落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

聖書とミシン

2013年08月14日 | movie
『少年H』

1941年、神戸で仕立て屋を営む妹尾家では、アメリカに帰国する宣教師から譲られた洋食器で食事をする習慣が始まる。向かいのうどん屋の兄ちゃん(小栗旬)が共産主義者の容疑で逮捕され、出征したはずの男ねえちゃん(早乙女太一)は自殺。幼い肇(吉岡竜輝)もクリスチャンだというだけで学校でいじめに遭い、遠い外国で起きている戦争が一家の生活に暗い影を落とし始めるのだが、仕事柄さまざまな在日外国人とふれあう父(水谷豊)は「戦争はいつか終わる。戦争が終わったとき、恥ずかしい人間になっとったら、あかんよ」と息子を諭すのだった。
妹尾河童の自伝的小説の映画化。

この原作は確か10年以上前に一度ドラマ化されていて、その当時は男ねえちゃんを演じた窪塚洋介がとにかくものすごいインパクトだったことしか覚えてないんですけども。あとになって観たいなーと思ったんだけど、このドラマ版はソフト化されてないんだよね。なんか大人の事情があるみたいで。窪塚洋介すごかったんだけど。ぐりの中の窪塚洋介伝説。誰か覚えてる人いないかな。
閑話休題。
原作の方は読んでないし、妹尾氏に関しても高校生くらいの頃に何冊か著書を読んだきりなので何も知らないし、物語に関しては何の思い入れもないんだけど。じゃあなんでわざわざ観に行ったかっつーとロケ地ね(ここ)。
ここは明治末期に建てられた日本毛織加古川工場の社宅で、建てられて100年ほど経ったいまもほぼそのまま社宅として利用されている。当時としてはかなり立派な、しっかりした建物ばかり、それも店舗や史跡でもない一般の民家ばかりの住宅街が何ブロックもそっくり残った風景はまるでタイムスリップでもしたみたいな雰囲気で、いま思えば、日清/日露戦争と大陸への侵略が始まろうとしていた軍国主義下で、防寒に優れたウールの軍服を大量生産する目的で毛織工場も軍需産業化し始めたがために、これほどまでに充実した社宅が建設されたのではないかと思う。実は工場そのものも総煉瓦造りの非常に壮麗な建物ばかりだったのだが、老朽化のために徐々に取り壊され、いまはごく一部しか残っていない。この社宅も含めて観光地化や文化財としての保存を求める声は大きいのだが企業側にはその意志はなく、このままいけば早晩この貴重な風景は姿を消す運命にある。
ぐりの母校はこの社宅の隣にあって、ぐり自身3年間この社宅の中を通って通学していた。その当時はこの社宅の存在を知る人はほとんどなく、いまのように映像作品のロケ地に利用され始めたのはインターネットが普及し、建物マニアたちの探訪記でしばしば取り上げられるようになってからではないだろうか。
『少年H』では一家の教会通いのシーンに登場するこの街の価値がもっとひろく知られるようになって、できることなら、ちゃんとここの存在意義をもっと大切に考えてもらえるようになればいいと思う。何しろこんな場所、ほかにそうそうないんだから。

映画自体は正直にいってとくに印象的な作品ではない。
キャストは豪華だし、お金もかかってるし、すごく誠実にしっかりとつくられた立派な映画だとは思うけど、大変申し訳ないが、来月あたりにこの映画のことを思い出してくれといわれたらたぶん無理だと思う。決して悪い映画じゃない。でも、結局何がいいたかったのかというメッセージ性とそのロジックのどこにも、ぐりはオリジナリティを感じることはできなかった。
とくにがっかりしてしまったのは、終戦後、食料を隣人たちに分けようとする母(伊藤蘭)にHが激しく反抗するシーン。熱心なクリスチャンという設定の彼女だが、このシーンを含め、その信仰がただ盲信的なだけでしっかりとした精神的な根拠が具体的に描写される場面がまったくない。とくに説明は必要ないかもしれないけど、せめて最後には、女性として人間として、もっと毅然とした態度で長男を納得させてほしかった。そういうのを邦画に求める方が間違ってるのかもしれませんけども。
ただ子役の演技は非常に素晴らしかった。大人の価値観に振り回されるH少年の怒り、悲しみ、孤独。彼だけでなく、妹・好子を演じた花田優里音や、H少年の級友たちの演技力にも感動しました。最近の子役はスゴイね。びっくりです。
おそらくはこの映画は、ぐりのようなすれた大人ではなく、彼・彼女たちのように素直な若い心をもった観客のためのものなのだろう。正義とは何か、自分にとってほんとうに大切なものを守り、追求していく生き方とは何か、たくさんのヒントを必要とする人たちにとっては、とてもストレートなメッセージ性のある映画だと思います。是非ご家族で観るといいんじゃないでしょうか。

