落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

セレブはつらいよ

2005年12月24日 | book
『近衞家の太平洋戦争』近衞忠大・NHK「真珠湾への道」取材班著
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近衞家とは中臣鎌足を祖とする公家の名門藤原家が鎌倉時代に分家した五摂家の筆頭で元公爵家。その名の通り代々天皇家の傍近くに仕えた家柄で、著者のひとり忠大氏はその次代当主にあたる。
世間的には近衞家の直系は絶えたと思っている人も多いそうだが、これは終戦直後に当主であり元首相の近衞文磨氏が自殺し、その長男文隆氏も嫡子をもうけないままシベリア抑留中に亡くなっているからである。忠大氏は旧熊本藩主細川家生まれでその後近衞家の養子となった忠煇氏(文隆氏の甥、細川護煕元首相の実弟)の長男。おかあさんは三笠宮崇仁親王殿下のご息女・甯子さん(つまり今上天皇の従妹)。
すなわち忠大氏はお殿さまとお公家さんと宮さまを祖父母にもつスーパーセレブというわけだ。今年ご結婚された紀宮清子さまのお婿さん候補として、数年前に週刊誌などに名前が挙がったこともあるらしい。本当に候補だったかどうかはわからないけれど、皇居などで催される天皇家ゆかりの私的な行事にはときどき参加していたらしいので、宮さまたちとも普通に親戚づきあいがあったことは事実だ。
実はぐりはこの忠大氏と一面識がある。というかあった。まあかなり前のことだが、ぐりの記憶にある忠大氏は、帰国子女らしいおおらかさと良家のおぼっちゃんらしい鷹揚さをもつ、穏やかで爽やかでかつどこか生真面目な人だった。容貌は本書でも述べられている通り、元首相である曾祖父・文磨氏に気味が悪いくらいよく似ている。ひょろっとした長身に長い手足、顎のほっそりとした面長な輪郭に東洋人にしては濃い目鼻だち。細川護煕氏が首相になったときも祖父・文磨氏と面影が似ていることが話題になったが、忠大氏はそれ以上である。ただ、写真で見る文磨氏がいつも屈折したような頑迷そうな表情であるのに対して、忠大氏は大抵はにこにことおっとりした表情だったような印象がある。

この本はその忠大氏が第二次世界大戦で喪った曾祖父・文磨氏と祖父・文隆氏の足跡を辿ったTV番組「真珠湾への道 1931〜1941─ふたりの旅人がたどる激動の10年─」(NHKハイビジョン)の取材過程をふりかえった手記である。
忠大氏にとってふたりは肉親だが、1970年生まれの彼は勿論双方に面識はないし、幼いころから海外で暮していたので自らの出自や家柄についても大人になるまでよくは知らなかったらしい。ぐりの知る忠大氏もいわゆる「旧華族の御曹子」などというような気取ったタイプではなくごくごく普通の明るい青年だったし、そういう意味では今の一般的な「戦争を知らない世代のそのまた子ども世代」の代表のひとりともいえる。
だが当主をふたりまでも戦争で亡くしたという傷ははっきりと近衞家に暗い影を落としたし、しかも文磨氏は戦犯容疑者でもあった。文隆氏はその長男であったことが原因で命を落とすことになった。近衞家の人々がこれまで戦争について触れるのをひたすら避けてきた気持ちはとてもよくわかるし、だがこの先永久にその傷を無視し続けるわけにもいかずいわば義務のように番組に出演した忠大氏の責任意識もよくわかる。

