goo blog サービス終了のお知らせ 

落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

残酷で美しくて恐ろしくて

2025年07月06日 | movie

『国宝』

長崎、立花組の新年会の余興で歌舞伎「関の扉」を演じた組長の息子・喜久雄(黒川想矢)。出席していた歌舞伎役者の花井半二郎(渡辺謙)に才能を見出され、やがて部屋子として御曹司の俊介(越山敬達)とともに歌舞伎役者を目指すようになる。
成長したふたり(吉沢亮/横浜流星)はともに研鑽を積み重ねていたが、半二郎が怪我で「曽根崎心中」のお初を降板することになり…。
吉田修一の同名小説を、やはり吉田の『悪人』『怒り』を映画化した李相日が映像化した、名女形の一代記。

2回観ました。
ハイ、いや、美しかった。
めっちゃめちゃ美しかったです。
眼福とはまさにこのことです。

もともと歌舞伎が好きで、昔からたまに観に行ってます。
何が好きって、究極まで完成され尽くした豪華な様式美が好き。
だから『国宝』にもふんだんに登場する歌舞伎のシーンが、観ていてすっごく幸せでした。
それもフランス出身の撮影監督ソフィアン・エル・ファニのカメラワークが非常にいい。普段、歌舞伎を観劇していて決して観られない特殊なアングル、細かいカット割と絶妙な緩急をつけた照明(中村裕樹)がとにかくエモーショナル。
素晴らしい。

その素晴らしさは、とにもかくにも出演者全員の必死の稽古の賜物でもあるわけです。
正直いって観る前は「こんな無謀な映画成立するのか」とか疑問に思ってました。「なんで歌舞伎役者じゃなくて普通の俳優が出演するんだろう」とも思ってました。
申し訳ない。ごめんなさいです。
監督の李相日もインタビューで述べてましたが、観てしまえばこれはもう吉沢亮にしか演じられない、吉沢亮一択の映画でした。吉沢亮でしか成り立たない。
絶対的な美と、魂を捧げ尽くすかのような熱演。これ以上の熱演はなかなか難しいんじゃないかというレベルの大熱演に、3時間という上映時間中、何度も頭が下がる思いがしました。

吉沢亮演じる喜久雄はいつもいつも芸のことしか考えていない。台詞にもあるように、それ以外は何もいらない、という姿勢が守備一貫している。
だからただただ芸のためだけに生きていて、周囲の人には何を考えているかわからない人のように見える。でもそんなことは本人は意にも介さない。自分がどれだけ非人間的と目されていても、それがどうしてなのかもわからないし、わかろうともしていない。
その極端な孤高さはどこか化け物じみてもいる。かつて喜久雄が人間国宝・小野川万菊(田中泯)を化け物と評したように。
芸に生きることにゴールはなくて、その底の見えなさに陶酔しているかのような吉沢亮の美しさは、ほんとうにほんとうに唯一無二と確信できるほどの絶対美だったし、それをここまでして絞り出した監督をはじめとするスタッフ一同の尽力に、心からの喝采を贈りたいです。

一方で、ストーリー全体のジェンダーバランスも気になるといえば気になる。
喜久雄を長崎から追いかけてきた春江(高畑充希)も、一目で喜久雄に人生を賭けると決めた舞妓・藤駒(見上愛)も、歌舞伎界から放逐された喜久雄を支えようとする彰子(森七菜)も、ほとんどの女性キャラクターが完全に“添え物”扱いでしかない。
それもそのはず、喜久雄は誰にどれだけ求められようと眼中にはなく、芸だけを愛していたからだ。それだけ、芸は残酷なものだということだし、ある意味で、一つの道を極めるためには人間性は二の次に置くしかないということなのかもしれない。
けど気にはなるよね。もやっとはするよね。

そんな欠点はあるにせよ、種田陽平の美術は完璧だし、映像は隅から隅まで完成してるし、音楽は素晴らしいし、ストーリーはジェットコースターのようにドラマチックだし、いまどき決して安くはない入場料を払って劇場で鑑賞するのにまったく不足のない、極上の芸術作品であり、最高の娯楽作品になってました。
無謀とか思ってほんとにすいません。
だけど普通そう思うよね。誰がこんなの映画化できると思ったんだろう。まずそこにめちゃめちゃ感心しちゃうよ。
まいったね。

