落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

思考を止めるな

2022年04月10日 | movie

『コーダ あいのうた』


『チェリまほ THE MOVIE ~30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい~』


『コーダ』は別件で物議を醸してしまった今年のアカデミー賞で見事作品賞を受賞した話題の作品。
受賞後すぐに観に行ってみた。

物語の主人公は高校生のルビー(エミリア・ジョーンズ)。音楽教師(エウヘニオ・デルベス)に才能を見込まれ音大への進学を勧められるが、漁業を営む父(トロイ・コッツァー)も母(マーリー・マトリン)も兄(ダニエル・デュラント)も聴覚障害者で、ルビーの通訳なしでは家業が成り立たない。夢を追いかけるために家を離れるべきか、家族のために夢を諦めるべきか逡巡するヒロインと、いっしょに合唱の練習をする同級生マイルズ(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)との淡い恋も芽生える。

もう何十年も何千本も世界中でつくられてきたホームドラマ、青春映画の王道だ。
画面の上では驚くようなことは何ひとつ起こらない。何度もどこかで目にしてきた普遍的な「愛の物語」「成長物語」がテンプレートそのままに進行し、ハッピーエンドで幕を下ろす。
それだけだ。

確かに、この映画がオスカーを獲ったことは素晴らしい。
いま、映画界に求められているのは多様性と平等。この映画で主要登場人物には聴覚障害者が3人いて、3人とも実際の聴覚障害者が演じている。父親役のトロイ・コッツァーはこの映画で聴覚障害者として初のアカデミー賞助演男優賞を受賞した。
漁業者たちが直面している現実もちゃんとクリアに描写されている。スマート農業などといわれ、工程の一部でコンピューター制御の設備を使って野菜がつくれる技術が発展している農業と違い、漁業の生産現場の大半は人の手作業に頼っている。過酷な肉体労働と高価なコストをかけて水揚げした品が不当に安価で買い叩かれ、漁業者の利益がなかなか上がらないのは、国は違えど、震災復興ボランティア(過去の活動記録アーカイブ)でお手伝いさせていただいた東北の漁業者の皆さんの現場で、私自身が耳にした現状と重なっている。

だが作品全体を客観的に観て、「傑作」というほどのクオリティはない。定型にはまらない障害者の個性的なキャラクターや、才能あふれるヒロインのみずみずしい歌声は魅力的だけど、残念ながら、観客の多くは、来年のオスカーのころにはもうこの作品を忘れているだろう。
はっきりいって、作品としてのインパクトは大して強くないし、観て何かが胸に残るというほどの映画でもないのは疑いようのない事実だ。

一方の『チェリまほ THE MOVIE』は一昨年の10月期に深夜番組として放送されたにも関わらず、アジアを中心に世界各地で社会現象とも呼べる熱狂を巻き起こした大人気ドラマの、その後を描いた映画版だ。
童貞のまま30歳になって「触れた人の心の声が聞こえる」という微妙な魔法使いになった地味なサラリーマン・安達(赤楚衛二)が、営業成績トップで容姿端麗な社内の人気者・黒沢(町田啓太)と恋人同士になり交際を始めるが、長崎での新店舗開店のために転勤、遠距離恋愛に。そんな環境が、ふたりが将来の人生をどう歩むかを真剣に考えるきっかけとなる。

原作はボーイズラブコミックだが、「平凡なヒロインがなぜか“スター”と恋に堕ちてハッピーエンド」という、これまた少女漫画の歴史の中で無数に描かれ続けてきたラブコメディの定型である。
面白いのは主人公が異常に奥手な30歳で少女でも少年でもない魔法使いという設定と、これまた異常に暑苦しい恋心と妄想力を炸裂させつつポーカーフェイスという様子のおかしいイケメンという相手のキャラクター。彼らの些細な触れあいが、それだけでちょっと笑えるシチュエーションになるというスパイシーな世界観が新鮮だった。

だが映画になった主人公ふたりのその後の物語が見応え抜群だったかと問われれば、つい「うーん」となってしまう。
ドラマのファンなら、ふたりの愛の物語の続きが観られてすごく嬉しくて大喜び…してもいいのだが、低予算で上映時間も比較的短い小規模作品、スタッフも若手揃いのせいなのか、1本の「劇場用映画」として自立したクオリティになってるとはいえないし、正直にいえば「物足りない」の一言に尽きてしまう。
同じテレビ東京の『きのう何食べた?』的な名作を期待してはいけなかったのかもしれない。『何食べ』の原作者は巨匠だし、何しろアカデミー賞受賞作の主演と紫綬褒章受章者がメインキャストなんだから。

転勤を内示された安達は、黒沢と離れ離れになることに不安を感じつつキャリアアップに挑戦したり、黒沢のパートナーとしてどうありたいかを真摯に考えるようになったり、キャラクターとして大きな飛躍を見せる。
なんだけど、その展開がなんとなく段取り調で、結果として招かれる事態も予定調和の域を一歩も出ていないのだ。となれば、明確な山場はいくつもあるのになぜかもうひとつ盛り上がらない。
同性カップルが直面する問題の一片を見せてはいても、そこには大した葛藤すらない。あくまでもファンタジーだからといえばそれまでだが、ほんとうにそれでいいのだろうか。

