『ブリッジ』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000W7DI96&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
日本はこの10年、年間自殺者の数が3万人という自殺大国になっている。
3万人といえば交通事故の犠牲者の約5倍である。そういわれてもぴんとこないのは、毎日交通事故は報道されているのに、自殺は状況が特殊─場所が学校など公共施設だったり、死者が有名人や子どもだったり─でない限りほとんど報道されないからだと思う。
自殺が報道されないのは、それが話題としてタブーになっているからだ。身近に自殺で亡くなった人がいても、大抵の人はそのことについて語ることはしない。ぐりの身近にも自殺者はいるけど、それについて誰かと話したことはほとんどない。考えてみれば、その死について語ろうにも、何を語ればいいのかわからない。
自殺について語る言葉がみつからないのは、あるいは、遺された人々が、被害者でありかつまた加害者でもありうるからかもしれない。大切な人を永久に奪われたのと同時に、助けられたかもしれないのにできなかったという罪も、自殺者は周囲の人々それぞれにひきかぶせて去っていく。
映画としての完成度がどうこうというような作品ではない。
1年間ゴールデンゲートブリッジを定点撮影し、カメラにとらえた自殺者の遺族や友人をインタビュー取材する。ナレーションはなし、テロップや音楽も必要最低限。シンプルな映画だ。
けどそれだけで充分に重い。
だって自殺の名所で定点撮影だよ。自殺しにくる人を待ち伏せだよ。ふつうのアタマじゃそんなことできっこない。それを彼らはやりきっている。「自殺者」が、その瞬間の直前まで、生きて呼吸していたことを証明するために。
幸せな家族はみんな似ているけど不幸な家族はそれぞれ違うってのは誰の言葉だったか、この作品に登場する自殺者たちもそれぞれにまったく違う顔をもっている。共通しているのは、7人全員がうつ病や統合失調症など深刻な精神疾患と戦っていたことだ。だから言い方を変えれば、彼らは自殺じゃない。病気の症状による事故ともいえる。だからこそ遺族は取材に応じたのかもしれない。少なくとも、他のケースとは条件が違うと思う。
それだけの共通点があっても、7人にはやはり7人別々の人生があって、自殺したとかアタマがおかしかったとかそういう類型にあてはめることはできない。まったく別の7人に、たまたま精神疾患と“ジャンパーズ”という共通点があっただけ、ともいえる。
それとこの映画に登場するのは自殺者と遺族だけではない。飛び込んだけど助かった人や、結果的に飛び込まなかった人、自殺者を目撃した人(=通報者)、自殺志願者を助けた人も登場する。
ただ飛び降りたといっても、その現場にはいろんなドラマがある。欄干を乗り越えてすぐジャンプする人、欄干の前で何時間も逡巡する人、転がるように欄干から墜落する人。その場に居合わせた人もそれぞれ抱く感情は違う。
冒頭、カイトセーリングをしていて自殺を目撃した青年がこういう。その日はいい天気でまさにセーリング日和、自分は好きなことをするのに頭が一杯なのに、その人は死ぬしかないところまで人生追いつめられていた。不思議なものだと。同じ人間同士、すぐすばにいても、こんなに違う。
そのギャップを絶望的というのはラクかもしれない。でも実際には、自殺する人としない人の差はごくあやういものだ。そのことを、我々はほんとうは知っていて目を向けようとはしていない。
この映画は、みんなが目を背けているタブーをまっすぐにみつめている。他では絶対にみることのできない映画であることは、間違いない。
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日本はこの10年、年間自殺者の数が3万人という自殺大国になっている。
3万人といえば交通事故の犠牲者の約5倍である。そういわれてもぴんとこないのは、毎日交通事故は報道されているのに、自殺は状況が特殊─場所が学校など公共施設だったり、死者が有名人や子どもだったり─でない限りほとんど報道されないからだと思う。
自殺が報道されないのは、それが話題としてタブーになっているからだ。身近に自殺で亡くなった人がいても、大抵の人はそのことについて語ることはしない。ぐりの身近にも自殺者はいるけど、それについて誰かと話したことはほとんどない。考えてみれば、その死について語ろうにも、何を語ればいいのかわからない。
自殺について語る言葉がみつからないのは、あるいは、遺された人々が、被害者でありかつまた加害者でもありうるからかもしれない。大切な人を永久に奪われたのと同時に、助けられたかもしれないのにできなかったという罪も、自殺者は周囲の人々それぞれにひきかぶせて去っていく。
映画としての完成度がどうこうというような作品ではない。
1年間ゴールデンゲートブリッジを定点撮影し、カメラにとらえた自殺者の遺族や友人をインタビュー取材する。ナレーションはなし、テロップや音楽も必要最低限。シンプルな映画だ。
けどそれだけで充分に重い。
だって自殺の名所で定点撮影だよ。自殺しにくる人を待ち伏せだよ。ふつうのアタマじゃそんなことできっこない。それを彼らはやりきっている。「自殺者」が、その瞬間の直前まで、生きて呼吸していたことを証明するために。
幸せな家族はみんな似ているけど不幸な家族はそれぞれ違うってのは誰の言葉だったか、この作品に登場する自殺者たちもそれぞれにまったく違う顔をもっている。共通しているのは、7人全員がうつ病や統合失調症など深刻な精神疾患と戦っていたことだ。だから言い方を変えれば、彼らは自殺じゃない。病気の症状による事故ともいえる。だからこそ遺族は取材に応じたのかもしれない。少なくとも、他のケースとは条件が違うと思う。
それだけの共通点があっても、7人にはやはり7人別々の人生があって、自殺したとかアタマがおかしかったとかそういう類型にあてはめることはできない。まったく別の7人に、たまたま精神疾患と“ジャンパーズ”という共通点があっただけ、ともいえる。
それとこの映画に登場するのは自殺者と遺族だけではない。飛び込んだけど助かった人や、結果的に飛び込まなかった人、自殺者を目撃した人(=通報者)、自殺志願者を助けた人も登場する。
ただ飛び降りたといっても、その現場にはいろんなドラマがある。欄干を乗り越えてすぐジャンプする人、欄干の前で何時間も逡巡する人、転がるように欄干から墜落する人。その場に居合わせた人もそれぞれ抱く感情は違う。
冒頭、カイトセーリングをしていて自殺を目撃した青年がこういう。その日はいい天気でまさにセーリング日和、自分は好きなことをするのに頭が一杯なのに、その人は死ぬしかないところまで人生追いつめられていた。不思議なものだと。同じ人間同士、すぐすばにいても、こんなに違う。
そのギャップを絶望的というのはラクかもしれない。でも実際には、自殺する人としない人の差はごくあやういものだ。そのことを、我々はほんとうは知っていて目を向けようとはしていない。
この映画は、みんなが目を背けているタブーをまっすぐにみつめている。他では絶対にみることのできない映画であることは、間違いない。
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