ところで円盤化の暁には演目の全編収録されますよね。「二人藤娘」とか「二人道成寺」とか「曽根崎心中」とか「鷺娘」とか。
宣伝のメイキング映像に、本編には映ってなかったパートがチラッと映ってましたけど、演目通しで撮ってますよね。観たいです。観たすぎます。収録されてたら円盤絶対買っちゃうな。


プールと温室

2024年06月27日 | movie

『関心領域』

映画『関心領域 The Zone of Interest』オフィシャルサイト

映画『関心領域 The Zone of Interest』オフィシャルサイト

監督・脚本:ジョナサン・グレイザー  原作:マーティン・エイミス 撮影監督:ウカシュ・ジャル 音楽:ミカ・レヴィ 出演:クリスティアン・フリーデル、サンドラ・フラー

映画『関心領域 The Zone of Interest』オフィシャルサイト

 

原作本
ヘートヴィヒ・ヘス(ザンドラ・ヒュラー)は夫の任地ポーランドで新しい家を手に入れた。彼女はその庭に木を植え、花を植え、プールや温室を建て、理想の家を築き上げた。
彼女の理想の館の塀の向こうからは、時折、悲鳴や銃声が聞こえ、煙突からは絶えず煙がたなびいていたが、家族も子どもたちも、犬さえも、毛ほどの関心を払うことがなかった。

アウシュビッツ−ビルケナウ収容所を訪れたのは5年前の今頃ことだ。
詳しくはそのとき書いた記事(こちら)を参照していただくのが早いかと思うが、年月を経ていまも思うのは、人間は一度道を踏み外したら想像を超えてとことんまで残虐になれる、その事実を証明する場所こそ、あの絶滅収容所だということだ。それを最も如実に感じたのが、収容所とともに残されているヘスの邸宅を目にしたときだった。ごく平凡な、普通の家だった。
このことを知るために、できるだけ多くの人に彼の地を訪れてほしいと、切に願っている。

映画にはこれといって取り立ててストーリーはない。
アウシュビッツの所長・ヘス(クリスティアン・フリーデル)の妻や子どもたちや家に出入りする雇人や友人、親族たちとの日常生活がごく淡々と綴られる。
川沿いでピクニックをする。食事をしたり、子どもたちを集めてプールで水遊びをする。花や樹木の世話をする。犬と遊ぶ。
でもその背景、家のすぐ向こう側には、私が5年前に目に焼き付けたアウシュビッツの建物や鉄条網がいつも見える。巨大な焼却炉の唸るような稼働音が低く響いている。

彼らは収容所のことを無視しているわけではない。
劇中では、ヘートヴィヒや友人たちがユダヤ人たちから取り上げた衣類やジュエリーを山分けするシーンがある。その様子は無邪気そのもので、子どもたちがおやつを分け合う仕草と何ら変わりはない。ヘートヴィヒが豪奢な毛皮のロングコートを試着して鏡をためつすがめつ眺める様子には心底ぞっとした。
彼らはごくナチュラルにユダヤ人を人だと思っていないのだ。殺されて当たり前。宝石や毛皮なんか持ってたって仕方がない。それを収奪することに罪の意識など微塵も感じていないのだ。

言葉にしてしまえば恐ろしいことだけど、画面を見ていれば、彼らと自分とがそう違わないことに思い当たる。そして寒気がする。
家の隣ではないけれど、世界ではいまこの瞬間にも戦争が続いていて、民族浄化が行われている。恐怖に苛まれ命を脅かされている人たちがいる。遠く離れ募金ぐらいしかできることのない私たちと、ユダヤ人が生活用品の中に隠していたダイヤモンドをほじくり出すヘートヴィヒたちと、どれほどの隔たりがあるだろうか。