このまったく別の2作品を本稿で並列に語るのには目的がある。
映像作品における「多様性」の問題だ。

『コーダ』では障害者が障害者を演じることで話題になり、作品としての評価を得た。
一方で『チェリまほ』で主人公たちを演じているのは、同性愛者ではない(あくまで一般に知られるところでは)。
だが『チェリまほ』に限らずとくにここ数年、ドラマでも映画でも性的少数者を描いた多様な作品が量産され、マーケットの熱気は高まるばかりだし、評価も興行成績も決して悪くない。やはり深夜ドラマから大ヒットした先述の『劇場版 きのう何食べた?』然り、台湾で映画賞を総舐めにした『親愛なる君へ』然り、アンファン・テリブルと呼ばれた若き奇才グザヴィエ・ドランの『マティアス&マキシム』然り、草なぎ剛の圧倒的な演技力で観客の度肝を抜いた『ミッドナイトスワン』然り、現役アイドルが激しい性表現に挑んだBLコミックの映画化作品『窮鼠はチーズの夢を見る』然り、あまりにも美しい主人公たちの儚い夢のような恋の機微を繊細に描いた『君の名前で僕を呼んで』然り。
だがそのすべての作品において、主要登場人物を当事者である性的少数者が演じているわけではない。

ハリウッドなどでは、映像作品には必ずマイノリティが登場して、その役は必ずその当事者が演じるべき、という風潮が浸透し始めている。「当事者による表象」と呼ばれる考え方だそうで、「非当事者」の表象が引き起こす「差別や偏見の助長」を解消し、マイノリティが映像作品で“本物”の存在感を示すことでエンターテインメント産業の社会的役割を果たすためだという。ハリウッドのみならず世界にはマイノリティが主体となった劇団やエージェントが昔から存在しているし、私も個人的に好きなファッションデザイナーの故アレキサンダー・マックイーンはコレクションで積極的に身体障害者をモデルに採用し、その作品群は完全に芸術の域に達している。
マイノリティがエンターテインメントや芸術の分野で活躍できる可能性が広がることそのものは素晴らしいし、いまよりもっとその幅が広がれば断然いいと、マイノリティのひとりとして、心から私もそう思う。

でも。
じゃあ、どの作品にも絶対にマイノリティが出てこなくてはならなくて、それが絶対に当事者じゃなきゃいけないのかといえば、私はそれは違うと思う。
エンターテインメントも芸術もあるレベルを超えなくてはならないとしたら、ビジネスとしてオーディエンスの支持を得る=利益を上げなくてはならないし、であればすでに実績を挙げている著名な人物がキャスティングされなくてはならないこともあるし、アートには本来より自由な表現が許されるべきだ。もちろんそこには、マイノリティへの最大限の配慮は必要だが、それにばかり拘泥していていいのかという疑念は拭えない。

たとえば日本の宝塚ではキャストの全員が女性だ(あくまで一般的に)。一方、歌舞伎は一部の子役を除けばキャストは全員男性(やはり一般的に)。
これが倫理的に「不正解」だとすれば、長い歴史をもつこれらの文化自体が否定されてしまうし、マイノリティは毎度毎度社会に対して「私はマイノリティだ。だからありのままのマイノリティとして活躍したい」という意思表示を強いられることになる。
それはそれで理不尽ではないだろうか。ほんとなら、そんな主義主張なんか必要ない社会を目指すことが先決なのではないか。

表現の領域でマイノリティの存在が尊重され、多様性を認めあう未来を築くことに関係者一同が注力することは重要だけど、私個人は、それはあくまでも「表現」に求められるものの一部分であって、それだけを表現の第一義として崇め奉り、それに反した表現をあげつらって批判して炎上させるのはなんかちょっと違うんじゃない?と思う。

個人の話で恐縮だが、私は在日コリアンとして生まれ育ったが、日本の映像作品で日本人が在日コリアンを演じることにはいっさいなんの抵抗もない。デビュー作『青〜chong』だけでなく出世作『海峡』その他でも在日コリアン・朝鮮人を演じている眞島秀和さんは日本人でいちばんのお気に入り俳優だ。古い映画だが、オードリー・ヘプバーンの代表作のひとつ『ティファニーで朝食を』で口うるさい隣人の日本人・ユニオシさんを演じたのはアメリカ人のミッキー・ルーニー。登場シーンは多くないが、彼のキャラクターと演技は、この作品のなんともいえない独特の世界観の中で「この役はこの人でなければならない」という印象的で重要な役割を担っていると思う。

ほんとうは、こんなことでいちいち騒ぎ立てることなく、マイノリティもマジョリティもお互いが自然にリスペクトしあい、受け入れあい、それを自由に表現することで真にハイクオリティなコンテンツが当たり前につくられ、オーディエンスの評価が得られるならそれでいいじゃん。と思っている。
そのために一生懸命たたかってる人たちがいるのは先刻承知の上だけど、無駄に多くの関係者がそれにばかり振り回されるのは、マイノリティ自身にとって逆風にしかならないんじゃないかとも思うし、あくまで炎上を避けて表面上の「多様性」だけカバーできれてればそれでよしとする「多様性の形骸化」が定着してしまったら、それはそれで危険なのでは?と思う。

いろんな意見があっていいし、いいたい人は好きにいえばいい。
大事なことは、誰がどんな立場で何のためにどんな主張をしているか、襟を正してちゃんと耳を傾けることで、物事の一部分だけを切り取ってただ批判ばかりするというのは非生産的だし、一歩間違えれば「表現の自由」を大きく傷つけるリスクもあるのではないだろうか。
このことに対しては百人いれば百通りの考え方があって当然だし、より多くの人が問題に向きあい、考える機会があることはそれだけ社会が成熟している証拠だろう。間違っているのは、問題に一片の関心も持たず他人事として無視し、考えるのをやめてしまうことだ。

政治哲学者ハンナ・アーレントは、「根源悪は、人間を無用の存在、つまり思考停止の状態になることで生じる」という言葉を残している。
己の頭で考えることを否定するのは、知性という人間性の否定につながる。一人ひとりが、自分の力で思考停止から抜け出す。
いつもそこから始めるのが、ほんとうの正解なんじゃないかと思います。


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