永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(出産)

2008年05月10日 | Weblog
出産
 
 平安時代においては、お産は医術の遅れのために、女性にとって命懸けのものでありました。当時、難産は「物の怪」の仕業とされ、さかんに加持・祈とうを行い、これを調伏しようとしたが、しかし効無く、命を落とす女性も少なくなかったのであります。
 
 お産は汚れとされていたので、後宮では行わず、里に下って行いました。『源氏物語』では、桐壷更衣が光源氏を生んだところは里邸であり、明石女御が若宮を生むのも、六条院です。産所のしつらえ白描屏風・白几帳など白に統一し、産婦や侍女の衣装も白一色でありました。
 
 お産に際しては、陰陽師や僧侶、山伏によって祓除・加持・祈とうが行われました。赤子を取り上げた後、胎盤を取り出す後産で命を落とす女性も少なくありませんでした。
 
 誕生後は、臍の緒を切る儀・乳(ち)つけの儀・御湯殿(おゆどの)の儀などが行われます。御湯殿の儀は、産湯とは別に、儀式として行われ、吉方の水を汲み用いました。虎の頭と御剣を捧持した女官が付き従い、撒米(うちまき)・鳴弦(めいげん)・読書(とくしょ)の儀が続いて行われました。
 
 出産当夜、および三日、五日、七日、九日の夜には産養(うぶやしない)という、親族などが食物や衣服を贈って出産を祝う宴が行われます。生後五十日は五十日(いか)と呼ばれる祝儀がなされ、赤子に餅を含ませる真似をする。百日目にも百日(ももか)という同様の祝儀が行われました。なお、皇子誕生とその産養の儀式については『紫式部日記』が詳しく書き留めていて参考となります。

◆ 参考 清泉女子大学受講生のページより

◆写真は 風俗博物館より
 
 白いい衣裳を着た女房達は御帳台を囲む様に控えている。女房の姿は廂にも見られるが、出産の日が近づくと白木の御帳台に移ったが、『紫式部日記』によると出産自体は御帳台から出て、北廂で行われた様である。当時の出産は“座産”である。
当時は几帳や屏風が立てめぐらさる中で、女房が参集し僧が集い護摩が焚かれ読経の声が響き、散米(米をまく)、甑落としが行われ…と、大変賑やかな(おどろおどろしい)中で出産が行われていた。

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