落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

カバ通学

2007年01月31日 | book
『ミーナの行進』 小川洋子著
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小川洋子といえば『博士の愛した数式』だけど、最近とんと日本の文芸書を読まなくなってしまったもんで未読です。
舞台は1972年、芦屋の親戚の家に居候することになった中学一年生の少女の1年を回想形式で描いた小説。
中学一年生といえば思春期真っ只中。全編女の子色一色です。でも女の子くさくはない。30年という歳月のせいなのか、エピソードのひとつひとつがまるくやさしい肌触りを帯びている。
しかし登場してくるモチーフ全部がいちいち女の子ワールド全開っす。ヒロイン朋子は田舎のごくふつうの女の子なのだが、預けられた屋敷は大正時代に芦屋の山の手に建てられた豪華な洋館である。当主の伯父は二代目の企業経営者。その母親=“おばあさん”はドイツ人。ひとつ年下の従妹は喘息持ちの美少女で、読書好きで空想好き、マッチ箱の蒐集が趣味。ペットはコビトカバ(!)。
家具調度からこまごました生活用品から壁に掛かった昔の家族写真まで、異国情緒にあふれた美しいもので満たされた美しい家に住む美しい人たち。穏やかに慎ましやかな生活、たまの贅沢。夏休みにスイスから帰省してくる大学生の従兄、図書館司書や配達員青年との淡い初恋、こっくりさん、パンづくり、ミュンヘンオリンピック、流星雨、クリスマス。
いたわりあいと慈しみ、ピリッとした敵意と、幽かな死の匂い。

とくに劇的なことは何も起こらない。
朋子がこの家で暮らしたのは1年間、予定通りの1年だった。30年の月日を経て書かれた春夏秋冬の思い出は、すべてがあらかじめ決められていた約束通りに展開していくように描かれる。
それでも、12歳という年齢の1年間の重み、温かみ、鮮やかさ、愛おしさが、まるで細かいビーズ細工のアンティークのように、ページにぎっしりと詰まっている。輝きは30年前と同じではないけれど、今もそれはそこにあって、朋子の心を、読み手の心をやわらかに照らし出す。
思い出が美しいのは、それが決して二度と再びよみがえることがないからだ。「芦屋の家」はもうないし、家族の幾人かはこの世を去った。それは30年前からわかっていたことだった。朋子が過ごした1年間は、芦屋の家の人たちにとっても、古い階級社会時代のゆるやかな終末の1年だったのだ。月日が流れるままに時代は移り、日々は手の届かない憧れの世界へ遠ざかっていく。
人が何かを懐かしく思うときの、胸の甘いときめきをそのまま凝縮したような小説。読んでて気持ちがよかったです。ギリギリ必要以上にセンチメンタルじゃないのもいい。
ああわたしにもこんな思春期の思い出があったらな、なんて思うような、そんな本でした。
挿画・装丁の寺田順三の絵もすてき。

手の声

2007年01月29日 | book
『栗林忠道 硫黄島からの手紙』 栗林忠道著
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絶賛上映中の映画『硫黄島からの手紙』の原作ではアリマセン。タイトルは似てるけどね。
映画の下敷きになっているのは5年前に刊行された『「玉砕総指揮官」の絵手紙』の方で、こちらには主にアメリカ・カナダ滞在中に栗林氏が家族に出した手描きイラスト入りの手紙と、それに硫黄島から出したもの数通が収録されている。『栗林忠道 硫黄島からの手紙』の方はタイトルそのまま、硫黄島から家族に宛てたものだけを集めた書簡集。こちらは去年の刊行。