本文は二層構成になっていて、忠大氏が家族として文磨氏・文隆氏について語ったエッセイ部分と、取材班が第二次大戦の背景と両氏との関わりを歴史的に解説したルポルタージュの部分とが時系列に沿って交互に配置されている。結果的にこの構成がこの本をバランス良く読みやすくしている。
ぐりはあまりこの手の戦争ルポを読まない方なので他の本がどう書かれているかはわからないが、戦争の当事者の肉親という内側からの人間的な側面と、あくまで歴史的人物としての客観的な側面から戦争をふりかえることで、戦争のスケール感(比喩的な意味の「スケール」ではなくて「縮尺」の意)が感覚的にわかりやすくなっている。
忠大氏は肉親である文磨氏の戦争責任についてはほとんど直接的な意識を言葉にはしていない。してはいないが、日中戦争開戦当時の首相だったというだけで文磨氏を戦犯よばわりしたり、あるいは戦争を回避しきれなかったことで無能で優柔不断な政治家ときめつけられることにはやはり強い抵抗があるようだ。
確かに文磨氏は開戦前にはそれを避けるために必死に努力をし、開戦後は早期終結のために奔走した。しかしそれ以前に多くの失敗もした。就任当時弱冠44歳という若さに加え、既に軍国主義一色に染まった国民の人気とりのために軍部に担ぎだされた彼に、可能な以上の成果を求めるのは酷かもしれない。その失敗を誰よりも悔いていたのは本人だろう。あくまでも戦争には反対した文磨氏だったが、政府が軍をコントロール出来ない(当時の日本軍の総司令官は天皇)という体制に阻まれ、結果的には戦争を止めることもやめさせることも出来なかった。裁判にかけられれば立場上天皇の戦争責任に言及せざるを得ない。それをいわずに通すために、彼は自殺したのだ。
決死の努力がすべて無為に帰してしまったばかりか、退陣後は親米派・敗戦論者と目されてさんざんな迫害も受けたという。決して免罪することも同情することも出来ないが、かわいそうな人だと思う。訃報を耳にした昭和天皇は何を思ったろう。
しかしもっと哀れなのは文隆氏の方だ。両親を「御孟様」「おたあ様」と呼ぶ公家の跡取りとはいえ、いわゆる貴公子なんかではない、聡明ではあっても勉強は苦手で、食いしん坊でスポーツと夜遊びが好きな暢気な若者に過ぎなかったはずの彼は、単に首相の息子でほんの数ヶ月父の秘書(といってもカバン持ち)を勤めたことがあったというだけで11年もの長い抑留生活を強いられた挙げ句に亡くなった。終戦前年に結婚した奥さんとはたった10ヶ月の結婚生活だったという。気の毒だと思う。
戦後、奥さんは11年夫の帰りをひとり日本で待ち続け、死後も文隆氏の弟・通隆氏に気をつかって10年間養子をとらなかった。文隆氏の妹・温子さんの忘れ形見である忠煇氏が細川家から養子にはいったのは1965年のこと。通隆氏はそれまで結婚もしなかった。残された近衞家の人々の痛手がどれほどのものであったかがしのばれる。

それとともに、戦争とは「誰かの責任」などという単純にまとめられるような要因によって起きるものではなく、時代の大きな流れのなかで起こるもので、政治家や外交官などという個人がとめられる種類のものではないのだという恐ろしいものも感じた。
時代の流れとはつまり、国民の「気分」によって流れている。「戦争するしかない」という気分そのものの責任は、誰あろう国民にあるのであって、戦争を避けるべき責任も国民にあるのだ。これはなにも第二次大戦に限ったことではない。いつのどの時代のどこの国の戦争だってそうだ。
ほんとうは戦争なんかしなくたっていい。したい人なんか誰もいない。でも人は戦争をする。本当は避けられる戦争を、どうして人はやめないのだろう。
近衞文磨という不完全な一政治家とその不肖の息子の立場からふりかえることで、日本の真実の戦争責任のありかをはっきりと感じさせる本だった。
それとはべつに、軍国主義が激しく吹き荒れる日本で「恐れるべきは戦争」「この戦争(大平洋戦争)は必ず負ける」と公言した文磨氏や、夫の自殺を予見しながら本人の意志を尊重してとめることをしなかった千代子夫人(旧佐伯藩主毛利家出身)、たった10ヶ月連れ添った夫のために一生を‘近衞家当主の嫁’として生きている文隆氏夫人・正子さん(昭和天皇の従妹)など、戦争の時代に生きた日本人の人生観・世界観の特異さも強く印象に残った。
あと表題が『~太平洋戦争』となっているが、日中戦争が勃発した経緯もある程度わかりやすい解説がされてました(無論完全ではないが)。ココをみにこられるアジア映画ファンの方にとってもなかなかよい資料になるのでは。

