落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

うしろのしょうめん

2006年01月29日 | book
『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』フィリップ・ゴーレイヴィッチ著 柳下毅一郎訳
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映画『ホテル・ルワンダ』で描かれたルワンダ虐殺事件についてのルポルタージュ。
疲れた。もーーーマジに疲れました。読むのにこんなにエネルギーを使った本はいまだかつて記憶にない。なにしろ1時間以上読み続けることができないのだ。30〜40分読んでは休み、読んでは休まないと先に進めない。それほど疲れた。
量が多いとか内容が重いとか濃いとか複雑だとか、そーゆー問題ではない(事実多くて重くて濃くて複雑なのだが)。全っ然、読み手のことを意識して書かれていないのだ。ルポルタージュにも関わらず、章立ても段落わけもされていない。見出しというものが一切ない。そのうえ文章がわかりにくい。というか、何度読み返してもまったく意味不明な文章がやたらに出てくる。しかもこれは明らかに訳者と編集者のミスなのだが、誤字脱字満載(笑)。何ですかこれは?アメリカ人ジャーナリストである著者はこれが最初の著作。訳者の柳下氏はたぶん映画ライターとしても知られてる方ではないですかね?ぐりでもお名前を知ってるくらいだから。
それにしてもこの身もフタもない邦題はどうしたものか。原題は"We wish to inform you that tomorrow we will be killed with our families;Stories from Rwanda"。「明日、私たちが家族といっしょに殺されることをあなたにお知らせします」という某ツチ族牧師の手紙から引用された一文だそうだ。

1994年4月〜7月に、中央アフリカはルワンダという緑あふれる小国で起きた事件については、映画の公式HPでも簡単に説明されているのでここでは繰り返さない。
この本には、ことここにいたるまでのルワンダの歴史と、虐殺が始まるまでの経緯と、事件の全容(の断片)と、その後のルワンダと周辺諸国での混乱(などという言葉でかたづけるのも気がひけるほど深く激しい混乱)について、実に詳細に語られている。
これだけ詳しく書かれた本を読み終わった今も、ぐりには、なんでまたこんなことが起こり得たのか、やっぱりうまく理解はできない。
虐殺のことじゃない。虐殺のことなんかわかるはずがない。というか、わかったような気持ちになってはいけない気がする。
そうではない。ルワンダで起きた内戦はルワンダ人同士の争いではなかった。そもそもの発端をつくりだしたのは西側の権力者だった。そして国内紛争に手を貸した─文字通り‘火に油を注いだ’─のも西側諸国だった。虐殺が始まると国際社会はルワンダを見捨て、背を向けた。内戦に一応の決着がついてから彼らはやっと反応し難民支援に乗り出したものの、おカネやモノがただ徒にどさどさとおくりこまれるばかりで、実質的な事態収拾にはさっぱり非協力的だった。こうして目的のない殺しあいが無限にずるずると続くことになった。
そうなのだ。ルワンダという小さな平和な国を阿鼻叫喚の地獄にたたき落とし、そこで罪もない100万人の人間が殺され、300万人の難民が国境地帯に溢れかえり(ルワンダの人口は当時800万人)伝染病や飢えでバタバタと死んでいくのを、国際社会はじゃんじゃんと煽動していたのだ。そこには日本だってちゃんと含まれている。わたしも、あなたも、そんなこた知りませんでした、そんな遠い国のことなんて関係ありません、なんて言い逃れはできない。
どうしてそんなことが起こり得たのか?誰かぐりにもわかるようにもう一度説明してくれないだろうか?