ヘスが転属になりアウシュビッツを去ることになったとき、ヘートヴィヒは自ら築いた理想の館から離れることを断固拒否し、夫に単身赴任を強制する。
毎日数千という人が殺される収容所の隣で暮らすことに「満足」し幸福を享受していられる心理に共感するのは難しい。
だけどきっとそれは彼女が特異だからなのではないのだろう。
ただ、画面を見ている私自身が、彼女と自分とは違うと、思いたいだけなのではないだろうか。


関連記事:
アウシュビッツ−ビルケナウ絶滅収容所訪問記 
『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』
『サウルの息子』
『愛を読むひと』
『ハンナ・アーレント』
『敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』
『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』


泣きたくても泣けない人に

2024年02月11日 | movie

「心の傷を癒すということ 劇場版」(ドラマ版アーカイブ

1995年1月17日未明に発生した阪神淡路大震災で、当時まだあまり認知されていなかった被災者の心のケアに奔走し、多くの人を支えた精神科医・安克昌氏の生涯を描いたNHKのドラマの映画版。
タイトルは同氏の同題の書籍名に依るが、映像は事実を元にしたフィクション作品。

書籍「心の傷を癒すということ」は震災から2週間後から1年ほどの間に安さんが新聞に書いた連載をまとめた本だが、私がそれを手にしたのは安さんが亡くなってからだった。
改訂されたその本には、他で発表されたテキストがたくさん追加されていて、彼がどれだけ多くの人に敬われ、信頼されていたかを窺わせるに足る内容になっていた。

精神科医という専門家の本だから難しいのではという先入観を持つ人もいるかもしれないけれど、ほんとうにやさしく読みやすく、穏やかでゆったりした文体で書かれていて、小学生から大人まで読めるよう配慮されている。
機会があればひとりでも多くの方に読んでいただきたい名著です。

「新増補版 心の傷を癒すということ: 大災害と心のケア」 安克昌著

安和隆(柄本佑)は大阪で在日コリアンの家に生まれた。
厳格な父(石橋凌)は実業家で家庭は裕福、兄(森山直太朗)は成績優秀、和隆本人も家では医者になるよう勧められていたが、漠然と将来の夢もなくジャズピアノを楽しむ以外の関心事をもたなかった和隆は、永野良夫(近藤正臣)という精神科医の著書に出会ったことをきっかけに精神医学の道を選ぶ。

このブログで何度も書いているが、私は在日コリアンだ。
出身地は神戸近郊の地方都市。
だからなのか、セリフの関西弁が胸に沁みるように懐かしく、序盤で和隆くんが己のルーツを知って思い惑うさまに一気に感情移入してしまった。
自分はいったい誰なのか。何者なのか。ここにいていいのか。親が敷いたレールの上をただ歩いているだけでいいのだろうか。

弱虫で優柔不断で寂しがり屋なだけで、どこに身を置けばほんとうに安らげるのかわからない心許なさが、私自身の感情に、いきなりきゅっと繋がってしまったような気がした。

こんなことでくよくよしていても何もどうしようもない。
人は生まれたからには生きねばならない。
それは生きているすべての人間に課されたつとめだ。
でもたまには、立ち止まったり、後ろを向いたり、前を向いたり、脇道にそれたりすることができる。
そうしているうちに、いつか、あるべき場所に辿り着くかもしれない。
着かないかもしれないけど。

和隆くんにとってそれは、災害被災者の心のケアだった。
神戸市内の病院に勤務していた彼は自ら被災しながらも避難所を駆けずり回り、手探りで人々の心に寄り添う活動を始める。
だが人々にとって「精神科」にお世話になるということは世間体を憚られるもので、なかなか心を開いてくれる人はいない。