文磨氏の方は「悲劇の首相」としてもともと有名だが、文隆氏の方は最近になって彼を題材にした本『夢顔さんによろしく』『プリンス近衞殺人事件』と、『夢顔〜』を下敷きにしたミュージカル『異国の丘』が世に出たことでひろく知られるようになったという。本の方はまた機会があったら読んでみたい。
TV番組「真珠湾への道」の方も見てみたかったのだが、ハイビジョン放送だったので見られなかった。いつか地上波で再放送してほしいけど、4時間もあるらしい。4時間ですかい・・・。

ホテルヴェルサイユの羅生門

2005年12月23日 | movie
『秘密のかけら』
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面白かったですうー!
でもアトム・エゴヤンの映画っていっつも、「これはこういう映画で、感想はこれこれ」と簡単にまとめられなくて困る。テーマも複雑だし、構成も複雑だからだ。時制が何度も前後するのは常套手段、エピソードのひとつひとつが互いに入れ子になっていたり、登場人物も多重人格者のように多面的に描かれる。
毎回なにより圧巻なのはラストシーンだ。エゴヤンの作品は多くが一種の謎解き、サスペンスなのだが、結果として導きだされた回答はいつも観客が期待していたような結末とはまったく違った種類のもので、しかもそれが一概に不可解ともいえないような終わり方をする。
こういうのは途中までエンターテインメントに見せかけた文芸映画、とでもいえばいいのだろうか?

『秘密のかけら』はまさにアメリカ版「羅生門」ともいえる物語だ。
ぐりが芥川龍之介の『藪の中』(「羅生門」は黒澤明による映画タイトル)を読んだのは20年くらい前のことなので記憶は甚だ曖昧だし、細部に至ってはまったく覚えてはいない。しかし舞台も時代背景も違うとはいえ、ある事件が起こり、それに関係した人物がそれぞれに秘密を守ろうとして互いを欺いたり陥れたりするというモチーフは『羅生門』によく似ている。
ストーリーそのものは大して珍しい話でもない。50年代に絶大な人気を誇ったボードビリアンのコンビ─ラニー(ケヴィン・ベーコン)とヴィンス(コリン・ファース)─があるスキャンダルに巻きこまれて解散する。15年後、彼らに特別な思いを抱く若い女性がジャーナリストとして近づいてくるのをきっかけに、当時の関係者が闇から闇へ葬り去ったはずの残酷な傷痕が、ずるずると白日の下へ引きずり出されていく。
まとめてしまえばたったこれだけの話だ。だが映画のストーリーはダイナミックかつ繊細なタッチで右へ左へ過去へ現在へと観客を縦横無尽にふりまわす。ここでは過去とは事件当時の50年代─アメリカの絶好調時代─、現在とはジャーナリスト・カレン(アリソン・ローマン)がラニー&ヴィンスの前に現れる1972年であり、舞台は事件の被害者モーリーン(レイチェル・ブランチャード)とラニー&ヴィンスが出会ったマイアミであったり、事件が発覚したニュージャージーだったり、NYだったりハリウッドだったりする。
そうしてふりまわされていくうち、観客はこのスキャンダルの真相よりももっと奥深い‘謎’が、登場人物たちの素顔に潜んでいることをうっすらと感じ始めるのだ。