だがたったひとつだけいえることがある。
ルワンダで起きたことは、方法さえ踏まえれば、どこでだって起こせることだ。特別なことじゃない。それこそ、アダブラカダブラなんとかかんとかと呪文を唱え、みんなにマチェテ(山刀)を配って「ハイ、隣人を殺しなさい。やらない人は殺されますよ」と宣伝すれば、どこの国でもルワンダと同じ状況に陥らせることはできるんじゃないかと思う。
それほど人間は愚かで、単純なのだ。ルワンダの人たちが貧しくて教育程度が低かったからこうなった、というのは誤りだと思う。自分の頭でものを考え、自分自身の意見をもち、それに自分で責任をもつ、そうした自立した社会意識が、21世紀の今でも、日本やアメリカを含め教育制度が完備され各種社会サービスの行き届いた先進諸国でさえ、ちゃんと浸透しているとは、ぐりにはとても思えないのだ。そんな社会で、選民主義という名の人種差別と民族浄化という名の暴力とを結びつけるのは、それほど難しいことではないのではないだろうか。
誰か目立ちたがり屋な人間がお立ち台に立って、わかりやすくて耳に心地よいメッセージを色とりどりに飾ってみせれば、みんなが無批判に鵜呑みにする。そしてそれが一旦否定されれば手のひらを返したようにみんななかよく揃って攻撃する。結果として誰かが傷ついても、誰ひとり責任はとらない。「みんなそうしてたから」「誰それがこういったから」「忘れた」「知らない」でことを済まそうとする。
それってべつに、遠い国の非現実な話じゃないんじゃないですか?どうでしょう?
毎日毎日TVで、ネットで、わいわいと流れている映像や情報は、そんな‘Stories’に似てると思いませんか?

そういう世の中を、ぐりは心底恐ろしいと思う。ほんとうに怖いと思う。

日はまた昇る

2006年01月28日 | movie
『RIZE』
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先週に引き続きアフリカ系─ひらたくいうところの黒人─映画。
えーと・・・ちょっと疲れました。2週連続ってこともあるかもしれない。ドキュメンタリーだしね。ドキュメンタリーって重いじゃないですか。ぐり自身ヒップホップとかダンスにも全然疎いですしー。
ちょうどぐりの右隣は若い白人のアメリカ人カップルだったんだけど、この女の方はずーーーーーっとぺちゃくちゃ喋りっぱなし、反対の左隣の若い男(もちろん日本人)はいびきかいて寝まくり。
まぁだからぐりは決して退屈はしなかったけど、退屈してた観客もいたってことです。

内容は重いです。
舞台はロサンゼルス、サウスセントラル地区。全米で最も危険なスポットともいわれるほど治安の悪い地域。映画を観ていても画面に映ってるのはほとんどが黒人。白人は2シーンにしか登場しない。そして彼らは等しく貧しい。大抵の家庭には父か母が欠けている。最初からいないか、子どもが生まれてから死んだか消えたか、あるいは刑務所に入っている。家によっては両親ふたりともが不在だったりもする。いても失業していたり、ヤク中だったりする。教育程度も低い。ドラッグが蔓延しいくつものギャング団が暗躍している。子どもたちには、ドラッグにハマって死ぬか、ギャングに入って抗争に巻きこまれて死ぬか、あるいは捕まって刑務所に入るかのいずれかの将来しかない。こわすぎる。
それほど荒廃したこの地域で生まれたダンス─クラウン・ダンス、クランプ・ダンスなどと呼ばれる─に青春を駆ける若者たちの姿を描いたのがこの映画だ。

激しい踊りだ。
派閥があったりグループが細かくわかれていたり、どれも似ているようで少しずつ特徴があり、中にはブレイクダンスやバレエやモダンやタップやラテンなど他のダンスの影響を受けたスタイルもみられるが、どの踊り手のダンスにも共通しているのは「暴力的なまでに過激である」という点である。
それは本当に一見暴力にみえる。ふたりのダンサーが向かいあってテクニックを競いあう様はまさに格闘技のようだ。
だが実際にはそれは暴力ではない。誰も傷つかない。ただのエンターテインメント、肉体を使ったアートに過ぎない。とても平和だ。
そう、それほどまでにここに住む子どもたちは自己主張する対象に餓え、主張すべき怒りに満ちた人生を強いられているのだ。
彼らの踊りが過激であればあるほど、乱暴であればあるほど、彼らの怒りは美しく力強く昇華されていくのだ。

とはいえダンスも万能薬ではない。今も暴力とドラッグはサウスセントラルに猛威をふるっている。
ダンスに救われた子どもたちもいる。彼らにとってダンスは「命の恩人」かもしれない。しかし全体からみればせいぜい「ないよりまし」といった程度かもしれない。
それが現実だ。
タイトルの‘RIZE’とは、起きる、回復する、立ち上がる、上がる、のぼる、高まる、生じる、発する、蜂起する、という意味をもつ「rise」に通じている。
でも、ぐりの目には、彼らは暴力のカオスへ振り落とされまいとして「ダンス」にしがみついているようにみえた。その満身の力をこめてしがみついた拳の硬さが、あの暴力的な踊りに表現されているようにもみえた。