助けを求める悲鳴が耳に残って、眠れないという女性。
地震ごっこをする子どもたち。
「僕よりつらいめに遭うた人はいっぱいおるし」と強がる少年。

彼らの姿が、私が東北で出会ったたくさんの人たちに重なる。
みんなひどいめに遭ってるから、みんな大変だから我慢しなくちゃ。泣いてないでしっかりしなくちゃと顔を上げて、前を向いて必死に踏ん張っていた彼ら・彼女らの生き方にうたれて、私は繰り返し被災地に向かい続けた(復興支援活動レポート一覧)。
助けたいとか救いたいとかそういうことじゃなくて、そばにいたかった。ただ隣にいて、誰もひとりぼっちじゃない。せめてわかりたい、わかりたいという気持ちを絶対に手放さない人間がここにいると伝えたかった。
もしかしたら和隆くんも、「ここにおるよ」と伝えたくて、被災者に向かい合っていたのかもしれない。違うのかもしれないけど。

紆余曲折を経ながらも和隆くんの活動は徐々に広がり、連載は「心の傷を癒すということ」という本になり、震災の翌年に第18回サントリー学芸賞 社会・風俗部門を受賞した。
精神科に進むことを快く思っていなかった父が亡くなってから、彼がその表彰状を病床に飾って、手にとっては読み上げて喜んでいたことを和隆くんは知る。

安克昌さんは震災の5年後に膵臓癌に斃れ、わずか39歳で世を去った。

偶然だが、安さんが震災当時まとめていた精神科ボランティアのうちの1人が、いまの私の主治医にあたる。
安克昌さんのことは覚えてないみたいだったけど、それが何ともそれらしくて少し笑ってしまった。きっと安さんは、たとえ自らボランティアをとりまとめていても「俺が」「私が」とか「安です」とか前に出てどうこういうような自己顕示には恵まれた人ではなかったのではないだろうか。

なのに映画を観ているうちは、どのシーンも、どのシーンも涙が流れて止まらなかった。
在日に生まれたこと。
両親との確執。
無二の親友との絆。
被災で荒んだ人々の気持ち。

気がついたら、声をあげて泣いていた。

もう何十年か、そんなことはしてなかった。
こんなに声を出して泣いたのはいつぶりか。

そして思った。
泣きたいことがどんなにあっても、大人になれば人は簡単には泣けない。
泣きたいことを押し殺して、押し固めて胸の奥底にしまい込んで、黙って堪えて、忘れたふりをして生きていく。

その蓋を、安さんの映画はいとも容易く開けてしまった。泣きたいときは泣いたっていいんだと。

そのせいで、このレビューを書くのに2週間もかかってしまった。

この作品は現在、能登半島地震の復興支援を目的としてチャリティ・オンライン配信を行っている(3月末日まで)。
このリンクから視聴できる。
https://note.com/kokoroiyasu_mov/n/n000ce318bc24?sub_rt=share_b

リンク先で寄付先も選べるようになっている。
一人でも多くの人の支援が、能登の方々の心の支えになることを願っている。

2020年『第46回放送文化基金賞』優秀賞および演技賞を受賞した『土曜ドラマ 心の傷を癒すということ』の主演・柄本佑さんのスピーチ。


13年前から通い続けている宮城県気仙沼市唐桑町(2023年4月撮影)。もはや第二の故郷です。今年はいつ行こうかな。


説明の紙芝居

2023年11月21日 | movie

『アナログ』


毎朝味噌汁をつくり、野菜を漬けて食べる一人暮らしを楽しんでいた悟(二宮和也)は、ある日、自分が内装をデザインした喫茶店「ピアノ」でみゆき(波瑠)という携帯電話を持たない女性と出会い、心惹かれるようになる。
毎週同じ時間に喫茶店で待ち合わせてデートを重ね、結婚を申し込もうと決意したその日、彼女は悟の前から姿を消してしまうのだが、後にある偶然からその事情が判明し…。
ビートたけしの同名小説をタカハタ秀太が映画化。

※この映画好き!感動した!という人・これから観たいという人は絶対に読まないでください!ネタバレもしてます。

うーーーーーーーーーーーーーーーーーんダメーーーーーーーーーーーーーーーーー。
このダメ具合はもっそい見覚えがある。同じ恋愛映画としては『嘘を愛する女』ですな。同じ二宮和也主演では『ラーゲリより愛を込めて』とか『プラチナデータ』ってのもありましたね。どれも同じパターン。
設定はいい、キャストもいい、芝居もいい。お金もちゃんとかけている。映像の完成度も及第点。なのに映画としてはアウトという。昨今の邦画にありがちな失敗作。