ぐりの中ではその謎とは、「人はなぜ秘密を喋りたがるのか?」「人はどうしていちばん大事なものを自ら壊したがるのか?」というふたつになる。
この映画の登場人物はみな、秘密を隠そう隠そうとしながらなぜか逆の行動をしてしまう。そしてそれと同じように、長い間大切に守って来たはずのものを自分の手で台無しにしてしまう。
理屈の上では説明のつかないこのふたつの謎だが、気分としてはわからなくはない。秘密は人間という矮小な生き物が守り抜くには重すぎる場合があるし、宝物もまた同じだ。人はいつも、自分の置かれた現実から逃げたいと無意識に夢想する。
その行為は傍目には破滅的/自虐的にみえるかもしれないけど、誰だって「ああこれを放り出せば楽になれるのに」とふと思わずにはいられない重荷のひとつやふたつ、後生大事に抱えていたりするものだ。
そうではありませんか?
またこの映画では、人は幸運なときほどその「運」に気づかず、世の中何でも思い通りになるものだと勘違いしやすいという面も繰り返し描かれている。

あとカンヌ映画祭時なんかでちょっと話題になったセックス描写ですが、正直大したことなかったです(爆)。韓国映画なんかに比べればぜーんぜんあっさりしたもんです(滝汗)。フツーよフツー。
それにしてもアリソン・ローマンってめちゃめちゃ普通の女の子だよね?美人ではないよね?なんでこんなに人気あるのかな?わからない。まあでもこの役にはその普通具合がすごくあってました。ハイ。
ゴージャスできらびやかな50年代と、ミッドセンチュリーモダン全盛期の70年代の情景描写が印象的な、大人のオシャレを感じる映画でもありました。音楽がまたよかったです。サントラあったらほしいなあ。

間違い探し

2005年12月17日 | book
『芸妓峰子の花いくさ』岩崎峰子著
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ぐりはよく知らなかったんだけど、映画『SAYURI』の原作小説『Memoirs of a Geisha』(邦題:さゆり)には元になった自伝があるらしい。
その本のタイトルは『Geisha of Gion』(ソースによって『Geisha, a Life』となってたりするんですがどっちでしょー)、著者は祇園の元名妓で岩崎峰子氏という。
彼女の自伝を下敷きに描かれたのが『Memoirs of a Geisha』なのだが、著者のアーサー・ゴールデンは取材先の岩崎氏との契約に違反していたために裁判沙汰になってしまった。それはそうだ。国賓をももてなすほど格式高い祇園に出入りする顧客たちのプライバシーが、海外の小説とはいえひろく世界中で読まれる娯楽文学で暴かれてしまったのだ。岩崎氏の訴えは至極尤もというところだろう。
この裁判は2003年に示談というかたちで決着したが、岩崎氏の受けた屈辱はいかばかりであったろう。この結末も、おそらくはことを荒立ててこれ以上傷つく人を増やしたくないという職業的な配慮から導かれたものだったのではないだろうか。

彼女はこの自伝の他にも何冊か本を書いていて、公演活動なども行っているそーです。今回読んだのもそのうちの一冊。
ぐりは映画も観たし小説も読んだし、それが事実とどう違っているとかそういうことには全然興味はないけど、小説や映画はフィクションだとして、じゃあ事実はどうだったのか?ってとこは当然気になります。
大体ぐりが花柳界について知ってたことといえば、
*帯を前で結んでるのが花魁さん(いわゆる高位の遊女・女郎)、後ろで結んでるのが芸者さん(関西では芸妓)
*花魁さんは遊廓の所属で、芸者さんは置屋の所属
*芸妓さんの見習いは舞妓さん、芸者さんの見習いは半玉もしくはお酌ちゃん
*各地の花街にはお茶屋からのオーダーを仕切っている検番というものがあり、芸者さんや幇間はみんなここに登録している
*基本的に花魁さんは遊びにくるお客さんを待っていて、自分からは出かけない
*芸者さんはよばれた宴席=お茶屋・料亭に自分から出かける
*花魁さんは踊らないけど芸者さんは歌ったり踊ったりするプロ
*芸者さんは基本的にパトロン以外のお客さんとは同衾しない
*花魁さんはパトロンがつけばお仕事しないが、芸者さんはパトロンがついてもお仕事してもよい
*地域によって花柳界のしきたりやなりたちが全然ちがうために、よけいに芸者と花魁が混同されやすい
*衣装やさし物(髪飾り)が財産
てなことくらいでした。