映画は退屈がっている観客がいても仕方がないような構成ではあった。
まとまりがなく、華麗なダンスシーンと激しい音楽に過分に頼ったようなつくり方になってしまっているのは否定のしようがない。
逆に、作為的な演出を極力避けて、対象をあくまでストレートに、敬意をもって画面に写しとりたいという意図は素直に感じられたし、その点は好感がもてました。
そして、躍動する肉体の美しさの前には言葉もない。どれだけの不幸と苦悩を背負っていようとも、人間は神に愛された生き物であることを、改めて思い知らされました。
人間ってホント、きれいです。

天才のラストダンス

2006年01月25日 | book
『カメレオンのための音楽』トルーマン・カポーティ著 野坂昭如訳
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カポーティは世界的に有名な大作家だが、邦訳されていて現在も一般に読める長編作品はどちらかといえば少ない。よく知られているのは映画化された『ティファニーで朝食を』、そして『草の竪琴』、ノンフィクション小説の巨編『冷血』、未完の遺作『叶えられた祈り』、そんなところだろう。デビュー作『遠い声 遠い部屋』(95年に映画化されているが日本未公開)は中篇といった方が妥当だろうし、『冷血』『~祈り』以外の他の作品もボリュームとしては軽いものだ。上記以外の邦訳は全て短編集である。
彼は弱冠19歳にしてセンセーショナルにデビューし文壇のスターとなったが、そのスキャンダラスな生活とあたら才能ゆえに文筆活動には苦労した。84年に亡くなるまでの実に40年間という長い作家生活の割りに、遺した作品の量が多くないのはそのせいだろうか。
『カメレオンのための音楽』はそんな彼が生前最後に出版した短編集。

ぐりはこのカポーティという人の小説が大好きなのだが、なぜかこれは今まで読む機会がなかった。なんでかな?すーっごいおもしろかったです。
これは一見すると小説ではない、スケッチ風のエッセイや対談集のようにも見える。事実アメリカではノンフィクションに分類されてるそーだ。でもよくよく読んでみるとそうではない。いささかのよどみもなく鮮やかに迸るような文体には明らかな再構成の痕が認めれられるし、それがまた巧みなリアリティの演出にもなっている。そこには一点のほころびもない。よく書けている。まさに天才カポーティらしい一冊です。
だがカポーティは『冷血』での成功の後『~音楽』を発表するまで14年間も小説を書けなかったし、『~祈り』に関してはついに脱稿に至らないまま死ぬことになった。それほどまでに彼を叩きのめした『冷血』の“重さ”と“衝撃”とそこへ残された“無力感”が、読んでいてひしひしとよくわかる。

第一章の「カメレオンのための音楽」はある情景のスケッチ風短編集。
カポーティの従来の短編を思わせる、かろやかでエキゾチックでチャーミングな、しかしぞっとするような狂気と悲しみを含んだ小説が6作品収められている。
なかで最も印象的なのは「くらくらして」。一読してすぐにカポーティ自身の私小説とわかるこの物語は決して不幸な話ではないのだが、同時にとてつもなく悲しい。その悲しさは人間なら誰でも身におぼえのある、だが日常にかまけて(あるいは直視するのを避けたいがために)忘れてしまうような性質の悲しみだ。悲しみそのものの存在が軽いからこそより悲しい。そんな悲しみを、これほど率直に描ける作家はカポーティぐらいしかいないかもしれない。

第二章「手彫りの棺」はアメリカ西部のある小さな町で起きた連続殺人事件を担当している刑事とカポーティの対談。
といっても実際にそんな刑事がいたわけではなく、作家が取材した複数の捜査関係者から得た情報を組み合わせて再構成した文章なのだそうだが、この映画のシナリオのような、インタビューのようなスタイルの臨場感が圧巻です。読んでいてもどこまでが事実でどこからが憶測、そしてどの部分が虚構なのかがまったくわからず、まるで迷路のなかで踊らされているような気分になってくる。
これが直接『冷血』の成功によって書かれた文章であることはまず間違いないだろう。だが作家はそこで満足はしなかった。いや、できなかったのかもしれない。

