落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

さくらさくら

2013年10月31日 | movie
『手紙』

<iframe src="http://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000MTEA6Y&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

弟・直貴(山田孝之)の進学資金欲しさに泥棒に入った家で、誤って家人を殺害してしまった剛志(玉山鉄二)。無期懲役の判決を受けて千葉刑務所で服役し、定期的に直貴に手紙を出すが、直貴は強盗殺人犯の家族という理由で住む家を追われ、職を失い、愛する女性(吹石一恵)との関係も引き裂かれ、お笑いコンビを組んでいた幼馴染み(尾上寛之)との友情も壊れてしまう。
堪えきれずに兄に伝えずに引越しをする直貴だったが、彼に代わって剛志に手紙を書いてくれる女性(沢尻エリカ)が現れ・・・。
東野圭吾の同名小説の映画化。

ネット社会、炎上社会といわれる現代。
ぐり自身は身近に加害者家族に接したことがないので、この物語に描かれる差別がどの程度リアルなのかは正直ちょっとよくわからない。過剰演出といえばそんな気もするし、傷つきたくない主人公が自閉していく過程をわかりやすく表現するためのギミックといえばそれまでかもしれない。ただ、現実は決して加害者家族にやさしい世の中などではないということだけは事実としてわかる。
でも、どこにいるどんな立場の人間にも瞬時にあらゆる情報が引き出せ、かつ情報発信が可能ないま、似たようなことはいつでも誰にでも起こり得る。剛志は人を殺してしまうが、何もそこまでしなくてもいまや誰もがごく些細なきっかけで炎上の対象者になり、いわれのない誹謗中傷の嵐に巻き込まれ、社会的地位を失う危険性がある。運が悪ければ一生回復できないダメージを負う場合さえある。
人の噂も七十五日とはいうものの、違法行為を侵した人やその身内にとっては、差別され続ける時間はそんな程度で済まされない。人が人を傷つけ、貶めてしまった罪を雪ぐのは時間ではない。人それぞれにその方法は違うが、その長い長い道は、決して自分自身を欺くことなく、自らその罪をまっすぐに見つめ、向かいあうことからしか始まらないのではないだろうか。

兄が服役した当初、まだ十代だった直貴にはもちろんそんなことはわからない。
兄の犯罪の動機が自分の学資だったために、兄といっしょに罪を償うこと、つまり自らも社会の激しい差別にさらされることが、彼の中で「しかたのないこと」として固着してしまう。だが実際に犯罪を侵したのは彼ではない。どんな理由があれ、犯罪に解決法を求めた剛志が間違っているのであって、それは他の誰にも償うことはできない。それを知らない直貴はやがて疲れ、差別から逃げることだけを考えるようになってしまう。
お笑い芸人を辞めて勤めた電気店でも兄の犯罪を知られ転勤になってしまった彼に、経営者(杉浦直樹)がいう。「差別は当然だ」と。一見暴論のようだが、そうではない。彼は何も、加害者家族は差別されて当り前だといっているのではない。差別から逃げても何も解決しない。自分自身は何もしていないのにという被害者意識からは何も生まれない。差別は自ら克服する以外に解決策はないといっているのだ。

原作は読んだことないけど、たぶんいい話なんだろうなと思う。
差別が悪意ではなく、ごく当り前の自己防衛本能であることを、非常にストレートに描いている。悪意がないからこその差別の恐ろしさがよく伝わる。「差別はいけない」という単なる固定概念ではなく、差別がいったい何を引き起こし、人は何によって差別と向かいあうべきなのかが、あたたかく静かに表現されている。
でもなー。演出がベタ過ぎて、なんかクドかった。ラストシーンの小田和正とか超いらんわあ。キャスティングもあってないような。出演者の演技はだいたいよかったと思うけど・・・沢尻エリカの関西弁はちょっとアレでしたわね。子ども連れて公園に行く母親が妙に中途半端な丈のタイトスカートはいてたり、やたらキメキメなファッションとかヘアメイクも意味不明。

一方の主人公である剛志を演じた玉山鉄二にいっさい台詞がなく、手紙のモノローグだけというのはよかったです。しかしこの人は顔が綺麗過ぎてこの役にあってない。気の毒なくらいあってない。全体に白痴っぽい人物造形には非常に努力を感じましたけども。
なんだかんだいってぐり的なヒットはやっぱ杉浦直樹だな。この人大好きなんです。ワンシーンしか出てこなかったのがちょっと寂しかったけど、それもまたいい。
スクリーンではこれが彼の遺作になった。名優の最後の映画として、いいシーンだったと思います。