まぁこの本を読んでも正直「祇園ってなに?」ってとこまではやっぱりよくわからないです。複雑だし、ちいさいころから置屋のおかあさんに見込まれて跡取りとして大事に育てられた峰子氏の境遇は‘一般的な芸妓’のそれとは似てはいても同じとはいえなかったろうし、多くの有力者たちのプライバシーを知る彼女には本に書けないこともたくさんあっただろう。
それでも、祇園という伝統文化が多くの人の誤解を受けたまま人知れず廃れていくのは忍びないという、彼女の祇園に対する愛情と情熱はとてもよくわかります。とにかくやさしい本なので。
今も昔も宴席に侍る女性に対する世間の目は厳しいもので、花魁さんと芸者さんを混同した捉え方はなにも今に始まったことではないらしい。それを当事者たちがいくら説明したところで、ややこしいしきたりや伝統的な概念を第三者に理解してもらうのは並み大抵のことではないだろう。
だが峰子氏は誰に対しても決して媚びへつらわないという敢然とした態度でもってそれを示そうとしている。そのまっすぐなところが読んでいて爽やかでした。

芸者は職業的芸術家でありまして娼婦などではない。女なら誰でもなれるというわけでもなく、選ばれた人間にしかその世界にはいるチャンスさえない、芸術的姫君なのだ。
富と名声の両者を得た人間だけにゆるされた夢の世界の生き物、芸妓。ミステリアスすぎて日本人にさえなかなか理解されない厳しい職業。
峰子氏の思いが熱いだけに、やっぱり、一生に一度でいいからお茶屋遊びがしてみたいなー、というキモチを強くするぐりでした。

んで、しきたりづくめの厳格なこの世界、なんかに似てるな・・・ふと思ったんだけど、アレですよ。宝塚ですよ。
現役の間は休むことの出来ない厳しい稽古、完全な年功序列、立方と地方にきっちり分かれる芸、男子禁制、タニマチに支えられた生活。
宝塚のあの異様な空気はどっから来たんか?とかねがね疑問だったけど、もしかしたら花柳界だったのかも〜。

そんなに女が悪いのか

2005年12月14日 | movie
『ブレイキング・ニュース』
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※あーちょっとネタバレっぽいけど伏字じゃないです。

おもしろかったよ。うん。でもなぁ。なんかイマイチ。これまでに観た杜[王其]峰(ジョニー・トー)作品と比べるとはっきりと精彩に欠ける。ストーリー展開にキレがない。緊迫感が足りない。なんでだろう。
まぁいつもと明らかに違う点はメインキャラクターのひとりが女性、ってとこですか。
杜[王其]峰だって毎度毎度オトコまみれのクライムアクションばっかし撮ってる訳じゃない。『イエスタデイ、ワンスモア』とか『ターンレフト ターンライト』とか『Needing You』といった女性メインの映画も撮っている(あんまし観てないけど>爆)。
でもなぜか作家・杜[王其]峰といえばそういう女子ども向けのソフト路線じゃなくて、ピッタピタにクールなオトコの世界!をスタイリッシュに撮る人、というイメージがある。現にそのふたつの路線は今では同じ監督作品とは思えないくらいくっきりと作風がわかれている。まるでジョニーA/ジョニーB、というべつべつの人がつくってるみたいだ。
この『ブレイキング〜』はどっちかといえばジョニーB─オトコ系─の方に属する作品だろう。それなのに主人公が女。ビックリするくらい眉毛ぶっとい陳慧琳(ケリー・チャン)。