第三章「会話によるポートレート」はまさに見出しのまま、作家が実際にともに過ごした人物との会話を採録した短編7本。
ニューヨークの派遣ハウスキーパー、学校時代の同級生、故郷ニューオリンズの人々、凶悪殺人犯、ハリウッド女優など、さまざまな人が登場する。だがどの人物に対しても作家はまったく姿勢を変えていない。変えないからこそ、相手を描写しているようで、相手に反映されるカポーティ自身こそがくっきりと浮かび上がって見える、そんな文章になっている。
なかではやはりアル中気味の友人との昼食を描いた「見知らぬ人へ、こんにちは」、マリリン・モンローとの何気ないやり取りを綴った「うつくしい子供」、殺人犯ボビー・ボーソレーユへのインタビュー「そしてすべてが廻りきたった」が印象的だ。純粋さはこわれやすくはかないほどに純粋であり、その裏にある地獄の深さゆえにより美しく完璧にみえる、という矛盾が克明に描かれている。

カポーティという人物に対する評価はさまざまあるだろうけれど、ぐりはやっぱり作品を読むたびにこのひとは天才だと思うし、これだけの才能と作品を世界に遺してくれた神(そんなものがいるとして)には感謝せずにはおれないです。
おもしろかった。うん。
いよいよ『Capote』が楽しみになってきたよー。

あなたは知らない

2006年01月22日 | movie
『ホテル・ルワンダ』
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※ややネタバレですが史実を元にした物語なので伏せ字にはなってません。

日曜日のレイトショー。でも昼過ぎの時点で夕方の回までぜんぶ満席。立ち見もいる。
確かにこれは全部の人間が観るべき映画だ。
いいとかわるいとかそういう問題ではない。
世の中にはそういう種類の映画がある。
たかが映画だ。
でもこれは絶対に見逃すべきではない。
映画館に行ける人間はみんな行くべきだ(全国の上映館)。それ以外の人はレンタルビデオが出たら観ればよい。
残虐な暴力シーンはほとんどありません。お子さんや女性の方でも安心して観られます。
観ましょう。きっと。

こういう言い方は全然フェアではないと思うけど、あえていわせてもらうなら、ぐりの貧しいボキャブラリーで的確に感想を述べられるような映画ではない。
言葉がでない。
どうして?なぜ?なんでこんなことになるの?わからない。理解出来ない。
この映画はそういう「わからなさ」をわからないまま観客の前に放り出して見せている。
どう感じようがあなたの自由です。どうぞご勝手に。
でもこれは本当にあったことです。
以上。
みたいな。

主人公は四つ星ホテルの支配人ポール(ドン・チードル)。彼はフツ族(=支配者階級側)だ。
だがたまたま彼の妻(ソフィー・オコネドー)はツチ族(=反乱軍側)だった。
おそらくそうでなければポールは「ルワンダのシンドラー」と呼ばれる人道活動に加わることはなかっただろう。それほど彼は民族意識や政治意識に希薄な、ごくごく普通の小市民だったのだ。
彼をして1200人を超える難民を匿わせたのは、妻子を守りたいという当り前の家族愛と、ホテルマンとして滞在者の安全を確保し通したいというプロ意識だけだったのではないだろうか。
この大惨事を世界に向かって語るに最も相応しい語り手には間違いない。

映画は彼らが国連の協力でホテルを脱出し安全地帯まで逃れるところで終わる。
しかし虐殺と内戦はこの後も続いた。
いや、はっきりといえばまだ続いているともいえるのだ。
この広い世界には、今日も同じ人間同士で傷つけあい殺しあうことをやめない人たちがいる。
たまたまそれが我々の目に届いていないというだけの話だ。
この映画がいいたかったことは、ほんとうはそれなんではないだろうか。
あなたは知らない。
でも、これは事実です。あなたが知らないだけのことなんです。と。