絶対に許せないこと

2013年10月14日 | diary
遺族があまりにも気の毒なのでもうどの事件がどうとか具体的には申しませんが。
それでも一言もの申したくて辛抱たまりませんので書いてみます。
実をいうと書こうか書くまいかここ数日相当悩んだんですけどね。まあ誰も見てないブログだしいいかなと。

ぐりは20代後半の頃にストーカーの被害にあったことがある。だいぶ前にも書いたと思うけど。
10年以上前のことだし、正直にいってあまり思い出したくない経験ではあるのだが、当事者のひとりとしてはっきりいっておきたいことはある。
日本にはストーカー規制法という法律がある。これは1999年に発生した桶川ストーカー殺人事件という大変悲惨な事件が契機になり、翌2000年に議員立法で施行された。細かい内容は原文を読んでいただくとして、簡単にいえば、当事者同士の関係に関わらず、相手の意志を無視してつきまとったり、電話や手紙やメールなどの連絡をし続けたり、名誉を傷つけたり、そのような情報を真偽を問わず広汎にひろめたりすることを禁じている。違反すればもちろん刑事罰に処せられる。
つまり今回の事件で被疑者が被害者に対して犯行前にしたことはがっちりこの法律に抵触している。そもそも「殺す」などと脅迫した時点で完全にアウトである(刑法222条)。それで「対応に落ち度はなかった」などといえてしまう警察が信じられない。それなら警察はいったい何のために市民の税金を使って運営されているのか、とくと納得のいくように説明していただきたい。

ぐりが被害に遭ったのはこの法律が施行される前後のころで、ストーカー事件に対する社会の関心度も高く、所轄の警察にも緊張感があった。だから対応は予想以上に迅速だったし、こちらの相談にも非常に親身になってくれた。警察だけでなく、友人たちも協力的でとても助かったけど、いちばん助かったのは、警察やら見ず知らずの第三者に相手との関係などを詳しく根掘り葉掘り追求されなかったことだ。
というかむしろ、ストーカー犯罪において当事者同士の関係は犯罪とは無関係だと断言しても構わないとぐりは思う。どんな関係であろうが、ストーキングしてもいいなんてことはありえない。いま、現にストーキングされているというだけでじゅうぶん犯罪が成り立つんだから。よしんば捜査にそもそもの因果関係が情報として必要だとしても、被疑者を任意同行してから本人に問いただせば済むことである。何が何でもどうしても必要であれば、被害者には後から裏を取ればよろしい。
これはぐり個人の見解だが、警察は今回の被害者たちの相談内容をあまくみただけではなく「被害者側にも落ち度がある」「お子様同士の痴話喧嘩になんか関わりあっていられない」という予断があったのではないかと確信している。その予断の根拠は間違いなく、被害者と被疑者の関係にある。つまり、「被害者自ら被疑者にいやがらせをされるだけの材料を与えた」という予断である。

繰り返すが、当事者同士がどんな関係にあったにせよなかったにせよ、ストーキングをしている時点で違法なのだから、それだけを判断材料に被疑者の行動をやめさせ、これから起こる危険性のある犯罪を未然に防ぐことこそが警察の責任である。
それをできもしなかったにも関わらず、無念の死を遂げた被害者の個人情報を垂れ流すのは明らかに警察の自己弁護でしかない。
ストーカー規制法施行のきっかけとなった桶川の事件もそうだった。あのときも、警察のリークで被害者は「なるべくしてそうなった」ような人物像をメディアに捏造され、彼女の尊厳はとことんまで踏みにじられ、「報道被害」という言葉まで生まれた。14年経っても警察は何も学んでいない。
警察だけではない、社会そのものがまったく前に進んでいない。
何度でもいう。被害者が被疑者に何をしようとしまいと、ストーカーされなくてはならないいわれなどどこにもありはしない。それは日本の法律でしっかりと規制されている。侵せば刑事罰に問われる犯罪である。まして、どんな人にも、脅されたり名誉を傷つけられたり、生命を脅かされたりされない権利は、基本的人権で保障されているのだ。自業自得、自己責任などという言葉はここではまったく意味がない。そういう表現そのものに想像力の致命的な欠如の不幸を感じる。

