蜻蛉日記 中卷 (109)2016.3.20
「六月のついたちの日、『御物忌みなれど、御門の下よりも』とて文あり。あやしくめづらかなりと思ひて見れば、『忌みは今はも過ぎぬらんを、いつまであるべきにか。住み所いと便なかめりしかば、え物せず。物詣は穢らひいできて、とどまりぬ』などぞある」
◆◆六月一日、あの人の使いから、「殿は御物忌み中ですが、ご門の下からそっと」といって文がきました。どうしたものかと不思議に思って見ると、「あなたの物忌みはとうに終わっているだろうに、いったいいつまでいるつもりなのか。(道綱母が物忌みのため、忌み違えに移った父の邸)その家は伺うのにどうも都合が悪いようだったので、伺わないでいるのだ。物詣は穢れができたので取りやめにした」などと書いてある。◆◆
「ここにと、今まで聞かぬやうもあらじと思ふに、心うさもまさりぬれど、念じて返りごと書く。『いとめづらしきはおぼめくまでなむ。ここには久しくなりぬるを、げにいかでかはおぼし寄らん。さても見給ひしあたりとはおぼしかけぬ御ありきの、たびたびになん。すべて今まで世にはべる身の怠りなれば、さらに聞こえず』と物しつ。」
◆◆私がもうここ(自邸)に戻っていると、今まで聞かぬ筈はないと思うのに、憂鬱さは増すけれども、我慢して返事を書きます。「まあ、なんと珍しいお手紙でしょう。いったいどちら様からと見当もつかぬほどでした。こちらに戻って久しくなりますのに、(私をお見限りのあなたが)気づいてくださらないのはもっともですね。それにしてもわが家をかつて通っておられたところとはお思いにもならぬような素通りが度々でしたこと。今までこの世に暮しております私の不徳のいたすところでございますから、今さら何も申し上げません」と書いて送ってやりました。◆◆
蜻蛉日記 中卷 (110)2016.3.20
「さて思ふに、かくだに思ひ出づるもむつかしく、さきのやうにくやしきこともこそあれ、なほしばし身を去りなんと思ひたちて、西山に例のものする寺あり、そち物しなん、かの物忌み果てぬさきにとて、四日、出でたつ。」
◆◆さて、こうして考えてみますに、兼家のことを思い出すだけでも不愉快で、この前のように後悔せずにはいられないことがあっても厭なので、それならしばらく身を引こうと思い立って、西山にいつも参籠する寺があるので、そちらへ行くことにしよう、あの人の物忌みが終わらぬうちにと、四日に出発します。◆◆
「物忌みも今日ぞ明くらんと思ふ日なれば、心あわただしく思ひつつ、物取りしたためなどするに、表筵の下につとめて食ふ薬といふ物、畳紙の中にさしれてありしは、ここに行き帰るまでありけり、これかれ見出でて『これ何ならん』と言ふを取りて、やがて畳紙の中にかく書きけり。
≪狭筵のしたまつことも絶えぬれば置かむかただになきぞかなしき≫
とて、文には『「身をしかへねば」とぞいふめれど、前渡りせさせ給はぬ世界もやあるとて、今日なん。これもあやしき問はず語りにこそなりにけれ』とて、をさなき人の『ひたやごもりならん消息きこえに』とてものするに付けたり。『もし問はるるやうもあらば、【これは書き置きて、はやく物しぬ。追ひてなんまかるべき】とをものせよ』とぞ言ひ持たせたる。」
◆◆あの人の物忌みが今日で終わるだろうと思う日なので、気ぜわしく感じながら、物を片付けたりたりしていると、上筵(うわむしろ)の下に、あの人が朝に服用する薬が、畳紙の中に挟んであったのが、父の家に行って帰ってくるまでここにそのままになっていました。侍女たちが見つけて「これは何でしょう」というのを手にとってそのまま畳紙の中に挟み、こんな歌を書きました。
(道綱母の歌)「あなたの訪れを心待ちにすることもなくなったので、(薬だけでなく)わが身の置き所さえもなくて悲しい」
と書き、手紙には、「<身をしかへねば>という歌もあるようですけど、それでもあなたが私の門前を素通りなさらない所でもありはしないかと思って、今日出かけます。これも妙な問わず語り(聞かれもしないのに)になってしまいました」と書いて、子どもが、「これからお寺に籠りきりになるのでしょう。ご無沙汰のあいさつを申し上げに」と言って出かけるのに言付けました。「ひょっとして、お尋ねになるようなことがあったなら、『母君はこの手紙を書き残して、早くに出立いたしました。私も後を追ってゆくことになっております』とおっしゃいよ」と、言い含めて持たせました。◆◆
