永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(225)

2008年11月18日 | Weblog
11/18  225回

【玉鬘(たまかづら)】の巻】 その(4)

 乳母の息子たち、娘たちも、その土地で相応の連れ合いが出来て住みついております。乳母は一日も早く都へと思うものの、都への道は遠く、玉鬘は二十歳におなりになって、ご器量も十二分に整われ、このような田舎に置くのはもったいないお美しさです。
そして、ものごとが分かるようになられるにつけ、世の中を憂きものとお思いになり、年三度の長精進をなさったりしていらっしゃる。

 乳母の一族は備前に住んでおり、ここの辺りの多少とも由緒ある家柄の者は、まず少貮の孫の噂を聞き伝えて、今も絶えずうるさく言いよって来るのでした。

 大夫の監(たいふのげん)と言って、肥後の国に一族一門が広く繁栄していて、その土地としては信望があって、勢力の盛んな武士がおりました。無骨な中にも多少色好みの性分がまじっていて、器量のよい女を集めて、わが花よとして見ようという望みをもっていて、この玉鬘のことを聞きつけて、使いを寄こしたり、それからは、

「いみじきかたはありとも、われは見隠して持たらむ」
――どのような片輪があったとしても、わたしは見ぬふりをして妻としたい――

 と自分から押しかけて備前の国にやってきました。乳母の二人の息子を呼び寄せて、

「思ふ様になりなば、同じ心に勢いをかはすべきこと」
――お前たちの力添えで玉鬘がわがものとなるならば、今後は心を合わせ、力をも貸し合おう――

 二人の息子は言いくるめられて、その気になって長兄に言います。

「大夫の監は、われわれがめいめい力とするのに頼もしい人だ。この人に睨まれたらこの近国にいたたまれない。姫君は高貴なご血統といっても、親御さまに顧みられないで
居られては、何の得になることがありましょう。あの男が本気で怒ったならば、どんな乱暴をしでかすか分かりませんよ。」

ではまた。


源氏物語を読んできて(年中行事・梅から桜へ)

2008年11月18日 | Weblog
梅から桜へ ~日本文化の興り~

 かつて天皇の住居であった京都御所の紫宸殿(ししんでん)の前には、現在でも左近の桜と右近の橘(たちばな)が植えられている。ところが平安京成立当初は、この桜の場所に梅の木が植えられていた。

 中国文化の影響で、貴族たちの唐趣味の影響から、もっぱら梅の花が賞玩されたのである。 ところが、この梅の木は遷都から半世紀ほどたった承和年中に枯れてしまった。そして、そのあとに、時の仁明天皇が梅に代えて桜の木を植えたのである。この桜の木も、天徳四年(九五〇)の内裏の火災によって一緒に焼失するが、その後移植された桜は、醍醐天皇の皇子重明親王の家にあったもので、もともとは吉野山から運んできたものであったという。
 

 この背景には、中国文化の影響から脱して日本の土着文化を見直そうという機運があった。和歌や仮名の発達とともに、農耕と密接に関係して愛好されてきた桜の美しさが見直されたのである。

◆参考と写真:風俗博物館