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空を駆けて

2013年08月14日 | movie
『風立ちぬ』

幼い頃から大空に憧れ、飛行機設計技師を目指す東大生の二郎(庵野秀明)は、列車の中で関東大震災に遭遇、乗り合わせた菜穂子(瀧本美織)を混乱の中で上野の自宅まで送り届けた数年後、三菱重工で戦闘機をつくるようになってから避暑地で偶然再会。たちまち恋に堕ちる若いふたりだったが、菜穂子は重い結核にかかっていた。会社からも軍からも飛行機の完成をせき立てられる二郎と彼女に残された時間は少なく・・・。
日本が世界に誇る零戦を生んだ実在の航空設計技師の生涯をもとにしたフィクション。

ひとことでまとめるのがものすごい難しい映画ではあるんだけど、あえてまとめると究極のオタク映画。由緒正しくしっかりとあるべきオタクの姿をオタクらしく、オタクの道をもって描いた、ワン・アンド・オンリーなオタク映画だと思う。ブラボー。
このごろはこんな報道(「風立ちぬ」に苦言 喫煙場面多いと禁煙学会 )があったり、あんな報道(ジブリ「風立ちぬ」韓国公開が危機 ゼロ戦題材に「右翼映画」批判止まず)もあったりするけど、とりあえずまずこの映画は右翼映画でも反戦映画でもないよね。だって当時世界最高の戦闘機をつくっときながら、二郎はまったく戦争にも社会にも関心がない。きれいさっぱり、そんなことどうだっていいと思ってるし、実際に台詞でもそう語っている。とにかく美しい飛行機がつくれさえすれば、そして愛する人と平穏に暮らせさえすれば、他のことは問題ではなかったのだろう。
この映画では、おそらく、戦争の是非や軍国主義や愛国主義の是非にはあえて意図的に触れていない。ここに描かれるあらゆる要素に対して、その是非を明示しない描写に徹してある。喫煙に関してもそうだし、当時の日本の貧しさに関しても、映画の世界観そのものに対して観客に判断を完全にまる投げするような表現をしている。そのために、あるべき説明すら極力排除されているように見える。

これまでどんなメッセージでも「アニメは子どものためのもの」と、とにかく子どもにわかりやすいように、なるべく平易に表現していたジブリ映画とはまさに逆方向の作品である。まあどっちが趣味かといわれれば、ぐりは正直こっちの、はっきりと大人向けにシフトした路線が好きですけど。何回も観て、いろいろ考えたいタイプの映画だ。たぶん観る人によってまったく感じ方は異なるだろうし、観るタイミングによっても違うと思う。
ぐりにとっては、この物語は自由と豊かさを描こうとした映画のように見えた。二郎が夢見る「美しい飛行機」は自由と豊かさの象徴だ。重力に縛られた大地を離れ、思いのままに大空を舞う飛行機。だが飛行機を開発するには莫大なカネがいる。政府も企業もそのためにあらゆる犠牲を払い、その犠牲の上に二郎の夢があり、二郎の夢の飛行機の行く先は戦争だった。もっともっと莫大なカネと市民社会の犠牲を要求される戦争のために、二郎の夢は成就する。
歴史に「もし」はない。戦争がなくても二郎がこれほど偉大な航空設計技師になれたかどうかなんて誰にもわからない。だが少なくとも彼は、あらゆるモラルやルールから解き放たれていたからこそ天才になれたのではないかと思う。その彼の心の自由と、すべてが飛行機をつくることだけに集約された限定された魂の豊かさがこの映画のテーマなんじゃないかとぐりは思ったし、それこそオタクの最終形じゃないかと思う。オタク、ブラボー。

