永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて( 作者・藤原道綱母)

2015年03月22日 | Weblog
藤原道綱母
ふじわらのみちつなのはは
(?―995)
平安中期の歌人。父は正四位下藤原倫寧(ともやす)、母は『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』などに刑部大輔(ぎょうぶのだいぶ)源認(みとむ)の女(むすめ)とするが、通説は主殿頭(とのものかみ)春通女。実名は不明なので、父の名から倫寧女(ともやすのむすめ)、またはその生んだ子の名によって、道綱母、傅大納言母(ふのだいなごんのはは)、傅殿母(ふのとののはは)などとよばれている。異母弟に歌人として知られた長能(ながよし)があり、また『更級(さらしな)日記』の作者はその姪(めい)である。
 道綱母は、早くから歌人として著名であり、『拾遺(しゅうい)集』以下の勅撰(ちょくせん)集に38首が入集(にっしゅう)し、その家集に『傅大納言殿母上集』(『道綱母集』とも)がある。またその結婚生活を晩年に回想した『蜻蛉(かげろう)日記』は、平安時代の女流文学の代表的作品の一つとされている。当時の他の女流作家が、いずれも宮中などに仕えた女房であったのに対して、ただ1人家庭にあった作家としても特色をもつ。
 道綱母の40歳ごろまでの生活は『蜻蛉日記』に詳しい。それによると、20歳ごろの954年(天暦8)に、当時第一の権勢家の右大臣藤原師輔(もろすけ)三男の兼家(かねいえ)と結婚し、翌年道綱を生んだ。『百人一首』にもとられて有名な「嘆きつつひとり寝(ぬ)る夜の明くる間(ま)はいかに久しきものとかは知る」は、結婚生活2年目に、兼家が他の妻に夢中になって訪れなかったときに詠んだものである。『蜻蛉日記』のなかでは、夫の足が絶えがちなのを嘆き続け、「三十日三十夜(みそかみそよ)はわがもとに」と願った話はよく知られる。兼家の早くからの妻の藤原時姫(ときひめ)とその北の方の地位を争ったが、多くの子女に恵まれた時姫を超えることはできなかった。そのため初瀬や石山等に物詣(ものもうで)を重ね、出産を祈ったがかなわず、40歳ごろに、通うこともまれになった夫から身を退(ひ)いて、晩年鴨河(かもがわ)近くの中河の屋敷で過ごした。その後、986年(寛和2)の内裏歌合(だいりうたあわせ)に道綱の代作を出詠するなど、歌人として活躍していたが、995年(長徳1)5月初めごろ60歳余で没した。

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