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【葵】の巻 (8)
葵の上は、うめき声も発作もやや静まりなさって、母の大宮に抱き起こされて、程なくお生みになりました(座産のかたち)。 喜ぶ傍らで、よりましに移された御物の怪どもが、くやしがって騒ぐ様子から、後産の事がひどく気にかかります。比叡山の天台座主たちは、したり顔に、まわりの人々も連日の心配から解放されて安心されています。御修法もまた始められてはいますが、みな赤子のお世話に夢中になって、おまけに男子でいらっしゃるので喜びも大きく、誰も病人に対して油断なさっているのでした。
六條御息所は、葵の上の男子のご誕生をお聞きになって、穏やかでは居られず、自分が自分でないようなお心持ちでいらっしゃいます。不審にもこの衣裳に芥子の香が染み付いています。髪も洗い着替えもされましたが、香が離れません。(私の魂が葵の上に取り付いて、調伏の目にあったのか)わが身ながらにうとましく思うものの、人に話せることでもないので、心に思い嘆くばかりで気も狂うほどです。
◆葵の上に付いた御物の怪の調伏に、枕元で芥子を焚いた。
源氏は、あの時の狂乱状態の生霊との問わず語りを思い出されては、六條御息所には
久しくご無沙汰していたのは確かに気の毒だったと思うものの、今、直接お目にかかることもはばかられるので、お文だけを差し上げます。
左大臣方では、まだまだ油断できないながらも、若君の産養(うぶやしない)にうれしく過ごしております。源氏は
「若君の御まみのうつくしさなどの、東宮にいみじう似奉り給へるを、見奉り給ひても、先づ恋しう思ひ出でられさせ給ふに、忍び難くて、参り給はむとて」
――若君の目元の愛らしい様子を見るにつけ、藤壺がお産みになった自分の、あの東宮を思い出され、藤壺にも、東宮にもお逢いしたい気持ちがどうにもならなくなって、内裏に上ろうと――
葵の上の近くにお出でになり、衰弱しきって寝ていらっしゃる葵の上を、つくづくと御覧になります。こんな病気の折りでも何と美しいことか。
「年頃何事を飽かぬ事ありて思ひつらむ、と、あやしきまでうちまもられ給ふ」
――源氏はこの数年来、この人に対して何を不満と思ってきたのだろうと、並々ならぬお気持ちになってじっと見つめていらっしゃる。――
源氏は「院などに参りて、いととう罷でなむ。……」
――(桐壺)院に参上して、すぐに退出してきますからね。(このように絶えずお逢いできていたら、良かったものを、母宮がいつも側についておられ、私は遠慮していたのでしたよ。あなたがあまり子供っぽく振る舞われていたので、こんなに病気が直りにくいのですよ)――
こんな風に言い置かれて、ご自分は大層念入りに立派に支度をなさってお出かけになるのを、葵の上は目にしっかりとどめて又臥せっておしまいになります。
時は秋の司召(つかさめし)です。左大臣もご子息たちもみな引き続いて内裏に参内されました。
◆秋の司召=除目(じもく)のひとつ。官吏の任免式(就職活動が済んで)。京官のは秋に行い、司召と言い、地方官のは春に行い県召(あがためし)という。
【葵】の巻 (8)
葵の上は、うめき声も発作もやや静まりなさって、母の大宮に抱き起こされて、程なくお生みになりました(座産のかたち)。 喜ぶ傍らで、よりましに移された御物の怪どもが、くやしがって騒ぐ様子から、後産の事がひどく気にかかります。比叡山の天台座主たちは、したり顔に、まわりの人々も連日の心配から解放されて安心されています。御修法もまた始められてはいますが、みな赤子のお世話に夢中になって、おまけに男子でいらっしゃるので喜びも大きく、誰も病人に対して油断なさっているのでした。
六條御息所は、葵の上の男子のご誕生をお聞きになって、穏やかでは居られず、自分が自分でないようなお心持ちでいらっしゃいます。不審にもこの衣裳に芥子の香が染み付いています。髪も洗い着替えもされましたが、香が離れません。(私の魂が葵の上に取り付いて、調伏の目にあったのか)わが身ながらにうとましく思うものの、人に話せることでもないので、心に思い嘆くばかりで気も狂うほどです。
◆葵の上に付いた御物の怪の調伏に、枕元で芥子を焚いた。
源氏は、あの時の狂乱状態の生霊との問わず語りを思い出されては、六條御息所には
久しくご無沙汰していたのは確かに気の毒だったと思うものの、今、直接お目にかかることもはばかられるので、お文だけを差し上げます。
左大臣方では、まだまだ油断できないながらも、若君の産養(うぶやしない)にうれしく過ごしております。源氏は
「若君の御まみのうつくしさなどの、東宮にいみじう似奉り給へるを、見奉り給ひても、先づ恋しう思ひ出でられさせ給ふに、忍び難くて、参り給はむとて」
――若君の目元の愛らしい様子を見るにつけ、藤壺がお産みになった自分の、あの東宮を思い出され、藤壺にも、東宮にもお逢いしたい気持ちがどうにもならなくなって、内裏に上ろうと――
葵の上の近くにお出でになり、衰弱しきって寝ていらっしゃる葵の上を、つくづくと御覧になります。こんな病気の折りでも何と美しいことか。
「年頃何事を飽かぬ事ありて思ひつらむ、と、あやしきまでうちまもられ給ふ」
――源氏はこの数年来、この人に対して何を不満と思ってきたのだろうと、並々ならぬお気持ちになってじっと見つめていらっしゃる。――
源氏は「院などに参りて、いととう罷でなむ。……」
――(桐壺)院に参上して、すぐに退出してきますからね。(このように絶えずお逢いできていたら、良かったものを、母宮がいつも側についておられ、私は遠慮していたのでしたよ。あなたがあまり子供っぽく振る舞われていたので、こんなに病気が直りにくいのですよ)――
こんな風に言い置かれて、ご自分は大層念入りに立派に支度をなさってお出かけになるのを、葵の上は目にしっかりとどめて又臥せっておしまいになります。
時は秋の司召(つかさめし)です。左大臣もご子息たちもみな引き続いて内裏に参内されました。
◆秋の司召=除目(じもく)のひとつ。官吏の任免式(就職活動が済んで)。京官のは秋に行い、司召と言い、地方官のは春に行い県召(あがためし)という。