まあだから、いってみれば喫煙シーンやら戦争美化やらなんという外野の批判は、もしかしたら確信犯なんじゃないかとも思う。いいんじゃないの、なにやったって絶対にヒットする宮崎駿アニメなんだから、どんどん問題提起の方に頑張ってくれた方がむしろ清々しい。
宮崎さんはもう72歳、いつ引退されるか、どの作品が遺作となるか、おそらくは自分でも毎回覚悟しながらとりくんでいるのではないかとぐりは勝手に推察してしまうのだが、ここまで従来の路線から別方向にふりきられてしまうと、他にもこれまでにやってなかったジャンルももっと見せてくれるんじゃないかと、却って今後に期待が高まってしまう。
全編の半分近くが主人公の夢や妄想のシーンで埋められていて、これらが非常に幻想的で美しかった。二郎は近眼で飛行機を操縦することはできないので、画面に登場する飛行シーンは1シーンを除いてほぼすべて夢や妄想ばかりだが、1フレームごとに画面が呼吸しているかのように常に風が吹いている躍動的な映像美がとくにみずみずしい。これぞ飛行機オタクの真骨頂です。
考えてみれば主人公・二郎を演じた庵野秀明もオタクだもんね。彼の場合は飛行機じゃなくて電車だけど。映画を観ていて、昔、彼が電車について熱く語っていたときの語り口調を思い出しました。熱いんだけど穏やかで、静かで、あくまで淡々とした独特のオタク口調。懐かしかったです。どことなく浮世離れした宗教家みたいな雰囲気が二郎のキャラクターととてもあっている。
あと、ジブリ映画でラブシーンって珍しいよね。ラブシーンってほど大したもんではありませんが、そこも新鮮でした。オタク映画でありつつ悲恋映画の王道ってとこがまた憎いじゃないですか。
なんだかんだいったってたかが映画です。何が正しくて何が間違ってるかなんて、どーだっていいんだよ。そういう枝葉末子でいちいち騒ぐことの方が、なんか頭悪そうな気がしちゃうんですけどね。

樽の中からさようなら

2013年08月13日 | movie
『天使の分け前』
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暴力事件で有罪判決を受け、社会奉仕活動を課せられたロビー(ポール・ブラニガン)。
じきに生まれてくる子のために今度こそ更正しようと努める彼だったが、周囲の環境がなかなかそれを許さない。あるとき、民生委員のハリー(ジョン・ヘンショウ)にウィスキー蒸留所の見学に連れて行ってもらったのを機にテイスティングの才能に目覚め・・・。
イギリスの国民的映画監督ケン・ローチによるハートフル・コメディー。

教育の機会もなく生育環境にも恵まれず、大人になっても仕事もない不況の街で苦しむ若者たちの物語、というとどうしても重くて暗い話を想像してしまうのですが。
この映画は違います。あくまでファンタジー。あくまでフィクション。
「天使の分け前=the angels' share」とは樽から蒸発して失われる毎年2%のウィスキーのことをさす言葉なんだけど、そもそも犯罪を犯した若者が、人生リセットするために盗みをするなんて設定自体が既に突っ込みどころ満載です。
でもたぶん、これはやたらに加熱するヴィンテージ・ウィスキー信仰への皮肉もこめられてるんだろうね。未来を担う若者には仕事もなくじゅうぶんな行政支援もないのに、たかが酒に日本円でウン千万が飛び交うなんて、やっぱなんかちょっとおかしい。現に類いまれな才能を得たロビーは、ウィスキーの質は完全に理解できても、自分ではそれをおいしいとも思わず、価値も感じていない。彼にとってそれは単なるカネでしかない。カネさえありゃなんでも解決するってもんでもないんですけど。決して。

逆説的には、社会の底辺から逃れてやりなおすことの難しさ、その非現実性を表現するには非常にうまいアプローチでもあると思う。
人は彼らに、まじめに働けばいいことがある、昔の仲間とは関わるな、自立すれば必ずやりなおせるなどと簡単にいうけれど、それは決して事実ではない。どんなにまじめに働いていても不測の事態は起こるし、故郷に留まっている限りは地域内の確執からは逃れようがない。自立なんか誰にだってできることじゃない。人間は誰もがどこかで支えあっている。家庭にも頼れず、ろくな友人もいない、病気や事故などのアクシデントのときに気兼ねなく助けてくれる受け皿もない、孤独な若い人にとって、それはまじめに努力さえすればなんとかなるなどという生易しいものではない。
いやなるよ、オレはどうにかしてきたよ、という人はたくさんいるだろう。でもそれは、どこかで支えてくれた人がいたのを気づかなかったか、いまはその存在を忘れているだけなのだ。どうにか自立できた人は、それだけの環境に恵まれた幸運なだけの人だ。
ひとりでなんだってやって成功できるほど、人間は完璧じゃない。そういう思い上がりを傲慢とか独りよがりというのではないだろうか。

