発生させているのが、「鳴門の渦潮」である。また、この強力な潮流によって海底部の養分が常に巻き上げられ、植物プランクトンの成育を促していると考えられている。つまり、瀬戸内海が豊かな漁場であることの理由の一つはこの大きな干満差なのである。