じゃあケリーの何がいけないのか、っつーとそんなことはない。ぐり的には彼女が登場するずっと前、最初からちょっと怪しかったのだ。
例の評判のワンカット長回しの銃撃戦。せっかくものすごく複雑に設計したオープニングカットなのに、完成度がいまひとつ。カメラの動線がスッキリしないせいで緊張感が削がれてしまうし、構図が小さいのにカメラの動く範囲が広過ぎて臨場感も出しきれていない。ワンシーンワンカットが活かしきれていないのだ。同じ意味で、エレベーターの場面も効果的ではなかったように思う。
それとわざわざ警察×犯罪者×マスコミという三つ巴構造にしたにも関わらず、マスコミの影が異常に薄い。あれではただの舞台の書き割りにしかなっていない。警察内部や犯罪者を2層にわけるより、もっときっちりマスコミをストーリーに絡ませた方がおもしろくなったはずだ。警察内部の軋轢や大陸出身の犯罪者ってのももう使い古され過ぎて新鮮味がない。
そしてそれぞれの要素の入り方・配置があまりにあっさりというか予定調和的なのも物足りない。もうちょっと葛藤とか驚きがほしかったです。父親はいきなり子ども置いて逃げるし、人質はいつの間にか増えてるし、なーんか全体的にしまりがないような感じもする。ゆるい。どことなく『踊る大捜査線』っぽい。

そこへもってきて食えない警察官僚(ケリー)=ヒロイン≒真矢みきの登場である。
杜[王其]峰作品に限らず、香港映画の犯罪モノに出てくる男はみんな哀れなほど純粋だ。純粋なゆえに罪を犯したり、命を落としたりする。そういう男の愚かさを題材にした映画が実に多い。この映画でもそうだ。
ユアン(任賢齊リッチー・レン)は平気で警官を殺せるクセに、人質にむやみに暴力をふるうのを極端に嫌う。チョン(張家輝ニック・チョン)はどれだけ上層部に撤退を命令されても犯人逮捕のためにひたすら前進する(青島刑事だ)。アホです。アホだからこそヒロイックなのだ。
それはそれでいいんだけど、そういうピュアネスと対極にあるもの─うまい表現がみつからないんだけど─を女性=ケリーに転嫁しすぎなんではないだろうか。転嫁してそれでストーリーやテーマが消化できりゃいいけど、結果的にはできていない。

それでも途中まではなかなかおもしろかったのだ。
だが犯罪者(リッチー)と警察(ケリー)が直接対決に至った時点で、それまでどうにか均衡を保っていた世界観が破綻してしまう。警察官が女性であるがゆえに、ケリーが単独で状況を覆すというフェアネスが成立しなくなるからだ。そこでストーリーの緊迫感が決定的に失われてしまう。もうあとは完全に先が読めてくる。
もしかすると杜[王其]峰は純粋さを否定する力を男性キャラクターに託すのには抵抗があったのかもしれない。けどだからといってそれを安易に女性キャラクターに負わせるのは危険だし、そうする必要もなかったんではないかと思う。むしろこういうイヤな役は男がやった方がおもしろくなったのではないか。
ケリーにとってはおいしい作品だったろう。しかし杜[王其]峰にとっては勉強になった作品ではないだろうか。

勝ち組は誰

2005年12月13日 | movie
『SAYURI』
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にも書いたけど、ぐりはこの映画にハナから何も期待していない。
なるほどハリウッドは『ラスト・サムライ』では日本独自の世界観を新たな視点から再現することに成功した。しかしあれとこれとではわけが違う。監督も違うし、準備期間もお金のかけ方も違っている。なにしろ『SAYURI』のヒロインは中国人女優なのだ。ハリウッドが中国人俳優で日本の時代劇を撮るのだから、時代考証や造形設計や専門用語に正確さを求めるのはそもそも無意味な話だ。
確かにツッコミどころは満載です。ぐりのようなド素人の目からみても、失笑どころかまさに顎も外れるようなデタラメだらけ。けどぐりはそんなことはどうでもいいです。最初から気にしないことにして観にいったんだし、それをいちいちあげつらったところでそんなもの何かの役にたつわけもない。他人はどうあれ、ぐりはわざわざトリビアクイズをしに映画館に行ったりはしない。だからここではそれについては一切言及しません。

