落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

千円まつり

2007年07月01日 | movie
『ブリッジ』
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日本はこの10年、年間自殺者の数が3万人という自殺大国になっている。
3万人といえば交通事故の犠牲者の約5倍である。そういわれてもぴんとこないのは、毎日交通事故は報道されているのに、自殺は状況が特殊─場所が学校など公共施設だったり、死者が有名人や子どもだったり─でない限りほとんど報道されないからだと思う。
自殺が報道されないのは、それが話題としてタブーになっているからだ。身近に自殺で亡くなった人がいても、大抵の人はそのことについて語ることはしない。ぐりの身近にも自殺者はいるけど、それについて誰かと話したことはほとんどない。考えてみれば、その死について語ろうにも、何を語ればいいのかわからない。
自殺について語る言葉がみつからないのは、あるいは、遺された人々が、被害者でありかつまた加害者でもありうるからかもしれない。大切な人を永久に奪われたのと同時に、助けられたかもしれないのにできなかったという罪も、自殺者は周囲の人々それぞれにひきかぶせて去っていく。

映画としての完成度がどうこうというような作品ではない。
1年間ゴールデンゲートブリッジを定点撮影し、カメラにとらえた自殺者の遺族や友人をインタビュー取材する。ナレーションはなし、テロップや音楽も必要最低限。シンプルな映画だ。
けどそれだけで充分に重い。
だって自殺の名所で定点撮影だよ。自殺しにくる人を待ち伏せだよ。ふつうのアタマじゃそんなことできっこない。それを彼らはやりきっている。「自殺者」が、その瞬間の直前まで、生きて呼吸していたことを証明するために。
幸せな家族はみんな似ているけど不幸な家族はそれぞれ違うってのは誰の言葉だったか、この作品に登場する自殺者たちもそれぞれにまったく違う顔をもっている。共通しているのは、7人全員がうつ病や統合失調症など深刻な精神疾患と戦っていたことだ。だから言い方を変えれば、彼らは自殺じゃない。病気の症状による事故ともいえる。だからこそ遺族は取材に応じたのかもしれない。少なくとも、他のケースとは条件が違うと思う。
それだけの共通点があっても、7人にはやはり7人別々の人生があって、自殺したとかアタマがおかしかったとかそういう類型にあてはめることはできない。まったく別の7人に、たまたま精神疾患と“ジャンパーズ”という共通点があっただけ、ともいえる。

それとこの映画に登場するのは自殺者と遺族だけではない。飛び込んだけど助かった人や、結果的に飛び込まなかった人、自殺者を目撃した人(=通報者)、自殺志願者を助けた人も登場する。
ただ飛び降りたといっても、その現場にはいろんなドラマがある。欄干を乗り越えてすぐジャンプする人、欄干の前で何時間も逡巡する人、転がるように欄干から墜落する人。その場に居合わせた人もそれぞれ抱く感情は違う。
冒頭、カイトセーリングをしていて自殺を目撃した青年がこういう。その日はいい天気でまさにセーリング日和、自分は好きなことをするのに頭が一杯なのに、その人は死ぬしかないところまで人生追いつめられていた。不思議なものだと。同じ人間同士、すぐすばにいても、こんなに違う。
そのギャップを絶望的というのはラクかもしれない。でも実際には、自殺する人としない人の差はごくあやういものだ。そのことを、我々はほんとうは知っていて目を向けようとはしていない。
この映画は、みんなが目を背けているタブーをまっすぐにみつめている。他では絶対にみることのできない映画であることは、間違いない。

千円まつり

2007年07月01日 | movie
『ボルベール <帰郷>』
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アルモドバルの映画ってズルイよねえ。
観るたび「やられた〜」という気分になる。いい意味でね。
大筋はサスペンスなんだけど、サスペンスとしてだけみるとあまりにベタすぎる。女性賛歌としても奥行きというほどの含蓄はない。ストーリーも毎度のごとくめちゃめちゃ強引。
それなのに、観るたび登場人物に魅了され、作品の世界に強烈に惹きつけられてしまう。
ズルイよー。

これってたぶん、アルモドバル作品の登場人物たちの多くがあらかじめ罪を負ってるからなんじゃないかと思うんだよね。
現実を生きてる人間なら、誰しも多かれ少なかれなんらかの罪を負っている。その罪ゆえに、観る者は彼・彼女たちに共感し、ひそかに応援したくなってしまう。
主人公ライムンダ(ペネロペ・クルス)もそうだ。彼女は娘(ヨアンナ・コボ)が誤って刺殺してしまった夫(アントニオ・デ・ラ・トーレ)の遺体を始末しようとあれこれ画策するけど、それ以前に、物語の始まるずっと前にもっと大きな罪を犯している。そのことは直接的には映画のずっとあとになって語られるのだが、序盤でもそれを示唆する伏線はきっちり表現されている。
しかしアルモドバル作品のほとんどがそうであるように、映画では彼女たちを決して断罪はしない。罪を罪としてかたづけるのは簡単なことだ。だがその罪が生まれるのは、我々人間が生きているからで、生きているからには誰もが罪を負っているはず、それなら、生きている人間は皆、許しあったり受け入れあったり、罪がどこから来て、人をどこへ連れていくものなのか、それぞれにもっとしっかりと考えるべきではないのか、そんなことを、彼は女性映画というかたちで語っているような気がする。

アルモドバルはゲイだけど、クルスの魅力には思わずぐらっとくるという発言をしている。ぐりも彼女大好きです。きれいだよねえ。造形的にもきれいだけど、あの少年のような少女のような独特の雰囲気がステキ。ハ?潟Eッドではあんましぱっとせんけど(トムクルのせいかなあ?)、もっと活躍してほしーですー。

千円まつり

2007年07月01日 | movie
『マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶』

ドキュメンタリーじゃないですね。インタビュー集です。
ぐりはてっきりマストロヤンニの伝記みたいなものかと思ってたけど、生立ちとか経歴とかそういった情報はいっさいなくて、ひたすら、いろんな人(本人含む)のインタビューが延々続く。ぶっちゃけ途中でちょっと飽きました(爆)。もっと思いっきりファンだったりしたらすごく楽しめそうですが、あいにくぐりはそーでもないのでー。
登場するインタビュイー─ふたりの娘、共演者、スタッフ、監督─の語るマストロヤンニ像が、見事にうまく一致しているのがひっかかる。おそらく彼はみんながいう通り、内気で謙虚で繊細で、かつ知的で才能に溢れたすばらしい俳優だったのだろう。それは事実ではあるのだろう。でもやっぱり、アニタ・エクバーグ、ソフィア・ローレン、フェイ・ダナウェイ、カトリーヌ・ドヌーヴなど多くの女優と浮き名を流したはずなのに、彼女たちがひとりたりとも登場しないのは不自然だ。生前どんなことがあったにせよ、亡くなって10年も経てば時効じゃないんですかねえ。
肉親では娘たちと弟しか出てこなかったけど、彼らのマストロヤンニ像にも新鮮味はない。逆にいえば、もしかしたらマストロヤンニはほんとうに「裏表のない」人だったのかもしれない。う〜〜〜む?
去年亡くなったフィリップ・ノワレが友人・共演者として登場したけど、お?サらく闘病中だったのだろう、スクリーンで観たノワレとはまったくの別人のような姿になっていてショックでした。