ただただ恥ずかしくて涙が出た。ルワンダを見捨てた国際社会。100万人の犠牲者たちを見殺しにした西側諸国。自分もそちら側の人間なのだと思うと、情けなかった。

これから資料を読むので、読んだらまた感想書きます。

“『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会”改め“『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会”HP
主人公ポール・ルセサバギナ氏本人の来日講演レポートなど貴重な記事満載。必見。

おもひでさらさら

2006年01月20日 | book
『纏足の靴 小さな足の文化史』ドロシー・コウ著 小野和子+小野啓子訳
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2000年にトロントで開かれた「清末の中国における女性の生活と靴」という展覧会にあわせて出版された研究書の日本語版。
でも決して難しい本ではないです。華麗な刺繍やアップリケに彩られた美しい靴の図版がたくさん収録され、また纏足だけでなく纏足をした中国の女性と彼女たちが生きた中国の伝統的な家庭制度についても広く浅く易しく解説した本です。とっても読みやすい。

纏足といえば残酷でグロテスクで好色で非文明的な悪習というイメージが一般的だが、本書はそれとはまったく違った側面からこの習俗にアプローチしている。
そのとっかかりとして紹介されているのが「中国のシンデレラ」。
シンデレラ=灰かぶり姫といえば19世紀のグリム童話が有名だが、最近その起源は9世紀に中国で成立した「酉陽雑俎」という書物に登場する葉限という名の少女の物語であるらしいことがわかっている。ストーリーはグリム童話のシンデレラとほぼ一致していて、王が宴会でひろった金の靴を手がかりにヒロインを捜しあてて側室に迎え、彼女を虐待した継母や義姉は処刑される。
ここで注目されるべきはヒロインが靴によって人生に勝つ、という点である。その靴がもし大きかったら、王はおそらく葉限のもとにはたどりついてはいまい。靴が小さくて葉限にしか履けなかったからこそ、彼女は王に発見され得たのだ。
つまり小さな靴は既に当時「幸せな結婚=女性の地位向上」の象徴と考えられていたわけだ。

この本を読む限りでは、具体的にいつどのようにして纏足が始まったのかは実はよくわかっていないらしい。というのも纏足は女性だけの世界に秘められ隠された習俗であり、この習慣について書かれた歴史的文献や資料がほとんど残されていないからだ。
今のところ、墳墓の副葬品などから纏足が習俗として成立したのは13世紀頃ではないか、ということはわかっている。そして17世紀頃まではこれは漢民族の上流階級の女性だけの習慣だった。一般の女性にまで普及し始めたのは17〜19世紀のことで、この時代は纏足をしない満州族による清王朝が中国を支配していた。
要するに纏足は長い間少数派の上流階級=エリートの女性の習慣であり、それが一般化したのは漢民族の社会階級に変動が生じたからなのだ。一般の女性にとって纏足をすることは、ハイクラスの女性に少しでも近づくという幻想のための儀式と考えられていたともとらえることが出来る。
安易な喩えかもしれないが、中性ヨーロッパの女性たちがしていた極端に腰を締めつけるコルセットや、現代女性にとっての美容整形や豊胸手術と発想は似ているかもしれない。

そうした理屈よりも何よりも、ひたすら美しく愛らしく底の裏にまで意匠を凝らした数々の靴たちは、それらを一足一足丹誠こめてつくりあげた女性たち(靴はそれを履く女性や親族・友人によって手づくりされていた)が靴というファッションアイテムにこめた夢と希望と幸せへの祈りの深さ、篤さを能弁に語りかけてくる。
異文化の人間からみれば非人道的にみえる習慣であっても、それを何世紀も守ってきた当事者にもそれなりの道理とプライドがあるし、守られてきたからにはそれ相応の理由がある。纏足は時代の流れによって廃れる運命にはあったけれども、だからといって纏足をしていた女性たちを単純に卑下するのはフェアとはいえない。
纏足の時代にはその時代なりの幸せのかたちがあって、それは現代の幸せと簡単にひき比べられるほど世の中シンプルではないのだ。

纏足靴の写真はどれも綺麗だし、旧社会中国の一般的な家庭生活とその制度について知るにはいい本だと思います。オススメです。
それにしても纏足靴ってカワイイなあ。台湾にはコレを数千足コレクションしている方がおられるそうですが、いつか日本でも展覧会やってほしいです。