「文うち見て心あわただしげに思はれたりけむ、返りごとには『よろづいとことわりにはあれど、まづ、行くらんはなにしにぞ、このごろは行ひも便なからんを、こたみばかり言ふこときくと思ひてとまれ。言ひ合はすべきこともあれば、ただいま渡る』とて、
≪あさましやのどかに頼むとこのうらをうちかへしける波の心よ いとつらくなん≫
とあるを見れば、まいて急ぎまさりてものしぬ。」
◆◆あの人は、わたしの手紙を見て、何か差し迫ったことが起こったと思われたのでしょう。返事には「万事何事もたしかに無理もないことではあるけれど、何はさておき出かけるというのは何なのだ。(六月初旬)このごろの時候は、参籠するにも具合が悪かろうから、今度だけは私の言うことを聞く気になって、思い留まりなさい。いろいろ話し合わねばならぬこともあるから、すぐそちらへ行く」とあって、
(兼家の歌)「あきれたことだ。末長く頼りにしていた寝床をひっくり返して、薬を送り返してきたあなたの心ときたら。ほんとうにひどいことだ」と書いてあったので、なおさら急いで出かけたのでした。◆◆
■西山=鳴滝の般若寺か。
■をものせよ=と(兼家に)答えよ。「を」は間投助詞。
■身をしかへねば=古歌「いづくへも身をしかへねば雲かかる山ぶしみてぞ(山ぶみしても)とはれざりける」
■【鳴滝】
歌枕。(1)京都市右京区鳴滝にある鳴滝川(御室川)に沿う地域。平安京の禊の場所であった。双ヶ丘(ならびがおか)の北にあたる。川は岩石の多い急流で,鳴滝の名のもとになる。中世,寺が多かったがおおむね廃絶。近衛家所伝の典籍記録を蔵する陽明文庫がここにある。《蜻蛉日記》の藤原道綱母は鳴滝に参籠(般若寺のことか。現在廃絶)して,〈身ひとつのかくなる滝を尋ぬればさらにかへらぬ水もすみけり〉と詠んでいる。
■般若寺
般若寺は五台山といい平安時代の中期に栄えた寺である。延喜年間(901~923)大江玉淵が観賢僧正を請じて創建した真言宗の名刹である。般若寺の規模は明らかではないが、金堂の西南方に僧坊が新築され殿上人が集まり、詩会が催された。往時は文化サロンとしても利用されたらしい。「蜻蛉日記」の筆者、右大将道綱の母が夫である兼家との愛情問題に悩み、幼い我が子を伴って、参篭した「西山のさる山寺」とはこの般若寺のことである。明治以降に衰退し、今は般若寺稲荷と称する小さな祠があるに過ぎない。
■写真 =般若寺址
「六月のついたちの日、『御物忌みなれど、御門の下よりも』とて文あり。あやしくめづらかなりと思ひて見れば、『忌みは今はも過ぎぬらんを、いつまであるべきにか。住み所いと便なかめりしかば、え物せず。物詣は穢らひいできて、とどまりぬ』などぞある」
◆◆六月一日、あの人の使いから、「殿は御物忌み中ですが、ご門の下からそっと」といって文がきました。どうしたものかと不思議に思って見ると、「あなたの物忌みはとうに終わっているだろうに、いったいいつまでいるつもりなのか。(道綱母が物忌みのため、忌み違えに移った父の邸)その家は伺うのにどうも都合が悪いようだったので、伺わないでいるのだ。物詣は穢れができたので取りやめにした」などと書いてある。◆◆
「ここにと、今まで聞かぬやうもあらじと思ふに、心うさもまさりぬれど、念じて返りごと書く。『いとめづらしきはおぼめくまでなむ。ここには久しくなりぬるを、げにいかでかはおぼし寄らん。さても見給ひしあたりとはおぼしかけぬ御ありきの、たびたびになん。すべて今まで世にはべる身の怠りなれば、さらに聞こえず』と物しつ。」
◆◆私がもうここ(自邸)に戻っていると、今まで聞かぬ筈はないと思うのに、憂鬱さは増すけれども、我慢して返事を書きます。「まあ、なんと珍しいお手紙でしょう。いったいどちら様からと見当もつかぬほどでした。こちらに戻って久しくなりますのに、(私をお見限りのあなたが)気づいてくださらないのはもっともですね。それにしてもわが家をかつて通っておられたところとはお思いにもならぬような素通りが度々でしたこと。今までこの世に暮しております私の不徳のいたすところでございますから、今さら何も申し上げません」と書いて送ってやりました。◆◆
蜻蛉日記 中卷 (110)2016.3.20
「さて思ふに、かくだに思ひ出づるもむつかしく、さきのやうにくやしきこともこそあれ、なほしばし身を去りなんと思ひたちて、西山に例のものする寺あり、そち物しなん、かの物忌み果てぬさきにとて、四日、出でたつ。」
◆◆さて、こうして考えてみますに、兼家のことを思い出すだけでも不愉快で、この前のように後悔せずにはいられないことがあっても厭なので、それならしばらく身を引こうと思い立って、西山にいつも参籠する寺があるので、そちらへ行くことにしよう、あの人の物忌みが終わらぬうちにと、四日に出発します。◆◆