何がダメってね。
まず恋愛ってそもそものスタートがミステリーなわけじゃないですか。
相手のことが頭から離れない。思いが自分の中で溢れていくのを止められない。どうしてかとかなぜその人なのかとか、理屈はよくわからないままに恋心が膨らんで、やがて自分を見失っていく。
それをだな。『アナログ』では懇切丁寧に全部説明しちゃうわけですよ。情緒もへったくれもないのよ。

つくりとしては紙芝居といっしょです。
はい妙齢の男と女が出会いました。お互い憎からず思っています。ええ感じです。女には何かしら過去がありそうです。男はそんなもんどうでもいいぐらい女にのめりこんでます。はいそれからそれから〜ってか。
これほど興醒めな恋愛映画がありますかね。
そんな何から何までいちいちみちみちに説明されて、どうすりゃ感情移入できるっちゅうねん。

物語はほぼほぼ悟視点で描かれていて、みゆき側の話は映画の後半になってから「説明」される。
これがまたね。悟の友人たち(桐谷健太・浜野謙太)とみゆきの姉(板谷由夏)がぜーんぶ台詞で喋っちゃうんだな。
オイコラー!そこ手ぇ抜くんかーーーーーーい!
ですわ。
謎めいたみゆきの人物像そのものがこの物語を牽引する最も重要な軸なのに、その描写が超おざなりなわけ。びっくりするわあ。

みゆきは元バイオリニストでかつて深く愛した伴侶がいたのだが死別してしまい、悲嘆のあまり自分の殻に閉じこもって暮らしていたところ、悟に出会ってともに過ごす時間の中にようやく心の安らぎを見出すという、それだけでも立派な映像作品になり得るはずの物語を疎かにしてしまったのはなぜなんだろう。
何もそこを微に入り細を穿って描写せいとはいわない。せめて数カットでもいい、説得力のある丁寧な画がきちんと挿入されるだけでも全然違ったはずだと思う。
演奏シーンとかボロ過ぎるもんね。ほんと酷い。

結果として、女性(=みゆき)の人間性を踏み台にしたジェンダーバイアスぎゅいんぎゅいんなお涙頂戴メロドラマになってしまっている。
残念過ぎる。

実は観たのは何週間か前で、公開されてからしばらく経ってて、他の入場者はおそらく何回目かのリピーターなわけです。だからここはおたくのリビングか?ってぐらい上映中べらべら喋りまくるグループはいるし、後半の「感動してください」パートではみんなしくしく泣くし、ぶっちゃけ相当居心地悪かったです。

日本の映画界は何でこういう2時間ドラマでもよさそうな代物をお金かけてぼんぼんつくっちゃうんだろう。
二宮くんの芝居は好きだし(毎度天才的だと思う)、個人的には是枝裕和とか大森立嗣とか李相日とか吉田大八とか石川慶とか濱口竜介とか西川美和とかその辺の、作家性もありつつちゃんとエンタメに仕上げられる監督の作品に出てほしいといつも思う。
近作でいえば『浅田家!』なんかめっちゃ良かったんだけど…。


The monster's gone

2023年11月12日 | movie

『ビューティフル・ボーイ』

ライターのデヴィッド(スティーヴ・カレル)はアーティストの妻・カレン(モーラ・ティアニー)と次男ジャスパー(クリスティアン・コンヴェリー)と長女デイジー(オークリー・ベル)とカリフォルニアの海岸近くで暮らしていた。
前妻(エイミー・ライアン)との間に生まれた長男のニック(ティモシー・シャラメ)は、やや繊細ではあるものの頭脳明晰で成績も優秀な少年だったが、十代でマリファナを覚え、気づいたときにはメタンフェタミン(=クリスタル・メス)中毒に陥っていた。
デヴィッド・シェフとニックの体験をもとにしたノンフィクションの映画化。

