落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

虚飾の階段

2020年06月20日 | book

『女帝 小池百合子』 石井妙子著


都知事選が始まりましたが。
読もうと思ったきっかけは選挙ではない。どっちにしろ私が投票する候補者ははじめから決まっているからである。
それは、少し前に本書の読者がTwitterで「著者が小池氏の容貌について言及するのが残念」と投稿しているのを目にしたからだ。すぐにネットで注文したものの手元に届くまで2週間もかかった。通常なら書店で買えば済むのだが、この新型コロナウィルスの感染拡大で仕事はまる3ヶ月近く自宅勤務で、出歩く機会がほとんどなかった。最寄りの書店はすべて閉まっていた。

読んでみて、確かに著者は何度も小池氏の容貌─とくに頰のアザ─にくどいほど言及している。憶測ではあるが、生まれつきのそのアザが彼女のコンプレックスになり、同世代の女性たちへの対抗意識になったのではないかという筋立てまで書いている。
ルッキズムが差別と批判されるポリティカリーコレクトネスが通用するならまだしも、小池氏の少女時代からいまに至るまで、世の中では女性は外見で判断されるのが現実だ。そんなもの女だけじゃない、男だってという反論もあるかもしれない。確かにそうかもしれない。だが男性に対する外見至上主義と、女性に対する外見至上主義はまるで性質が異なっている。たとえば男性は美男子でなくてもプロポーションが良くなくても若くなくても、個人の持つ世界観(簡単にいえば個性)で外見以上の付加価値を得ることができる。しかし女性はそうではない。まず若くなくてはならない。性的魅力がなくてはならない。容貌が整っていなくてはならない。個性はこれら条件をクリアした上でのみ認められる付加価値となる。いいとか悪いとかの話ではない。現実問題の話である。

私はそれを、幼いころから身にしみて知っていた。うちの親族は人の容貌に対してやたら口うるさく、物心つくかつかないかのころにはっきりと不細工だといわれたことを記憶している。なので私は十代後半になってボーイフレンドに「笑顔が可愛いんだからもっと笑って」といわれるその日まで、自分は二目と見られないほどの醜女なのだとかたく信じていた。それが明確なコンプレックスになったかどうかは別としても、人格形成になんの影響もなかったとはいえないだろうと思っている。
だからといってとくに小池さんに共感したりはしないけれど。

小池さんは小学生のころから化粧をしてアザを隠していたと本書にはある。
19歳で日本を出てからいままで、カイロ滞在期間の短い結婚生活を除いて、彼女には恋人や友人といった親しい人がほとんどいなかったともある。3年半をかけて小池さんという人物の周囲を綿密に取材した著者が、そういう間柄の人間に一人たりとも出会うことができなかっただけ、ということもできるかもしれない(ちなみに著者は本書を書くにあたって数百人に取材をしたそうだ)。
でも、小池さんの人間関係がほんとうに著者の書く通りなのだとしたら、それこそが頰のアザから始まった虚飾の人生のルーツだともいえる気がする。
つねにアザを隠し、それを人に見られまい、知られまいとして逆にめだつ行動をとりたがり、周囲に傅く人を集めること、ちやほやされることを至上命題として─アザなんかあったって私はこれだけの注目を集められる、人に影響を与えられる─その価値観の上でしか生きられない、もしそうだとすれば、それはそれとして理屈は通るように感じる。

理屈が通っていようとなかろうと、小池さんの嘘に振り回される人間はいい迷惑である。
本書は3分の1程度が彼女の「カイロ大学首席卒業」という学歴詐称を証明することに費やされているが、ぶっちゃけそんなのもうどうでもよくね?と思っている人もいるのではなかろうか。どこの学校を出てようが出てなかろうが都知事として政治家としての能力には直接関係ないではないかと。
ところがどっこいそうはいかないのである。
まず学歴詐称は公職選挙法235条の虚偽事項公表罪にあたる。つまり公職選挙法違反をがっつり侵した上で何度も選挙に出て当選し続けていることになる(1992年の初出馬以来一度も落選していない)。彼女は政治家になるよりもずっと以前、通訳やタレントとして活動するにあたってもこの学歴を自ら称している。だがカイロ時代に同居していた女性の言を借りるとするなら、彼女にははじめから「何がしたい」「どうありたい」という明確なビジョンがなかった。カイロ大学に留学するにしても、勉強して正規の入学試験を受けるのではなく、コネで裏口から、しかも2年生への編入で入学している。アラビア語が学びたくてと発言しておきながら、実際には遊びとアルバイトに明け暮れてほとんど勉強などしていなかった。入学時期と「卒業」時期に同居していたこの女性の言葉を信じるとするなら、小池さんはとんでもない真っ赤な嘘を何十年も塗りに塗り重ね続けて権力の階段を上っていったことになる。学歴を疑われるたび公開してきた卒業証書や卒業証明書が本物でないとすれば、刑法159条の偽造私文書等行使罪にも問われる。

