09.1/14 275回
【常夏(とこなつ)】の巻】 その(1)
続いて、その夏。
たいそう暑い六月のある日、六条院の南の御殿では、池に渡してある釣殿(つりどの)で源氏が涼んでおります。夕霧もお側に侍り、親しい殿上人も大勢伺候しておられます。
桂川から献上された鮎や、賀茂川で捕れた石伏(いしぶし)という魚などを、お前で料理して差し上げます。
風が少しは吹いているものの、雲ひとつない夏空で、西日になる頃には、蝉の声も暑苦しく、若い人はめいめい、氷水や水飯など食べております。源氏は、
「いとかかる頃は、遊びなどもすさまじく、さすがに暮らし難きこそ苦しけれ。(……)このごろ世にあらむことの、すこしめづらしく、ねぶたさ醒めぬべからむ、語りて聞かせ給へ。何となく翁びたる心地して、世間のこともおぼつかなしや」
――こうひどく暑い時節には、音楽も面白くなく、なんとも凌ぎがたいのが困る。(宮中に出仕する人々は帯も紐も解かずに伺候せねばならず、たいへんだろう。せめてここでは寛いで)、この頃世間で評判の、眠気も醒めるような話があったら聞かせてください。なんとも老いこんだ気持がして、世間の事情に疎くなってね。――
とおっしゃいますが、皆かしこまった様子で、少しでも涼しくと高欄を背に座っております。源氏は弁の少将(柏木の弟君)に、
「いかで聞きしことぞや、大臣の外腹の女尋ね出でてかしづき給ふなる、とまねぶ人ありしは。まことにや」
――まあ、聞いた話ですが、内大臣が妾腹の娘を捜し出して、大切にされているそうだと語った人が居ましてね。ほんとうですか――
とお聞きになりますので、弁の少将が、
「ことごとしく、さまで言ひなすべき事にも侍らざりけるを。この春の頃ほひ、夢語りし給ひけるを、ほの聞き伝へ侍りける女の、われなむかこつべきことある、と、名のり
出で侍りけるを、(……)かやうのことこそ、人のため自ら、けそんなるわざに侍りけれ」
――大袈裟にそれほど言いたてる程もないことでございますが、この春頃、父上が夢占いをおさせになりましたところ、その話を伝え聞いた人がいまして、私こそ申し上げたいことがありますと、名乗り出てきましたのを、(兄の柏木が真かどうかを尋ねておりました。詳しくは存じません。まったく世間話の種と人々が噂し合っております。)父にとりましても、私どもにとりましても困ったことでございます。――
源氏は、あの話は本当だったのだな、とお思いになって、
「いと多かめる列に離れたらむ後るる雁を、しひて尋ね給ふが、ふくつけきぞ。(……)底清くすまぬ水にやどる月は、曇りなきやうのいかでかあらむ」
――大勢おられる御子さんの仲間にもはづれた姫君を、無理に捜し出されるのが欲張りというものですよ。(私は子供が少ないので、そういう娘でもいたら名乗り出てほしいのに、私ごとき身分には面倒なのか、一向に言ってきません。それにしても、身に覚えがないということもないのでしょう。お若い頃はあちこちお遊びになっておいででしたからね。)濁り江に宿った月影でもありますまいが、どうかと思う御落胤もままあることでもありますがね。――
と、微笑んでおっしゃる。夕霧はその事を、詳しく聞き知っておられますので、まじめに弁護もしてあげられず、弁の少将と藤侍従(弁の少将の弟君)は、御父君のことですので、なんとも辛い思いで聞いております。
◆釣殿(つりどの):池に臨んで建ててある南端の建物。離れで宴会や涼みに、月夜を愛でたりする。
◆水飯(すいはん):乾し飯(いい)や飯を冷や水につけて食べる。
◆けそんなる=家損=家の恥、家の名折れ
◆底清くすまぬ水にやどる月は:素性も知れぬ女の腹に生まれた娘が、立派である筈がない、という譬。
◆ふくつけき=欲深い、貪欲