まあぶっちゃけ、読まにゃいかんよーなこたなんも書いとりゃせんですよ。ただの手紙です。
風邪をひいてないか、床の修繕のこと、お風呂の湯垢の取り方、疎開の用意はしたか、子どもの進学のこと、勉強しなさいよ、しっかりお母さんの手伝いをしなさい、ごくふつうの家族の会話が手紙になってるだけ。しかも同じ話題を何度も繰返し書いている。それだけ栗林氏がマメで優しい家庭人だったことはよくわかる。
ぐりが心を動かされたのは、栗林氏が「ものは足りているから、食物や酒など何も送ってこなくてよい」と繰返し書き送っているにも拘らず、妻・義井がしつこくあれこれと物資を送っているらしいことに何度か触れているところ。
いらないから送るなといわれても送らずにはいられない妻。軍から配布されたお菓子を家族に送る夫。顔が見えなくても、どこにいるかわからなくても、栗林家がひとつにかたく結びつき、互いに強く思いあっていたことがうかがえる。
それと家族それぞれに対する言葉遣いがハッキリ違うところにも父親らしさがでてるなあと思い。妻にはいたわるような言葉で、長男には厳しく、長女には真面目に、末っ子の次女にはただただ甘く。
便箋の裏まで使って罫に2行ずつ小さな字でぎっしり書かれた手紙はみるからに几帳面そう。

しかしこの本の解説はまたお粗末至極。映画のヒットでいろんな本出てるみたいだけど、玉石混交なんだねえ・・・。


手の声

2007年01月29日 | book
『ハンミちゃん一家の手記 瀋陽日本総領事館駆け込み事件のすべて』 キム・グァンチョル家・文国韓著 
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2002年5月8日、中国瀋陽の日本総領事館に北朝鮮から亡命しようとする一家5人が駆け込み、警備をしていた中国警察に身柄を拘束されるという事件が起きた。
事前に協力者によって呼び寄せられたジャーナリストが、領事館の真向かいの建物から一部始終を撮影した映像が即座に世界中に配信されたことで、事件は単なる一個人の亡命だけの問題ではなくなった。映像や画像を見た世界中の人々が、カメラに向って悲しそうに顔をゆがめた幼い少女─当時2歳の韓美(ハンミ)ちゃん─の無事を願った。
約2週間後、そうした国際世論に後押しされるかたちで一家は韓国に亡命することができた。
この本には、一家が事件に至るまで北朝鮮でどれほどの艱難辛苦を味わいながら生き延びてきたかが、彼ら自身の言葉と手描きのイラストで綴られている。

彼らの生い立ち、家庭環境は現代北朝鮮の一般市民のひとつの典型だろう。
彼らの暮らしを通して、今の北朝鮮社会がどこまで崩壊しているかが手に取るようにわかってくる。社会が壊れる、といっても日本で安穏とくらしているぐりにとってはまるで現実味のない話でしかない。北朝鮮はまさにそれなのだ。社会が壊れたらどうなるか、国民を守り養っていくはずの国家体制が崩壊したらどうなるか、グァンチョル一家の置かれた状況がそれをそのまま表している。
着るものも食べるものも燃料もない。北朝鮮で違法とされている行商や密輸や泥棒に手をそめる以外に生きる手段がない。それもダメなら中国に行くしかない。中国では女は身体を売り、子どもを売る以外にお金を得る方法がない。中国にも密告者はいて強制送還されるのは簡単だ。送還されれば収容所での厳しい取調べと労働が待っている。収容所で病気や飢餓のために命を落とす人も大勢いる。

国が壊れたらどうなるか、それが非常にリアルに書かれた本。文章もイラストもとてもわかりやすい。
ところでこの本には訳者名が記載されていない。なんでですか。

できることとできないことと

2007年01月28日 | movie
『幸せのちから』
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サンフランシスコの地下鉄のトイレに泊っていた男性が億万長者になった、という実話を元にしたハートフルストーリー。
うーん・・・ちょっと長かったですかね。おもしろいんだけどね。子ども(ジェイデン・クリストファー・サイア・スミス)もカワイかったし。てゆーかとーちゃん(ウィル・スミス)ソックリだよ。実の親子共演。
だがしかしこの親子共演があだになってる気もしなくもない。なにしろ登場人物が少ない。ほとんどのシーンがこの親子のシーンなのだ。
いくらカワイくても、いくら息があっていてもさすがに飽きるし、全体に物語が情緒的に偏りすぎてべたべたしてしまう。主人公クリスや奥さんの家族や友人や元の職場、80年代のアメリカの社会状況といった背景の描写が明らかに足りない。
スミス親子の熱演はすばらしいし、ストーリーだって充分に感動的なのに、構成で失敗してしまってるとしかいいようがない。残念。
主人公クリス・ガードナー氏の本は是非読んでみたいと思います。