そんな嘘がなぜいまのいままで暴かれなかったのか、それが日本のメディアの甘さなのだろう。
これが日本人がわんさか留学している欧米の大学であればもっとことは簡単だっただろうが(野村沙知代氏が1996年の衆院選で学歴詐称を告発されている)、エジプトだから厄介だとメディアは考えたのだろうか。だが留学生を受け入れるだけの規模の大学(カイロ大の学生は数万人規模)であれば英語での問い合わせ窓口が当然あっただろう。たったそれだけの手間を、メディアは惜しんだ。それよりも彼女のミニスカートや、当意即妙でキャッチーな切り返し、節操も臆面もなく権力から権力へと飛び移り、平気で嘘をついて他人を騙し貶める挙動の方がもっと「テレビ向き」として重宝されたのだ。
だとすれば、彼女は18年間メディアを手玉にとることで政治家として生き抜いてきたことになる。
そんなんでいいんだろうか。

いや、よくはない。
いまは新型コロナウィルス対策の会見で彼女は毎日毎日テレビに出まくっているが、東京オリンピックの延期が決まるまでは何もせず、あろうことか防護服の備蓄を中国に寄付までしてしまっている(習近平国家主席の来日予定があったからかもしれない)。
おかげで1400万人もの大都市のコロナ対策は完全に出遅れた。毎日発表される感染者数(正確には感染“発覚”者数)が増えていても自粛要請はどんどん解除され、いまや街に人は溢れかえっている。相変わらずPCR検査数はまったく伸びず、そこからはじき出される感染者数も到底信頼できるデータではない。緊急事態宣言中は集団感染が発覚したわけでもないパチンコ店が槍玉に挙げられ、いまは一斉検査をしたホストクラブがその代わりになっている。
政治家としての能力とは、こうした非常事態にこそ本質が問われる。現に初期段階で検査を徹底した和歌山県や愛知県では流行を早期に抑えきっている。選挙のためだけに有権者のご機嫌を伺うような規制緩和を繰り返すのは、すでに政策でもなんでもない。人の命がかかっているのだ。

人間は誰でも嘘をつく。嘘をつかない人間などいない。
だが自分を飾り衆目を欺くために嘘をつき、話を盛るだけでなくストーリーとして仕立ててしまう人間は、その存在自体が害悪である。
そういう人に迷惑した、騙された、ひどい目にあったという人は少なくないだろう。実をいえば私自身にも経験はある。
そういう人が、いま、選挙に出ている。
今回の都知事選では(都議会議員欠員選挙も同日投票である。みんな忘れてそうだけど)史上最多数の22名が立候補しているにもかかわらず、現職の再選はかたいと思われている。
そう思っている人はとりあえず、2週間の選挙期間内に、本書をちらっとでもいいから読んでほしいと思う。
読んでから、よく考えたほうがいいよと、真面目に思います。


高雄への旅

2020年06月14日 | movie
『燕 Yan』

父(平田満)の頼みで台湾・高雄に住む実兄(山中崇)を訪ねた燕(水間ロン)。兄弟は両親の離婚で日本と台湾に離れ、以来23年間一度も会っていなかった。
父からあらかじめ連絡を受けていながら自分を避ける兄に腹をたてる弟だったが…。
『新聞記者』や米津玄師の『Lemon』のPVの撮影で知られる今村圭佑の初監督作品。

