落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

sirent world

2010年02月15日 | book
『筆談ホステス』 斉藤里恵著

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お正月にはドラマ化もされた話題のエッセイ。先月は斉藤さん自身の妊娠がニュースになったりもしましたが。
正直な話、ぐり個人としてはこういう本については複雑な思いがある。最近の女の子たちの「将来やってみたい職業」ランキングにはキャバクラ嬢などの接客業ががランクインするようになり、街中でもその手のアルバイトの求人サイトのけばけばしい広告をしょっちゅう見かけるようになった。
職業に貴賎はないし、ぐりもとくに水商売・接客業に偏見があるわけではない(と思う)。ホステスやキャバ嬢になりたい女の子がいることそのものは全然かまわないと思う。
でも、世の中には他にもたくさん、数限りない職業があり、子どもたちには無限の可能性がある。たとえば女の子の憧れの職業の定番のひとつは看護師だけど、現実の看護師という職業にはおいしい面もあればしんどい面もある。看護師のしんどい面なら世間の誰もが知っている。拘束時間が長い、体力的にきつい、責任が重い、危険、休みがない、などなど。それだけ看護師という職業の実情が市民感情に浸透しているといえる。
じゃあ、いまどきの女の子たちが憧れるキャバ嬢はどうか。おいしい面なら誰でも知っている。拘束時間が短くてお給料はなかなか良い、お客さんからプレゼントがもらえたり、おいしいものをごちそうしてもらえたりする。他にもあるだろう。逆にしんどい面はどうか。リスクはどうか。
情報に偏りがあるのは仕方がない。でもその偏りが、何者かの都合のいいように操作されていたとしたらどうだろう。まして、情報の公正さを見抜くだけの社会経験を持たない子どもたちの目に触れるところにごろごろ転がっている情報が、誰か一方にとってだけ都合のいいようにあらかじめ取捨選択されていたとしたらどうだろう。
その情報を目にする側が、無知で若ければより得をするという人間たちが、この世の中にはたくさんいる。そしてそういう情報の不均衡のうえに搾取は生まれるのだ。

とはいうものの、銀座のホステスは接客業の中でもいってみれば最高ランク、キャバ嬢とか他の接客業とはわけが違うかもしれない。
斉藤さんの接客テクニックはある意味では銀座でしか通用しないのではないだろうか。接客する側も一流なら、遊びに行く客も一流。遊び方がわかっていなければまぜてもらえない世界である。そういう場だから、ゆっくりゆったり、メモを交わしながらの紙の会話で疑似恋愛ごっこなんてことが許されるのだろう。
逆にいえば、斉藤さんは新宿とか六本木のクラブはちょっと厳しいかもしれない(笑)。どーかよくわかりませんけど、なんとなく。

予想してたより当たり障りのない内容で、読んで感心するとゆーほどの本ではなかったけど、耳が聞こえない、まったく音のない世界に暮らすひとりの若い女性の手記としては、なかなかいきいきとして楽しい本ではあったと思います。
ぐり的に注目していただきたいのは、斉藤さんがほとんど手話ができないというくだり。以前にも『累犯障害者─獄の中の不条理』のレビューで書いたと思うのだが、日本の聾学校では健常者と同じに発音させる口話教育が優先されるため、長じても満足に手話が使えない聴覚障害者が意外に多いという。だが障害の重度によってはこの口話技術がまったく身につかない子どもも中にはいる。ごく少数だが、手話もできず、文字の読み書きも習得できず、言語によるコミュニケーションがいっさい不可能なままとなっている聴覚障害者も存在するという。

今現在、日本には30~40万人の聴覚障害者がいるという。
加齢による難聴も含めれば600万人を数えるという説もある。実に日本人の20人にひとりが、耳に何かしらの異常をもっているという計算になる。
それほど身近な障害でありながら、彼らの暮らしている世界と、健常者の世界のなんと遠いことか。
斉藤さんの夢は、健常者と障害者がいっしょに働ける事業を起こすことだと語っている。
彼女が、日本の世の中に大きく横たわる、少数者と多数者との間の深い溝の、懸け橋になってくれることを願いたい。

