『アルメニアの少女』 デーヴィッド・ケルディアン著 越智道雄訳
<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=qf_sp_asin_til&t=htsmknm-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=4566011046&linkId=e0d76290bc088c78ad1ce4d53a99203b&bc1=ffffff<1=_top&fc1=333333&lc1=0066c0&bg1=ffffff&f=ifr">
</iframe>
トルコ・アジジアのアルメニア人地区で暮らしていた7歳の少女ヴェロンは、ある日トルコ軍に追われ、一家で街を出ることに。
1915年に起きたアルメニア人虐殺事件から8年間の流浪の軌跡を描く。
現代を生きる人間は、過去に人類がどれだけの大量殺人を飽くことなく繰り返してきたかを知っている。それは歴史上の出来事として、情報として、ある時点に発生してそして通り過ぎた現象として把握されている。
逆にいえば、当事者以外にとってはそうとしか把握しようがない。なぜなら起きたことがあまりにも暴力的すぎて、現実として受け止めきれないからだ。人間の想像力や共感する力にだってどうしても限界はある。まさかこんなことが、同じ人間同士の間で起きてしまうなんて。どうにかして避けられる方法がどこかにあったはずなのに。
起きたこと全体を捉えようとするときに陥りがちなこのジレンマを、この物語はいとも容易くはねのけてくれる。
何しろ語り手は7歳の女の子。比較的裕福な家庭に生まれ、父親には社会的な信頼も才覚も財産もあった。
生まれつきの前向きな性格も彼女を支えてくれた。トルコ軍に追い立てられながらの乾燥地帯の旅の間、食糧も水も足りず、高齢者や体力のない者が脱落していくなかで、彼女にはまだ頼る者があった。
だが長い流浪の末に、彼女はじわじわとひとりぼっちになっていく。
虐殺事件は7歳の少女からまず故郷を奪いとった。大家族と平和に暮らしていた家。ありふれた日常、楽しみに口にしていた郷土の食べ物や懐かしい風習の思い出も過去のものになった。
そして幼いながら必死に世話をしてきた弟妹も母も病気で亡くなり、父も命を落とした。
にも関わらず、己を哀れんで悲しんでいる余裕は彼女にはなかった。その日その日を生き抜いて、少しでも安全な明日を求めて、毎日が闘いの連続だったのだ。
そのとき彼女はまだ10歳にもなっていなかった。
語調はあくまでも淡々としてシンプルでストレートで、衣食住のディテールに重きを置いて描かれている。だから虐殺事件そのものというよりも、虐殺事件を体験した子どもの回想録として、主に少年少女向けに書かれた一種の戦争文学なのだろう。
一方で描写が細かく平易であるだけに、修羅場のシーンの生々しさのギャップには息が止まる思いがした。繰り返すようだが、そのとき彼女はまだほんの子どもだったのだ。このときが、彼女の何よりもたいせつなもの─二度と取り返すことのできない子ども時代─が、ばっさりと切りとられた一瞬だった。
それは一度失ってしまえば、決して再び手にすることができない。
彼女の周囲には、たとえ血縁でなくても、優しく愛情深く思いやりに溢れた人物が数多く登場する。でなければ彼女は生きてホロコーストを乗り越えることはできなかっただろう。子どもの彼女には経済力も社会的地位もない。命以外何ひとつもたない彼女が生き延びられたのは奇跡だけれど、だからこそ、彼女の体験は人々にとって二度と忘れ去られてはならないものになっているともいえる。
19世紀末から繰り返されてきたアルメニア人虐殺事件について、トルコ政府は今も公式に認めることなく、この歴史認識の齟齬がキリスト教圏との軋轢のひとつとなっている。
そうした政治的背景は別として、実際に体験した人々の物語のひとつひとつは、断じて「なかったこと」にされるべきではない。
それは人間としての尊厳の問題だからだ。
対等な人間として、あなたはそれが許せますか。許せませんか。
たったそれだけで判断できる問題だからだ。
アルメニアの問題だけじゃない。
何もそんな遠くにまで想像力を広げる必要もない。
まさにいま、私たちが生きている社会でも、同じことが始まろうとしている。そんな空気が漂い始めている。
気づいたときにはもう遅かった、と後で人はいうだろう。これまでもそういう人はたくさんいた。
でもそんな戯言を繰り返すのも、そろそろやめられるようになってもいいんじゃないかと思う。
隣人同士が普通に穏やかに暮らしていきたい、とくに贅沢でもなんでもないことが、なぜこんなに難しいのだろうか。
関連記事
『アララトの聖母』
『消えた声が、その名を呼ぶ』
『ディーパンの闘い』
『南京の真実』 ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編 平野卿子訳
『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』 ミニー・ヴォートリン著 岡田良之助・伊原陽子訳
『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』 フィリップ・ゴーレイヴィッチ著 柳下毅一郎訳
南京大虐殺78カ年 2015年東京証言集会
関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワーク
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える