『君の名前で僕を呼んで』でブレイクしたティモシー・シャラメの出演作。
薬物中毒の話って昔からちょっと苦手で。きっかけはリバー・フェニックスがオーバードーズで亡くなったときだから、ちょうど30年前だ。
そのころ私はまだ学生で、薬物についてはとくになんの感情ももっていなかった。周囲の大方の子たちは、マリファナやLSDやMDA程度なら遊びの範疇と捉えているような雰囲気で、ヘロインとかコカインまで手を出して中毒になるのは頭のよろしくない輩のやることといった区別をしていた。

だけどリバーが亡くなったことで、私にとってドラッグの話はただただ胸が締めつけられるだけの痛みに変わった。
その日のことはいまも忘れられない。
現地時間の10月31日、日本での11月1日、私は学園祭で大規模なショーを上演していて、チケットは完売、観客席は満席だった。私は関係者の前では心に蓋をして、とにかく目の前の本番に集中していなくてはならなかった。
それでも胸の中は悲しみと悔しさでいっぱいだった。あれだけ才気に溢れ限りなく輝かしいキャリアを築いていたリバーが、たかがクスリで、わずか23歳で命を落とすということがどれだけ虚しいことか、骨身にしみた。
その後も多くのセレブリティがオーバードーズで亡くなっているが、そのたびに、リバーのことを思い出す。

この物語で、ニックはどうしても埋められない心の隙間から逃れようと薬物に助けを求める。父親は息子が抱えた問題が何か思い至らず、ただ彼を管理しようと躍起になる。
ニックは家族の力を借りながらリハビリ施設に入所したり、大学に通ったり、薬物から離れようと努めるものの何度も失敗する。
お父さんはちょっと尊大で独善的だけど愛情深くて、息子は継母や腹違いの弟妹がいる家庭で感じる疎外感からどうしても内向的な傾向はあるけど、この程度の距離やズレはどこの親子にもあるものだと思う。傍目にはごくごく普通の父子でしかない。

しかし父親でも母親でも息子でも娘でも、人は誰でも、自分自身であることを放り出すことはできない。自分の感情は自分で引き受けるしかないし、他の誰かになることもできないし、自分自身を捨て去ることもできない。生きている限りは。
どうしてもそうしたければ、この世から離れる以外に手段はない。
そのことを認めて受け入れるまでの道は険しく、遠い。
この家族は、とことんまでその道をひたすら突き進み、最後のどんづまりまで駆け続ける。
それは、正直、ちょっと正視に耐えないほど厳しく、つらい。悲しくて、やりきれない。

スティーヴ・カレルとティモシー・シャラメの芝居がもう強烈です。無茶苦茶生々しい。
画像でみると二人は実際のシェフ親子と外見をそっくり似せてます。それが物凄い自然なんだよね。ハリウッド映画だとそういうの当たり前みたいなんだけど、それにしても「寄せた」感が全然ない。
二人のシーンはほんとうの父子のぶつかりあいみたいに、どことなくよそよそしくて、会話はぎこちなくて、ときどきすごくギスギスしている。その感情表現があまりにもリアルで、心の中で二人に向かって「頑張れ」「頑張れ」って一生懸命応援してしまう。
お父さん、ちょっと落ち着こうよ。ニックはあなたの所有物じゃないんだよ。
ニック、お父さんの目をちゃんとみようよ。彼はあなたの味方なんだよ。

親子愛ってほんとうに難しい。
互いに相手への愛には微塵の疑いもない。
でもだからといって何もかもをそのまま受け入れることはできない。
愛が深過ぎて、愛ゆえにどうしても相手を傷つけずにはいられないから。
そんなことしたくないのに、傷つけあわずにいられる方法がわからない。

もしその問いの答えが見つけられるとしたら、それは当たり前のことなんかじゃなくて、努力の末の賜物でもなくて、単にすごくラッキーなんだと思う。
この映画のラストシーンを観て、そうなんだよな…と再認識させられました。せつないことなんだけど。


関連レビュー:
『キャンディ』
『CLEAN』
『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』