ロビーは最後には幸運をつかむけれど、彼と、彼の新しい家族の幸せを心から願う。
子どもの誕生で自らの罪の重さを知ったロビー。そのときの気持ちを、一生忘れないでいてもらいたいと思う。
それ以上に、社会から見捨てられ、置き去りにされている多くの人に、もっとたくさんの人の目が向けられることを願う。

それにしてもウィスキーにン千万ってやっぱヘンだよね・・・ぐりはウィスキーほとんど飲まないので、マジ意味不明でした・・・ごめん。

いいな。いいな。いいな。

2013年08月13日 | movie
『舟を編む』
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玄武書房で「大渡海」という辞書をつくることになり、新しく編集部員に抜擢された馬締(松田龍平)。
大学院で言語学を学んだものの、他人とのコミュニケーションが苦手で、無口で無表情で変わり者の彼だったが、10年以上の歳月をかけて辞書をつくりあげていく仕事に使命を見いだし、そんな彼に触発されるように営業の西岡(オダギリジョー)も辞書づくりにのめりこんでいく。
2012年本屋大賞に選ばれた三浦しをんの同名小説の映画化。

すばらしい。本好きにとって究極の癒し映画。
小さいころ、いったん本を読み始めたらそれこそ寝食も何もかも忘れて没頭してしまうくらいの活字中毒だったぐり。ふだんは愛想のない無口な子どもなのに、本のこととなるといくらでも話せる一方で、テレビも見ず、ゲームもなかったせいで周りの子どもたちとは共通の話題がなくて、どこにいっても変わり者扱いだったぐり。大きくなったら出版社で働いて、ゆくゆくは物書きになって、言葉を道具に仕事をするのが夢だったぐり。
主人公の馬締くんは見るからにオタクでぶっちゃけちょっとキモイけど、正直、ぐりから見ると完全に同類だし、何年もかけて言葉を集めて磨いていくという天職にめぐりあった彼が、鉄仮面なのになぜか心底幸せそうで、ものすごく羨ましかった。観てる間中、心の中でずっと「いいなあ」「いいなあ」連呼しまくってました。
仕事だけじゃない。彼の住んでる下宿もいい。すっごいレトロな、昭和っぽい日本家屋で、本がやたらめったらいっぱいあって、お月様が見える物干し台があって、猫がいる下宿。大家さん(渡辺美佐子)に孫のように可愛がられてるだけじゃなく、綺麗なリアル孫娘(宮崎あおい)までいる。しかも彼女の職業が板前ときた。完璧である。

しかし何が幸せってやっぱり職場の人全員が、辞書をつくるという仕事を愛し、静かに情熱をあたためあい、長い年月をかけて丁寧にしっかりとプロセスを積み上げていくことだけに必死に努力する、その団結がいちばん幸せにもみえる。
もちろん辞書づくりにも障害はある。時間ばっかりかかって儲からないなんて批判にもさらされる。それでも、いっしょに困難を乗り越えようという仲間がいて、互いに信頼しあい支えあえるというのはやはり幸せだと思う。
そういう幸せな物語を、これだけの豪華キャストと一流のスタッフで、美術にも音響設計にもどのディテールにもまったくの妥協もなく、ワンカットワンカット隅から隅まで緻密に繊細に、まさしくどこまでも日本映画らしく仕上げてある。ここまでくれば職人芸、最高級の伝統工芸品のような映画でもある。
そりゃ観てて幸せにもなります。公開時に観れなかったけど、今回やっと観れてほんとうによかった。

キャストは本当にどの役もハマり役で、どの人がとくに際立ってもいない。そんなところにまで完全な調和がとれてる映画ってなかなかない。
強いて惜しいところを挙げれば、ヒロインは宮崎あおいじゃなくてもよかった気がする。設定では美人だということになってたけど、彼女はいわゆる美人ではないし、一番のチャームポイントである笑顔がないのが非常にもったいなかった。それなら笑顔でなくてもきりっと美人な、黒木メイサとか香椎由宇なんかの方がしっくりくる。
映画を観ていてふと気づいたのだが、ぐりの記憶が正しければ、主役の松田龍平と宮崎あおいは確か2000年のカンヌ国際映画祭に別々の作品で参加していたはずだと思う。龍平くんはデビュー作の『御法度』で、あおいちゃんは国際批評家連名賞を受賞した『EUREKA』に出ていた。あのころはまだ十代で存在感と透明感だけが取り柄で、芝居も技術もへったくれもなかったふたりがもうカップル役で、ここまで完成度の高い作品で共演してると思うとなんだか感慨深いを通り越してムチャクチャなキモチになってくる。