しかしこの映画は日本を舞台にした時代劇を中国人が演じアメリカ人が撮っているというハンデをすっかり除けても、それでも、どうみても大失敗だと思う。
もう何がいいたいのか全然わからないんですよ。貧しい少女のシンデレラストーリー?華やかな芸者の世界?東洋の神秘?どれもまったくの見当違いに終わってしまっている。
まず話が長い。ムダなパートが多すぎるし、その割りにカメラワークや編集に落着きがなく、台詞が多い上に効果音や音楽が異様にやかましい。情報量が多過ぎる。説明過多なのに辻褄のあわない箇所が多く、結果的には何の説明にもなっていない。話の流れにメリハリがないのに場面転換が忙しく、シーンのひとつひとつがそれぞれの用を成していない。そのために物語の展開がどうしようもなくもたついていて、波瀾万丈なストーリーのはずなのに退屈。華麗なはずの花柳界の情景描写もぱっとしない。一部に「映像がきれい」というレビューもみかけたけど、ぐりはどこがきれいなのかわからなかった。ハッキリいってグロテスクな部分の方が目立っていたと思う。
つまり、この物語によって観客に何を伝えたいのかをつくり手自身が消化しきれていないのだ。あるいはモチーフやストーリーに愛情がないのかもしれない。少なくとも、つくり手がこの物語の世界を楽しもうとしているようにはまったく見えなかった。単にダイジェスト的に原作のストーリーをなぞっているだけに見えた。
この映画を観た外国人の感想が非常に気になる。ぐりは原作を読んでたから話は理解できたけど、原作も読んでない、日本をしらない観客はあの話にどれほどついていけるだろう。
全体の印象として、「なんだかバタバタバタバタうるさい映画だったなあ」という感じがしました。これじゃあ祇園も芸者(正しくは芸妓)も東洋の神秘もナニもあったもんじゃないです。問題外。

ただし出演者はどの人もとても頑張ってました。
章子怡(チャン・ツィイー)は可もなく不可もなく、といったところか。もうひとつ本領発揮という風には見えなかった。彼女にはこういうおしとやかな役は似合わないんじゃないかなあ。それにしてもこの子は顔も芝居も鞏俐(コン・リー)そっくりだ。
当の鞏俐はまさに初桃にぴったり。ハマり役でした。楊紫瓊(ミシェル・ヨー)は所作がいちばんよかったです。
そしてやはりなんといっても最もキャラ立ちしてたのは桃井かおりでしょう。この人も‘ハリウッド向き日本人俳優’ですねー。渡辺謙も顔も芝居も濃すぎて日本映画よりハリウッドが似合ってると思ったけど、彼女もすっごいハマってました。役所広司も相変わらずうまい。英語苦手らしいけど、全然そんな感じしなかったです。
渡辺謙は役的においしすぎ。かっこよすぎです。イヤそれでいいんだけど。そういうキャラだし。うん。

彼らの熱演だけでも観る価値のある映画だといっていえなくはない。
でも、ただオリエンタル趣味なアメリカ人向けのエンターテインメント映画としても、これは失敗ではないかと、ぐりは思います。それこそまだふつうに日本で映画化した方がなんぼかマシだったんじゃないかと思ってしまう。
残念。
ぐり的にいちばんがっかりしたのは老年のさゆりのナレーション。あんな魔法使いのおばあさんみたいなしわがれ声じゃなくて、 草村礼子のようなやわらかくてかわいらしい声でやってほしかったです。あれでは「初恋の人と結ばれた幸せな女=人生の勝者」ではなく、もろに「売春窟に売られた不幸な少女の成れの果て」の語りです。
あーあ。