「物忌みも今日ぞ明くらんと思ふ日なれば、心あわただしく思ひつつ、物取りしたためなどするに、表筵の下につとめて食ふ薬といふ物、畳紙の中にさしれてありしは、ここに行き帰るまでありけり、これかれ見出でて『これ何ならん』と言ふを取りて、やがて畳紙の中にかく書きけり。
≪狭筵のしたまつことも絶えぬれば置かむかただになきぞかなしき≫
とて、文には『「身をしかへねば」とぞいふめれど、前渡りせさせ給はぬ世界もやあるとて、今日なん。これもあやしき問はず語りにこそなりにけれ』とて、をさなき人の『ひたやごもりならん消息きこえに』とてものするに付けたり。『もし問はるるやうもあらば、【これは書き置きて、はやく物しぬ。追ひてなんまかるべき】とをものせよ』とぞ言ひ持たせたる。」
◆◆あの人の物忌みが今日で終わるだろうと思う日なので、気ぜわしく感じながら、物を片付けたりたりしていると、上筵(うわむしろ)の下に、あの人が朝に服用する薬が、畳紙の中に挟んであったのが、父の家に行って帰ってくるまでここにそのままになっていました。侍女たちが見つけて「これは何でしょう」というのを手にとってそのまま畳紙の中に挟み、こんな歌を書きました。
(道綱母の歌)「あなたの訪れを心待ちにすることもなくなったので、(薬だけでなく)わが身の置き所さえもなくて悲しい」
と書き、手紙には、「<身をしかへねば>という歌もあるようですけど、それでもあなたが私の門前を素通りなさらない所でもありはしないかと思って、今日出かけます。これも妙な問わず語り(聞かれもしないのに)になってしまいました」と書いて、子どもが、「これからお寺に籠りきりになるのでしょう。ご無沙汰のあいさつを申し上げに」と言って出かけるのに言付けました。「ひょっとして、お尋ねになるようなことがあったなら、『母君はこの手紙を書き残して、早くに出立いたしました。私も後を追ってゆくことになっております』とおっしゃいよ」と、言い含めて持たせました。◆◆
「文うち見て心あわただしげに思はれたりけむ、返りごとには『よろづいとことわりにはあれど、まづ、行くらんはなにしにぞ、このごろは行ひも便なからんを、こたみばかり言ふこときくと思ひてとまれ。言ひ合はすべきこともあれば、ただいま渡る』とて、
≪あさましやのどかに頼むとこのうらをうちかへしける波の心よ いとつらくなん≫
とあるを見れば、まいて急ぎまさりてものしぬ。」
◆◆あの人は、わたしの手紙を見て、何か差し迫ったことが起こったと思われたのでしょう。返事には「万事何事もたしかに無理もないことではあるけれど、何はさておき出かけるというのは何なのだ。(六月初旬)このごろの時候は、参籠するにも具合が悪かろうから、今度だけは私の言うことを聞く気になって、思い留まりなさい。いろいろ話し合わねばならぬこともあるから、すぐそちらへ行く」とあって、
(兼家の歌)「あきれたことだ。末長く頼りにしていた寝床をひっくり返して、薬を送り返してきたあなたの心ときたら。ほんとうにひどいことだ」と書いてあったので、なおさら急いで出かけたのでした。◆◆
■西山=鳴滝の般若寺か。
■をものせよ=と(兼家に)答えよ。「を」は間投助詞。
■身をしかへねば=古歌「いづくへも身をしかへねば雲かかる山ぶしみてぞ(山ぶみしても)とはれざりける」
■【鳴滝】
歌枕。(1)京都市右京区鳴滝にある鳴滝川(御室川)に沿う地域。平安京の禊の場所であった。双ヶ丘(ならびがおか)の北にあたる。川は岩石の多い急流で,鳴滝の名のもとになる。中世,寺が多かったがおおむね廃絶。近衛家所伝の典籍記録を蔵する陽明文庫がここにある。《蜻蛉日記》の藤原道綱母は鳴滝に参籠(般若寺のことか。現在廃絶)して,〈身ひとつのかくなる滝を尋ぬればさらにかへらぬ水もすみけり〉と詠んでいる。
■般若寺
般若寺は五台山といい平安時代の中期に栄えた寺である。延喜年間(901~923)大江玉淵が観賢僧正を請じて創建した真言宗の名刹である。般若寺の規模は明らかではないが、金堂の西南方に僧坊が新築され殿上人が集まり、詩会が催された。往時は文化サロンとしても利用されたらしい。「蜻蛉日記」の筆者、右大将道綱の母が夫である兼家との愛情問題に悩み、幼い我が子を伴って、参篭した「西山のさる山寺」とはこの般若寺のことである。明治以降に衰退し、今は般若寺稲荷と称する小さな祠があるに過ぎない。
■写真 =般若寺址