ぐりが被ったストーカー被害はそこまで深刻ではなかったけど、まだ桶川の事件の記憶も鮮明な時期でもあり、慎重になるに越したことはないと周囲がみんなで心配してくれた。
たとえば、ぐりはいやがらせが始まってすぐに「迷惑電話防止サービス」に加入し、玄関の鍵を交換し、ひとり歩きを避け、数ヶ月の間は自宅には戻らずに友人たちの家をじゅんぐりに泊まり歩いた。みんな喜んで何日でも泊めてくれた。友人の家に泊まれないときは会社に泊まった。自宅にはたまに着替えを取りに戻るくらいで、それも日中ひとめのある時間帯に限っていた。ぐりが不在にしている間も警察は複数人でパトロールを続けてくれ、結果としてぐりは暴力犯罪には巻き込まれずに済んだ。今でも、あのとき対応して下さった警察の方々と友人たちには深く感謝しているが、心に負った傷は何年も癒されなかった。
今回の事件でも、警察が被害者を守るだけの最低限の指導と捜査をしていさえすれば―被疑者に知られている自宅や学校から被害者をまず遠ざけ、現場を監視する―彼女はみすみす命を奪われることはなかったはずだと思う。それほど難しいことではない。危機感の問題でしかない。

ストーカー規制法ができても、ストーカー事件で命を落とす女性は後を絶たない。
だが、事件化するのはおそらく全体のごく一部だと思う。ある大学の調査では、男性との交際経験のある女子学生の実に4割がデートDVの経験者だという。束縛され、モラルハラスメントを受け、ときには肉体的暴力にもさらされる。ケータイが普及し多くの学生がSNSを利用するようになって、互いに撮影した無防備な画像や動画を使ったいやがらせも、弱い立場の存在をいたぶる暴力の常套手段になってしまった。
今回のような事件は、決して特別な事件ではないと思う。いまどきの普通の男女関係のその先に、たまたま起こってしまっただけの事件だと思う。だからこそ、命が失われるような事態になる前にうてる対策が重要なのであって、「いまどきの男女関係」の是非をどうこういったところで何の解決にもなりはしない。それはただ穴の空いた容器で水を汲むのと同じ、現実を見ずに机上の空論を振りかざすだけの非生産的な自己満足以外の何ものでもない。
そもそも、男女関係の何を他人がどうこういえるものでもない。そうではないですか?
ほっとけよ。


関連記事
『遺言─桶川ストーカー殺人事件の深層』 清水潔著
『桶川女子大生ストーカー殺人事件』 鳥越俊太郎&取材班著


下高井戸の猫。

太陽は昇り地球は回る

2013年10月05日 | movie
『ツレがうつになりまして。』

<iframe src="http://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B006QO65OY&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

売れない漫画家・晴子(宮崎あおい)の夫・幹男(堺雅人)がうつ病になった。
晴子はサラリーマンの幹男を退職させ、自宅で療養させながら漫画を描くが、連載は中止。失業保険だけで生活は成り立たないため、イラストの仕事も始める。幹男の病状は一進一退で、晴子の気持ちにも余裕がなくなっていくのだが・・・。
細川貂々の同名漫画の映画化。

ぐりが初めてうつ病になったのは1995年、23歳のときだ。
今でこそ誰もが知っている病名だが、そのころはまだ誰もそんなものは知らなかった。ぐりは社会人一年目、周りの友人たちも忙しく、妹とふたり暮らしをしていたものの家族らしい関わりはまったくなく、ひとりで、孤独で、寂しく、心細く、とてもとてもつらい闘病生活を送った。
眠れず、食べることも飲むこともほとんどできず、吐いてばかりで精神状態は常に絶望のどん底にいるような毎日。みるみるうちにがりがりに痩せていき、やがて人の話を聞いたり話したりするごく当り前のコミュニケーションにも支障を来すようになり、発病後5ヶ月で退職。就職氷河期の中で死にものぐるいで就職活動をして入社した第一志望の会社を1年足らずで辞めなくてはならなかったときの悔しさは、何年経っても忘れることができない。
投薬治療はろくに効果が出ず、結局は自力で治したが、その後も何度か再発はしている。ただ、自分なりのつきあい方だけはなんとなくわかっているので、再発してもそう怖いとは思わなくなった。怖がっていても、何の解決にもならないことだけは紛れもない事実だからだ。なってしまったものはしかたがない。

