永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(54)

2015年07月23日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (54) 2015.7.23

「心のどかに暮らす日は、はかなきこと言ひ言ひの果てに、われも人も悪う言ひなりて、うち怨じて出づるになりぬ。端の方にあゆみ出でて、をさなき人をよび出でて、『われは今は来じとす』など言ひおきて出でにけるすなはち、はひ入りて、おどろおどろしう泣く。」
◆◆のんびりと暮していたある日、ちょっとした口論のはてに、私もあの人も険悪な言いあいになって、あの人は嫌味を言って出て行く羽目になってしまったのでした。縁側の方に行って、幼い道綱を呼び寄せて、「私はもう来ないよ」などと言い置いて出て行った途端に、幼い子はこちらに戻ってきて、ひどく泣きじゃくるのでした◆◆


「『こはなぞ、こはなぞ』と言へど、いらへもせで、論なうさやうにぞあらんとおしはからるれど、人の聞かむもうたてものぐるほしければ、問ひさして、とかうこしらへてあるに、五六にちばかりになりぬるに、音もせず。」
◆◆「いったいどうしたの、どうしたの」と聞いても答えず、きっとそんなことだろうと察しはしたものの、侍女たちに聞かれるのも嫌なので、それ以上問いただすのはやめて、道綱を慰めていましたが、五日六日と日が経っても訪れがありません。◆◆


「例ならぬほどになりぬれば、あなものぐるほし、たはぶれ言とこそ我は思ひしか、はかなき仲なればかくて止むやうもありなんかしと思へば、心ぼそうてながむるほどに、出でし日つかひし泔坏の水は、さながらありけり。うへに塵ゐてあり。かくまでとあさましう、
<絶えぬるか影だにあらば問ふべきをかたみの水は水草ゐにけり>
など思ひし日しも、見えたり。例のごとにてやみにけり。かやうに胸つぶらはあしき折のみあるが、世に心ゆるびなきなん、わびしかりける。」
◆◆いつもなら三日ほどの間隔で見えるのに、このような長い音沙汰無しになってしまい、まあなんてひどいこと、戯れのことと思っていたのに、なにぶんはかない二人の仲なので、このまま終わりになってしまうこともあるかしら、と思うと、心細くて物思いに沈んでいるとき、あの出て行かれた日に使った泔坏(ゆするつき)の水がそのままになってあって、塵などが浮いたままありました。まあこんなになるまで音沙汰がないとはと、あきれ果てて、
(道綱母の歌)「あの人(兼家)との仲は絶えてしまったのだろうか。せめてあの人の影だけでも水に映るものなら尋ねてみたいものなのに、泔坏の水には水草がはびこって影も見えない」
と思い沈んでいるそんな頃にあの人が見えたのでした。いつもの調子でなにごともうやむやにするのもいつものことで、このような不安で少しも心の休まるときがない日々は、とてもやりきれない。◆◆


■泔坏(ゆするつき)=「ゆする」とは洗髪または頭髪を梳くときに使う水で、強飯を蒸したあとの粘り気のある汁。または米のとぎ汁を使ったともいう。「坏」は(ゆする)を入れておく器。


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