できることとできないことと

2007年01月28日 | movie
『ルワンダの涙』
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ちょうど1年ほど前に公開された『ホテル・ルワンダ』でも描かれた、19?X4年のルワンダ虐殺事件を、当時現地で事件を目撃したヨーロッパ人の視点から描いた物語。
この映画は実際に2500人が殺害された専門学校を舞台にし、学校を運営していた神父を登場人物のモデルにしているだけではない。本当に事件のあった学校でロケを行い、エキストラやスタッフにはこの学校での事件の生存者が一部参加しているそうだ。
『ホテルワ』の主人公はルワンダ人であり、1200人のツチ族避難民を匿い救出することに成功した“英雄”だった。誰もが彼のような“英雄”たろうとあることができるなら、平和はもっと簡単に守れるかもしれない、そんな物語だった。だから『ホテルワ』は比較的ソフトな「ジェノサイド映画」に仕上げてある。ジェノサイドの残虐さは必要最低限にしか表現されない。
『〜涙』はそれとはベクトルがまったく逆の物語である。当時ルワンダを見捨てて逃げたヨーロッパ人の話なのだ。1200人助けた話が『ホテルワ』、2500人死なせた話が『〜涙』。
画面には無数の死者が映っている。それがヨーロッパ人がそこで観た光景だから。暴力をふるわれる人たち、ろくな抵抗もなくマチェテで切り刻まれる人たち、死んで放置された人たち、犬に食べられる人たち。
死体、死体、死体、死体、死体、死体・・・・・・・・。

どうしてこの映画がここまで残虐である必要があるのか?
なぜなら、この映画を製作したヨーロッパのジャーナリストたち自身が、当時ルワンダを見捨てた張本人だからだ。友人であったルワンダ人たち、親しくしていたルワンダ人たちが殺されていくままに後に残し、彼らはヨーロッパへ引き揚げた。
そしてそのことを、何年も何年も悔やみ続け、自らを責め続けた。もっと他にとるべき行動があったかもしれない、あったはずなのにと。
確かにそのとき、現実には彼ら自身に選択肢はなかった。生きて脱出するか、ルワンダ人といっしょに死ぬか、ふたつにひとつだ。誰も彼らを非難することはできない。
でも、世界中がルワンダに背を向けたことそのものは決して正当化できることではない。
それをこの映画は描いている。
国際社会がルワンダを助けようとしなかった、という話ではなくて、ルワンダに何をしたか、という話なのだ。
何をしたか?
殺されるとわかっている人たちを置いてさっさと逃げ出した。
言葉でいえばそれだけのことだ。
しかしそれが実際には一体どんなことだったのかを、この映画は非常に具体的に、ストレートに描いている。そのとき逃げ出したヨーロッパ人が感じたこと・感じ続けていることを、観客にも共有してもらおうとしている。

ここでも人々を傷つけ翻弄するのは、無理解と不寛容だ。
劇中に登場するイギリス人ジャーナリストが、死体が白人女性なら共感するのに、ルワンダじゃ「ただの黒人の死体」としか思わない、と告白するシーンがある。
他人のセリフとして聞けばなんと冷酷な、と思うかもしれない。
けどぐりはこのセリフは他人事ではないと感じた。
彼女のような共感する力の弱さこそがルワンダ人を殺し、イラク人を殺し、パレスチナ人を殺しているのだとしたらどうだろう。
ぐりも、あなたも、世界中で起きている紛争犠牲者の仇ということになるのではないか。
この映画がいいたかったことは、それなんじゃないかと、ぐりは思ったです。

それにしてもこの陳腐な邦題はまたなんとかならんかったんですか(怒)。何が「涙」だか。センスなさすぎ。

参考:『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』 フィリップ・ゴーレイヴィッチ著