人間失格

2010年02月08日 | book
『子どもと性被害』 吉田タカコ著

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『ミスティック・リバー』に続きまして。子どもの性的虐待についてのレビューです。
子どもの性的虐待、と聞いて皆さんどんなイメージがありますかね?たとえば、被害者ってどんな人でしょう?加害者ってどんな人でしょう?
小さいころ、「知らない人についていかない」「暗くなる前にうちに帰りなさい」と教わった人は多いと思う。でもそれと同時に「おとなのいうことは聞きなさい」と教えられた人、「ちんちん」「おしり」「おまんこ」など性器を表わす言葉を人前で口にしないよう教えられた人も多いだろうし、これらは子どもに対するしつけとして、どこでも誰にでも常識的なルールととらえられているのではないだろうか。
だがそれがぜんぶ間違っていたとしたらどうだろう。

子どもに対する性的虐待の加害者は、多くが被害者と日常的な関わりをもっているといわれている。父親・母親・兄弟姉妹・叔父や叔母・祖父母・親戚といった親族はいうにおよばず、親族の友人や従業員などの関係者、同居人、近所の人や学校・塾やお稽古事の教師、部活動のコーチ、学校の同級生や上級生・下級生、児童福祉施設職員や医師をふくむ医療関係者、教会職員など、加害者になりうる人間は子どものまわりにいくらでもいる。正確な統計は手元にないけど、おそらく子どもの性被害全体からみれば、加害者は「知らない人」よりも「知っている人」の方が多いはずである。なぜなら、子どものそばにいて虐待をくわえる機会を多くもつのは明らかに「知らない人」より「知っている人」だからだ。
そして被害にあう場所も、家庭や学校など子どもの生活の場と重なりあうことが多い。先月一審判決が下りた酒井康資被告(フィギュアスケートコーチ。13歳の教え子を強姦)は自宅で凶行に及んでいるが、加害者が身近な人間である場合は被害が起こるのも身近な場所になる。「暗くなる前にうちに帰」っていても、子どもの性を完全に守ることはできない。

ぐりは理想主義者でも楽観主義者でもないので、子どもに対する性被害は決して現実世界からなくなったりしないだろうと思っている。
でも、少しでも数を減らすことや、起きてしまった被害から子どもの心を回復させることはできるはずだと思っている。
たとえば、被害にあった子どもは自分に何が起こったのかわからず、誰にも相談できないまま、さらなる虐待を自ら助長してしまったり、精神的に深刻なダメージを受けてしまうことがある。
だから、子どもには自分のからだを守るための知識が必要だし、起きてしまったことをすぐに相談できる相手と、安心して逃げ込める場所が必須になる。
ところが、子どもへの性的虐待そのものが認知されて間もない日本には、そうしたケアができるシステムがまだほとんど整備されていないのが現状だという。教育現場には有効な性教育もなかなか受け入れられていない。

虐待を見抜ける社会、虐待から子どもを守れる社会をつくっていくのには、気が遠くなるような長い道のりが待っている。
けど、それがほんとうに必要とされていることを誰もが認めさえすれば、そんなに難しいことではないはずだと、ぐりは思う。
少なくとも、性的虐待にあった子どもやそうした過去をもつ人たちへの偏見をなくすことや、子どもの人権を無視した児童ポルノへの毅然とした拒否は、市民ひとりひとりが堂々と主張していくことで、被害を少なくしたり未然に防ぐための有効な手段になりうる。
そんなのべつに難しくもなんともない。
誰にだって、今からだってできるはず。
違いますか。

神秘川

2010年02月08日 | book
『ミスティック・リバー』  デニス・ルヘイン著 加賀山卓朗訳

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2003年にクリント・イーストウッド監督により映画化され、その年のアカデミー賞で主演・助演男優賞を獲得したほか、ゴールデン・グローブ賞、放送映画批評家協会賞など賞レースを総ナメにした話題作の原作小説。
映画版のレビューはコチラ
“ミスティック・リバー”はアメリカ・マサチューセッツ州、ボストン市の北側を流れる短い川の名前。
この川の傍で育った遊び仲間のショーン、ジミー、デイヴは11歳のある日、いつものように3人で遊んでいて、デイヴだけが誘拐されるという事件に巻き込まれる。デイヴは4日後に無事に戻って来たが、以後3人が仲のよい幼友だちの関係にもどることはなく25年の歳月が流れ、ジミーの19歳の娘ケイティが惨殺されたことからふたたび3人の運命は交差し始める。