観ていてとにかく幸せで、ずっと観ていたくて、終わってほしくないなんて思う映画はなかなかない。
またどこかで、馬締くんたちに会いたい。できたら、辞書編集部にまぜてほしい。ああいうちまちました地道な作業、大好きだから。
次回の改訂版がでるときはスタッフに応募しちゃいたいくらい。
いいな。いいな。いいな。

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ペンキの中身は誰のもの

2013年08月10日 | movie
『バウンド』
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アパートの改装工事の仕事先で、マフィアの恋人ヴァイオレット(ジェニファー・ティリー)に出会ったコーキー(ジーナ・ガーション)。
ふたりは一目で惹かれあい、ヴァイオレットは自由のない生活から逃れるために、恋人のシーザー(ジョー・バントリアーノ)が保管している組織の大金を横取りする計画をコーキーに持ちかける。
『マトリックス』シリーズで知られるウォシャウスキー兄弟の監督デビュー作。

最近あまり行かなくなったけど、少し前まで毎年東京近郊の映画祭にしらみつぶしに通っていたときがある。
映画祭で上映される映画は商業作品であると同時に芸術作品でもあり、社会的なメッセージ性が強かったり、ふつうに劇場公開される映画に比べて世界観が幅広い。映画祭にあわせて世界中の映画人が集まり、ふつうではちょっと聞けない話を聞くこともできる。
誰だったかちょっと失念してしまったけど、映画は世界中の価値観に触れる旅だといった人がいた。今までを振り返ってみれば、確かに人生で大切なことはみんな、世界の映画から教わった気がする。

そういう映画祭の中でもいちばん古くから通ったのが東京国際レズビアン&ゲイ映画祭。初めて行ったのはちょうど20年前だったと思う。
ぐりの記憶が正しければアジア圏で最大の同性愛映画に特化した映画祭で、ドキュメンタリーからクラシック映画からエンターテインメント作品までさまざまなジャンルの映画が観られる。ここ数年は行ってないけど、何年経っても忘れられない傑作に何本も出会ったし、大袈裟でなく、一生を左右するような運命に巡りあったのもこの映画祭だった。
大好きな映画祭ではあるけど、行くたびちょっと残念なことがあった。出品作品がゲイ映画に偏りがちで、しかもレズビアン映画の方のクオリティがどうしても見劣りしてしまうこと。
この映画祭に限らず、おそらく映画全体の中でもレズビアン映画というジャンルにカテゴライズされる作品は、ゲイ映画に比較してもかなり少ないと思う。どうしてなのかはよくわからない。いろいろな人に聞いてみたけど、同性愛者人口においてもゲイよりもレズビアンが遥かに少ないからじゃないかとか、映像制作者にレズビアンよりゲイの方が多いからじゃないかとか、いまひとつ直接的な理由は聞けなかった。

そういうなかでこのレズビアン映画はおもしろいよ、と必ず勧められるのが『バウンド』。
やっと観てみたけど、うん、おもしろかった。普通に。
1996年の作品だけどいま観ても古さは感じないし、全編ほぼアパートの隣り合った二部屋だけで展開するサスペンスという設定もオシャレだ。登場人物も限られているし、映画というより舞台劇にすごく近いです。音楽もやたらに大袈裟だし、登場人物の芝居もものすごくわざとらしくて、そういうところも戯曲調。
ストーリーだけをみればたわいもない話で、女ふたりが女を武器にしてマフィアを相手に茶番を演じてカネを騙しとろうと企む、たったそれだけの物語だ。それを、弱い立場の者が頭脳で強い者を欺くという側面を強調して、観ている者にカタルシスを与える効果を前面に出してある。ハリウッド映画らしいエンターテインメント作品だ。

考えてみれば、昔はなんでウォシャウスキー兄弟がレズビアン映画を?と思ったけど、その後に兄のラリーはトランスジェンダーをカミングアウトして、今はラナと名乗っている。
ウォシャウスキー兄弟といえばどうしてもアクションやスペクタクル映像ばかりがウリの、罪のない娯楽映画ばっかりというイメージがあるけど、是非とも誰をもうならせる性的少数者映画─ゲイもレズビアンもトランスジェンダーも含めた─の傑作で、世界をアッといわせてほしいもんですな。

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