そう、なってしまったものはしかたがないのだ。たとえ何もできなくても、誰の何の役にたたなくても、生きていることは何も恥ずかしいことじゃない。
多少何か能力があったとしても、たいていの人間は替えがきく。唯一無二の存在なんかいない。ごくまれに“勝ち組”なんていわれる人がいたとしても、世の中のおおかたの人間は“その他大勢”だ。“その他大勢”でだいたい世の中はまわってる。そのうちのひとりやふたり、調子が悪くたってどうってことはない。“その他大勢”がいない限り、“勝ち組”にだって意味はない。
どんなに悲しくて苦しくても、太陽は昇るし地球は回る。昨日できたことが今日できなくても、呼吸ができて、片足が前に踏み出せたなら、それでじゅうぶんなのだ。
ぐりはそういうことを、ひとりぼっちの闘病の中で経験則から、ひとつずつ発見していった。最終的には医者の力は借りられなかったし、家族の誰とも関わっていなかったから、助けてくれたのは、遠くから静かに見守ってくれた友人や、長年お世話になったアルバイト先の上司など、思いもかけない人たちだった。
彼らが直接的になにかしてくれたわけではない。ただそこにいて、普通に黙って見ていてくれただけだ。特別扱いはされなかったと思う。励ましたりもされなかった。それだけのことがどれほどありがたかったことか。

この映画の主人公は晴子と幹男という夫婦だが、ぐりが経験したようなエピソードがそのままたくさん登場する。味覚がなくなったり、妙にハイテンションになったと思えば、ただただ涙ばかり流れてひたすら悲しくなったり、身体が痛くて仕方がなかったり、異常に眠かったり。
晴子は結婚式での「健やかなるときも病めるときも」というフレーズを思い出して、どんな夫であっても自分のパートナーであることを見失わずにいることの価値と意味を再発見するが、言葉でいうほどそれは簡単なことではない。
誰でも、身近な人が精神の病を得たことにはショックを受けるし、とにかく元通りにしなくてはと考えてしまう。しかし、病気の治療とはそもそも元通りにすることではない。とくに、うつ病の場合は元通りにしようとすればするほどドツボにはまってしまいやすい。
むしろうつ病になる前の過去の状態を、たまたまのめぐりあわせだったというニュートラルな考え方に切り替えて、うつ病になった今の現実だけを事実として受け入れる。うつ病でもできることをひとつずつ評価する。子どもがひとりでトイレに行けたり、服が着られたりすることを評価するように、できること全部にちゃんとプライドをもつのだ。
難しいことではないが、愛だけでは克服することもできない。距離感も必要だし、冷静に客観的に自分や相手を突き放す勇気もいる。映画の中の堺雅人の病人っぷりは情けなくもユーモラスだが、現実にはこれほど鬱陶しい人間はいない。うつ病になりやすいのもはそもそも生真面目で融通の利かないタイプが多い(ぐりもそうだし、幹男もそうだ)。それがコントロールもまったくきかず、ひたすらくよくよめそめそしてばかりいるのだから、周りの人間にしてみればそりゃもうめんどくさい。鬱陶しい。答えなんか簡単に見つかるわけがない。それはそういうものだからと構えて、できる範囲で根気よく向きあっていくよりしかたがない。
晴子は、漫画家という表現者としての立場の中から、そのことに気づいていく。だが彼女の姿勢の中には、普遍の愛がある。どんな幹男も自分の夫であるという、無意識だが確固たる信念が、夫婦を支えている。

うつ病という言葉は知られるようになっても、相変わらず社会の中でうつ病に対する理解が深まっていかないのはなぜなのだろう。
結局は、社会が人間性を、多様性を否定している限りは、うつ病にしてもどんな病気にしても「面倒で厄介なお荷物」以外の意味はないし、そういう社会に待っているのはただの荒廃でしかない気がする。
晴子と幹男はうつ病を抱えて生きていくライフスタイルを獲得するが、これが漫画家という表現者以外の多くの人にも受け入れられ、実践できる社会であるべきではないかと思う。
誰にでもわかりやすい正解だけを全員で寄ってたかって必死で奪いあうだけの生き方はつまらない。だいたいその正解だって、どこかの誰かが勝手にこしらえたつくりものでしかないのだから。
太陽が昇って地球が回る、それだけの奇跡に感謝さえできれば、それでいいじゃないですか。