んー。イマイチ!
すごくよく書けてるんですけどねえ〜なんかもうちょっと・・・ひきこまれるって感じではない。
映画版のレビューもひさびさ読み返したけど、めちゃくちゃ書いてるねアタシ。さすが(?)。けどまあ原作の方が面白いことは確かです。6年前の映画をいまさら見返したりしなくても、この原作を消化した以上の映画じゃなかったくらいのことはわかりますが。
日本での公開時のコピーは「もうひとつの『スタンド・バイ・ミー』を見るために、あなたは大人になった。」だったんだけど、まあだいたいそういう話です。ただ、『スタンド・バイ・ミー』の原作が中編だったゆえに成功した映像化が、『ミスティック・リバー』の原作が長篇(なげーっす)ゆえにうまいこといかんかった、とかいわれても困りますけれど。

といっても『スタンド・バイ・ミー』と『ミスティック・リバー』には共通点はほとんどない。
『スタンド・バイ・ミー』に登場する4人の少年たちはそれぞれ家庭に問題を抱え、互いを結びつけあう必然性があった。『ミスティック・リバー』の3人にそれはない。ただたまたま近くにいて、たまたま仲良くなっただけだった。『スタンド・バイ・ミー』の4人は物語のあとそれぞれに別の進路を選び、ふたたび親しくなることなく友情はノスタルジーの中へ埋没していく。『ミスティック・リバー』の3人の友情もあっさりと壊れて消えていくが、彼らは町を離れることなくコミュニティの一員同士として一定の距離は保ったままおとなになる。

読んでてメチャメチャ気になったんだけど、この著者ってもしかして『スタンド・バイ・ミー』をかなり強く意識してたんじゃないかなあ?って。思い過ごしかな?いやー。たぶんそーだと思うんだけど。
たとえば、殺されたケイティと生前最後に過ごした友だちふたりの数年後の回想シーンなんかをわざわざ挿入してるとことか・・・すっごいイヤミなんだもん。わかるけどね。気持ちはさ。
機能不全の家庭に育つ悲劇や、愛する家族を突然奪われる悲しみは、当事者にとっては永遠に消えることのない心の痛みだけど、どんなに親しい間柄であっても非当事者にとっては時間が過ぎてしまえばただの暗い思い出になってしまうなんてよくあることだ。だからってそれをわざわざ取り上げて登場人物を卑下しなくてもいいんじゃないのかねえ?もしかしてこの作家さんて女の人嫌いなの?
つーかさ、ジミーとショーンの人物描写はやたら美しいのに、それ以外は徹底的にボロカスってやっぱ読んでて気持ちいいもんじゃないですよ・・・。

それとデイヴの内面描写がけっこー単純なのがひっかかり。
ほんとはそこ一番大事なんとちゃうの〜〜?って思うんですけど〜〜。これじゃあ性的虐待を受けた子どもがみんな性的倒錯者とか性犯罪者になっちゃうみたいでさ〜〜ヤなんですけど〜〜。
どーせこの題材をあつかうならもっと真面目にやってほしかったですよ・・・。

アブナイ男道

2010年02月05日 | book
『平成オトコ塾―悩める男子のための全6章』 澁谷知美著

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ん~~~。
おもしろいんだけどね~。読みやすいし・・・。
でも中身薄いよこれ~~。読んで損するってこたないけどね。
しかしね~。

何が問題かっちゅーとね~。この著者の方、ほんっとによく本も読んでるし、いろいろコネもあるんだと思うんだけどね、どの情報も自分の都合のいいように勝手に解釈して、それをほいほいほいっと継ぎ接って、うまいことお気楽なパッケージにしちゃって、それで「どう?説得力あるでしょ?」ってまとめちゃってる、そこのその姿勢なのよね~。
ナメとんのかい、コラッ。みたいな。