回想シーンの多い映画だ。
幼少のころ、若く美しい母(一青窈)との甘い思い出、言葉や習慣が違うことでいじめられた苦い思い出、どうして自分の家庭がよそと違っているのかわからなくて、家族につらくあたった悲しい思い出。
観ていてとても苦しくなる。
私自身はダブルではないが大陸にルーツをもつことで、どうしても周りに馴染めないまま生きてきた。それは忘れようとしても忘れられるものではなく、影のように常にぴったりと背後についてくる。そしてことあるごとに「お前はどっちなんだ」「お前は偽物だ」と囁きかけてくる。うるさくてしょうがない。どっちだって誰にも何の迷惑もかけてないっつの。

そういう心持ちを、誰かと共有しようと思ったことはいままで一度もない。家族とも友人とも話しあう機会がなかった。どうしてかはわからない。
ずっと喉の奥に引っかかった魚の小骨のような不快さと不安が、もはや自分のアイデンティティと化していたのかもしれない。劇中の燕の無口さに、ふとそう感じる。
おそらく燕は、実の父とも、再婚で家に来た義母(長野里美)とも、実母や兄や己のアイデンティティの話をしてこなかったのではないだろうか。できなかったのではないだろうか。
もしそうしてしまったら、自分が母や兄に見捨てられたのではないかという思いこみが現実化してしまいそうで、自分が見捨てられるような何かをしでかしてしまったことを知るような気がして、恐ろしかったのではないだろうか。
それは思い出の中の母親像が美化されていくのに比例して、自分の中で時を追うごとに肥大化していったのではないだろうか。

撮影監督の監督作品らしく(自分で撮影もしている)、映像が非常に美しい映画だ。
溢れるような光に満ちた回想シーンに揺らぐ風、湿った熱気が滲んでくるような緑色の影に煙る高雄の小路、夜の青い闇が目にみずみずしい。セリフは最小限しかなく(トニーという兄の友人(テイ龍進)がいちばんよく喋っている)、繊細な映像のつなぎ合せで登場人物たちの心の内を丁寧に丁寧に表現している。昨今のとにかくよく喋る映像作品に慣れてしまった感覚からすると却って新鮮なぐらいである。
だからストーリーはものすごく単純でどこにも曲がったところはないのに、最後の主人公の涙に、素直にするっと共感してしまう。父からの頼まれごとなどはほんとうはどうでもよくて、その涙のために、きみはここまで旅してきたんだよねと。

主演の水間ロンくんは中国出身ということで中国語のセリフが非常に自然です。といっても大陸の北京語と台湾の人が話す北京語は結構ニュアンスが違うのだが、ちゃんと台湾風になってました。流石です。
にいちゃん役の山中崇氏のやさぐれ具合がまた生々しかったですね。子役の南出凌嘉くんがめちゃめちゃ清々しかっただけに、台湾に来てずいぶんいろいろあっただろう23年間が一目で感じられるのが素晴らしい。
舞台挨拶がある回を観たんだけど、この方、画面と実物が全然違うんだよね。実物はどっちかというと愛くるしい子犬みたいな印象の人なんだけど、作品の中ではそっくりその役の人にしか見えない。毎回そこにビックリします。「映画が公開できて、それがお客様に観てもらえることがほんとうにありがたいことだと知った」と語っておられたが、ホントそうだよね。私は何がしんどいって映画館や美術館に行けない、行きたくても全部閉まってるってのがいちばんしんどかったですもん。
衣装や美術や照明にもずいぶん凝っていて、映像美に真面目にこだわった作品だという印象を受けました(よくある「一見映像美」なのじゃなくて、真剣にこだわってる。そこ結構大事です)。

燕くんは高雄に旅したことで、それまで抱えてきたいろいろなものから自分を解放することができたけど、観客席から観ているとどうしても「それは映画の中だから」と思えてしまう。
私にもいつか、そんな日が来るといいなと思ってしまった。
劇中、日本占領時代に日本語教育を受けた高齢者が日本語で燕くんに語りかけてくるシーンがあった。北京語が話せない彼と燕くんは日本語で会話する。己が日本人なのか、台湾人なのか、中国人なのか、偽物なのか本物なのか、迷い思い惑う人はたくさんいる。だからなんだよ、どっちだっていいじゃないか、と誰もがいえる世の中が、ほんとうは誰にとっても暮らしやすいはずだと思うんだけどね。