ではまた。
【常夏(とこなつ)】の巻】 その(1)
続いて、その夏。
たいそう暑い六月のある日、六条院の南の御殿では、池に渡してある釣殿(つりどの)で源氏が涼んでおります。夕霧もお側に侍り、親しい殿上人も大勢伺候しておられます。
桂川から献上された鮎や、賀茂川で捕れた石伏(いしぶし)という魚などを、お前で料理して差し上げます。
風が少しは吹いているものの、雲ひとつない夏空で、西日になる頃には、蝉の声も暑苦しく、若い人はめいめい、氷水や水飯など食べております。源氏は、
「いとかかる頃は、遊びなどもすさまじく、さすがに暮らし難きこそ苦しけれ。(……)このごろ世にあらむことの、すこしめづらしく、ねぶたさ醒めぬべからむ、語りて聞かせ給へ。何となく翁びたる心地して、世間のこともおぼつかなしや」
――こうひどく暑い時節には、音楽も面白くなく、なんとも凌ぎがたいのが困る。(宮中に出仕する人々は帯も紐も解かずに伺候せねばならず、たいへんだろう。せめてここでは寛いで)、この頃世間で評判の、眠気も醒めるような話があったら聞かせてください。なんとも老いこんだ気持がして、世間の事情に疎くなってね。――
とおっしゃいますが、皆かしこまった様子で、少しでも涼しくと高欄を背に座っております。源氏は弁の少将(柏木の弟君)に、
「いかで聞きしことぞや、大臣の外腹の女尋ね出でてかしづき給ふなる、とまねぶ人ありしは。まことにや」
――まあ、聞いた話ですが、内大臣が妾腹の娘を捜し出して、大切にされているそうだと語った人が居ましてね。ほんとうですか――
とお聞きになりますので、弁の少将が、
「ことごとしく、さまで言ひなすべき事にも侍らざりけるを。この春の頃ほひ、夢語りし給ひけるを、ほの聞き伝へ侍りける女の、われなむかこつべきことある、と、名のり
出で侍りけるを、(……)かやうのことこそ、人のため自ら、けそんなるわざに侍りけれ」
――大袈裟にそれほど言いたてる程もないことでございますが、この春頃、父上が夢占いをおさせになりましたところ、その話を伝え聞いた人がいまして、私こそ申し上げたいことがありますと、名乗り出てきましたのを、(兄の柏木が真かどうかを尋ねておりました。詳しくは存じません。まったく世間話の種と人々が噂し合っております。)父にとりましても、私どもにとりましても困ったことでございます。――
源氏は、あの話は本当だったのだな、とお思いになって、
「いと多かめる列に離れたらむ後るる雁を、しひて尋ね給ふが、ふくつけきぞ。(……)底清くすまぬ水にやどる月は、曇りなきやうのいかでかあらむ」
――大勢おられる御子さんの仲間にもはづれた姫君を、無理に捜し出されるのが欲張りというものですよ。(私は子供が少ないので、そういう娘でもいたら名乗り出てほしいのに、私ごとき身分には面倒なのか、一向に言ってきません。それにしても、身に覚えがないということもないのでしょう。お若い頃はあちこちお遊びになっておいででしたからね。)濁り江に宿った月影でもありますまいが、どうかと思う御落胤もままあることでもありますがね。――
と、微笑んでおっしゃる。夕霧はその事を、詳しく聞き知っておられますので、まじめに弁護もしてあげられず、弁の少将と藤侍従(弁の少将の弟君)は、御父君のことですので、なんとも辛い思いで聞いております。
◆釣殿(つりどの):池に臨んで建ててある南端の建物。離れで宴会や涼みに、月夜を愛でたりする。
◆水飯(すいはん):乾し飯(いい)や飯を冷や水につけて食べる。
◆けそんなる=家損=家の恥、家の名折れ
◆底清くすまぬ水にやどる月は:素性も知れぬ女の腹に生まれた娘が、立派である筈がない、という譬。
◆ふくつけき=欲深い、貪欲
ではまた。