アウシュビッツの「死の壁」。
訪問記を書こう書こうと思いつつ3ヶ月も経ってしまった。すごく書きたいのに、おいそれとは書けない。
<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?ref=qf_sp_asin_til&t=htsmknm-22&m=amazon&o=9&p=8&l=as1&IS1=1&detail=1&asins=4566011046&linkId=e0d76290bc088c78ad1ce4d53a99203b&bc1=ffffff<1=_top&fc1=333333&lc1=0066c0&bg1=ffffff&f=ifr">
</iframe>
トルコ・アジジアのアルメニア人地区で暮らしていた7歳の少女ヴェロンは、ある日トルコ軍に追われ、一家で街を出ることに。
1915年に起きたアルメニア人虐殺事件から8年間の流浪の軌跡を描く。
現代を生きる人間は、過去に人類がどれだけの大量殺人を飽くことなく繰り返してきたかを知っている。それは歴史上の出来事として、情報として、ある時点に発生してそして通り過ぎた現象として把握されている。
逆にいえば、当事者以外にとってはそうとしか把握しようがない。なぜなら起きたことがあまりにも暴力的すぎて、現実として受け止めきれないからだ。人間の想像力や共感する力にだってどうしても限界はある。まさかこんなことが、同じ人間同士の間で起きてしまうなんて。どうにかして避けられる方法がどこかにあったはずなのに。
起きたこと全体を捉えようとするときに陥りがちなこのジレンマを、この物語はいとも容易くはねのけてくれる。
何しろ語り手は7歳の女の子。比較的裕福な家庭に生まれ、父親には社会的な信頼も才覚も財産もあった。
生まれつきの前向きな性格も彼女を支えてくれた。トルコ軍に追い立てられながらの乾燥地帯の旅の間、食糧も水も足りず、高齢者や体力のない者が脱落していくなかで、彼女にはまだ頼る者があった。
だが長い流浪の末に、彼女はじわじわとひとりぼっちになっていく。
虐殺事件は7歳の少女からまず故郷を奪いとった。大家族と平和に暮らしていた家。ありふれた日常、楽しみに口にしていた郷土の食べ物や懐かしい風習の思い出も過去のものになった。
そして幼いながら必死に世話をしてきた弟妹も母も病気で亡くなり、父も命を落とした。
にも関わらず、己を哀れんで悲しんでいる余裕は彼女にはなかった。その日その日を生き抜いて、少しでも安全な明日を求めて、毎日が闘いの連続だったのだ。
そのとき彼女はまだ10歳にもなっていなかった。
語調はあくまでも淡々としてシンプルでストレートで、衣食住のディテールに重きを置いて描かれている。だから虐殺事件そのものというよりも、虐殺事件を体験した子どもの回想録として、主に少年少女向けに書かれた一種の戦争文学なのだろう。
一方で描写が細かく平易であるだけに、修羅場のシーンの生々しさのギャップには息が止まる思いがした。繰り返すようだが、そのとき彼女はまだほんの子どもだったのだ。このときが、彼女の何よりもたいせつなもの─二度と取り返すことのできない子ども時代─が、ばっさりと切りとられた一瞬だった。
それは一度失ってしまえば、決して再び手にすることができない。
彼女の周囲には、たとえ血縁でなくても、優しく愛情深く思いやりに溢れた人物が数多く登場する。でなければ彼女は生きてホロコーストを乗り越えることはできなかっただろう。子どもの彼女には経済力も社会的地位もない。命以外何ひとつもたない彼女が生き延びられたのは奇跡だけれど、だからこそ、彼女の体験は人々にとって二度と忘れ去られてはならないものになっているともいえる。
19世紀末から繰り返されてきたアルメニア人虐殺事件について、トルコ政府は今も公式に認めることなく、この歴史認識の齟齬がキリスト教圏との軋轢のひとつとなっている。
そうした政治的背景は別として、実際に体験した人々の物語のひとつひとつは、断じて「なかったこと」にされるべきではない。
それは人間としての尊厳の問題だからだ。
対等な人間として、あなたはそれが許せますか。許せませんか。
たったそれだけで判断できる問題だからだ。
アルメニアの問題だけじゃない。
何もそんな遠くにまで想像力を広げる必要もない。
まさにいま、私たちが生きている社会でも、同じことが始まろうとしている。そんな空気が漂い始めている。
気づいたときにはもう遅かった、と後で人はいうだろう。これまでもそういう人はたくさんいた。
でもそんな戯言を繰り返すのも、そろそろやめられるようになってもいいんじゃないかと思う。
隣人同士が普通に穏やかに暮らしていきたい、とくに贅沢でもなんでもないことが、なぜこんなに難しいのだろうか。
関連記事
『アララトの聖母』
『消えた声が、その名を呼ぶ』
『ディーパンの闘い』
『南京の真実』 ジョン・ラーベ著 エルヴィン・ヴィッケルト編 平野卿子訳
『南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記』 ミニー・ヴォートリン著 岡田良之助・伊原陽子訳
『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』 フィリップ・ゴーレイヴィッチ著 柳下毅一郎訳
南京大虐殺78カ年 2015年東京証言集会
関東大震災時の朝鮮人虐殺地のフィールドワーク
加藤直樹さんと一緒に、埼玉から関東大震災・朝鮮人虐殺を考える
アウシュビッツの「死の壁」。
訪問記を書こう書こうと思いつつ3ヶ月も経ってしまった。すごく書きたいのに、おいそれとは書けない。