まあ、全部が全部問題だとは申しません。
第5章の「包茎手術はすべきか否か」なんて、若い男の子には必読のオソロシ―情報満載です。大人は読まなくていいけどね。常識だから。包茎手術なんか包茎病院のビジネスのためにあるんであって治療のためなんかじゃないなんて、フツーいいトシこいた大人なんて誰でも知ってますよね?あれ?
けど第6章の「性風俗に行ってはダメか」なんか完全におかしいです。いや、間違ってはいないんだけど、事実の都合のいい部分、それも読者ターゲットの若い無知な男の子にとって都合のいい部分だけを、あたかも「事実のすべて」であるかのよーにうまいことまとめて書いてある。
確かに情報としては間違ってないけど、伝え方として全然フェアじゃない。そんなのあぶなくってしょうがないでしょう。

語り口調は軽妙で読みやすい、読んでて楽しい本ではあるだけに、ちょっとこれは困ったなあーってキモチになってしまいましたです。
包茎の章以外はね。

ユートピアの餅

2010年02月03日 | book
『入管戦記―「在日」差別、「日系人」問題、外国人犯罪と、日本の近未来』 坂中英徳著

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現在は一般社団法人移民政策研究所所長で元東京入国管理局局長、1970年の入省以来2005年に依願退職するまでの35年間、法務省で入管業務の最前線で活動した元官僚の手記。
んー。おもろかったけど。けど。
でもなんか、どっかで読んだことあるなー?このトーン・・・と思ったらば。アレですね。『通訳捜査官』(坂東忠信著)でした。
坂東さんは一介の元警察官、一方の坂中さんは官僚ですから、クラスがかなり違いますけれど。スタンスは似てるんだよね。正義感はたっぷりこってりなのにどっか強引とゆーか、大雑把だろーが乱暴だろーがとりあえずやったもん勝ちみたいな。
ビジョンは違うけどね。官僚は法律をつくって国を動かしていく権力だけど、警察はできあがった法律で国を守ってくための権力だから。
いってみれば同じチームのメンバーなんだけどポジションが微妙に違うみたいな感じでしょーか。

サブタイトルにもあるように、坂中さんは在日コリアン問題にもけっこう深くコミットされてるらしー。らしー、とゆーのは、ぐり本人が在日コリアンなのにそーゆー政治的な問題にはとーんと疎いからでございます。まあ、あんまし関心はない。
だからこの本の後半大部分を占めるその関連項目も、ぶっちゃけちゃんとは読まなかった。流し読みしました。正直いって真剣に読む気がまったく起きなかったし、読んでて気持ちのいいものではなかったので。
坂中さん自身は在日コリアンに対して差別意識は全然もってないだろうし、どちらかといえば、理解もある人なんだろうと思う。日本という国を構成する仲間として、日本国民と同じように法的に安定した地位と環境が在日コリアンにも与えられてしかるべきとゆー、いまどきの日本では相当に親切な(?)考え方をされている。それはいいことです。結構じゃないかと思う。
けどね、「在日コリアンはこれこれこのよーな人々である」からして、すなわち「在日コリアンはこれこれこのよーに生きて行きなさい」なんて誰にもいわれたかないよ。それ、逆の立場で考えらんないのかねー?さすが日本人(おっと人種差別)。さすが官僚(おっと職業差別)。

官僚は法律をつくって国を動かしてくのがお仕事です。だから、なるべくなんでも類型にはめてものを考えてかないとお仕事がかたづかない。そんなこたわかってます。
だけどね、でももうちょっと、ほんとにもうちょびっとでいいから謙虚になれんもんかね?って思うよ。
文中に、法務局で「いま、いちばん望んでいることは?」と尋ねられた在日コリアン青年が「日本人に生まれたかった」と答えたというエピソードが書かれてたけど、ほんとに官僚に考えてもらいたいのは、なんで彼が「日本人に生まれたかった」なんていわなきゃいけなかったのかというその気持ちよりも、彼にそんな悲しいことをいわせているのは日本のいったい何なのか、そこのとこじゃないのかい?と、強く思うわけでございますです。
はあー。


坂中さんのブログ SAKANAKA CHANNEL