落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

悲しみの深い穴の底の石

2019年12月15日 | play
『月の獣』

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第一次世界大戦下のオスマントルコで発生したアルメニア人虐殺事件を生き延びた19歳のアラム(眞島秀和)と15歳のセタ(岸井ゆきの)。
仲介業者を通じて結婚したふたりは新天地アメリカ・ミルウォーキーで新婚生活を始めるが、アラムが切望する子宝にはなかなか恵まれないだけでなく、夫婦らしい会話すらないないまま時間ばかりが過ぎていく。
世界20ヶ国以上で上演されている傑作の日本再演。

およそ150万人が犠牲になったといわれ、いまなお国際社会ではセンシティブな問題とされるアルメニア人虐殺事件。
発生100年になる2015年に一次資料をまとめて刊行されたファクトペーパーを読んでみたが、もう何がどんな風に書いてあったかここで要約するのすら憚られるほど、人が人として果たしてほんとうにこれほど残虐になれるものかという恐ろしい証言や報道の記録が満載の資料だった(一次資料なのでそれなりに信憑性は高いと判断して間違いはないにせよ)。興味のある人は読んでみてもいいと思う。

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最近この手合いの資料を読み慣れてる(慣れるなよ)私でさえ相当満腹になった逸品でございます。

アラムとセタはこうした暴虐の下のトルコを逃れ、故郷を遠く離れて新たな家庭を築いていこうとする。
ところがふたりそれぞれに描いていた家庭像があまりにも異なっていたことから、夫婦の道程は初手からかなり険しいものとなってしまった。
地方出身で、町で唯一の写真家で政治家でもあった父をもつアラムにとって、家庭とは厳格な家長と敬虔な信仰を頂点とするヒエラルキーだった。こってこてのガッチガチである。いいとか悪いとかの問題ではない、アラムにとってはそれが家庭だった。そしてセタはそれを実現するための“道具”だった。アラム自身は決して乱暴な人物ではないんだけど、女はプレゼントやら甘いもので釣ればいいぐらいのことしか思いつかないなんて、いっちゃ悪いけど恋愛スキルもほぼゼロだよね絶対。ハンサムなのに(近所のビネッティさん談)もったいない話である。
より自由な家庭で育った都会っ子のセタは純粋で素直そのもの、彼女にとって結婚とは、愛しあう人々が互いに思いやりいたわりあって助けあっていく、甘やかな夢だった。それが初対面の“夫”から、なんの前置きもなくいきなりこれから夫婦の営みをやらんといかんぞよなんていわれたら、そりゃ怖いよ。安全な暮らしが手に入るとばかり思いこんで飛びついた結婚話だったけど、もしかして私はとんでもない選択をしてしまったのでは?とびびってしまうのも仕方がない。何しろまだ15歳の乙女なのだ。
しかも彼女には帰る家も逃げる場所も何もない。彼も彼女も、ひとりぼっちの天涯孤独なのだから。

セタのキャラクターが現代的なために観客はつい彼女側の視点からストーリーを追っていくことになるから、どうしてもアラムが夫として厳しすぎる、妻への要求もあまりに偏りすぎているように感じる。自ら読んで聞かせる聖書に書かれた夫婦のあり方にも、非現実なほどしがみつきすぎている(その割りには自分ではそこに書かれているような夫にはなれていないのだが)。
相手にどう接していいのかわからなくて寂しいのも、子どもができなくて苦しいのも夫ばかりではない。それほど当たり前のことが彼には理解できない。でもそう考えると、この二人が抱えている心の壁が、時代や歴史的背景とは全く無関係に普遍的なもののようにも思えてくる。
妻にどう向きあえばいいのか、夫の気持ちをどうくめばいいのか、そんなありふれた迷いを分けあう場所もない。自分が追い求める理想の家庭・理想の夫・理想の妻という幻想が、胸の痛みを忘れるための逃避であることを認めうけいれるだけの機会もない。

八方塞がりの夫婦の家に飛びこんでくる孤児・ヴィンセント(升水柚希)が、そんなふたりの触媒の役割を果たすようになる。
セタは未成熟に柔らかな心をもった彼を通じて、アラムを雁字搦めにしている呪縛の正体を知る。アラムは、己が家族に起きた悲劇から逃げようとすればするほどどこへもいけなくなっていくジレンマを知る。
だからこの物語の結末は“ハッピーエンド”なんかではないのだ。長い長い時間と苦しい苦しい闘いの末に、悲しい悲しい過去を背負った男女が、ようやくにしてたどり着いた、第二の人生の再出発点でしかないのだ。

それにしても悲しい。
泣いて泣いて泣いて、涙が枯れてもまだ悲しい。あのとき自分もいっしょに死んでしまった方がどんなに楽だったか、どうして自分はまだ生きているのか、何のために生きていなくてはならないのか、ふたりは心の内で自分に、もう二度と会えはしない家族に向かって何度そう問いかけたことだろう。眠れない夜にも、眠れた夜に見た夢の中でも、彼らはきっと何百回何千回何万回、同じ問いに煩悶したに違いない。家族が流した血と小便と大便と死臭の記憶。幸せだったころの彼らを思い出したくても、目にしたあまりにも残酷な最期の瞬間がそこに重なってしまうときもあっただろう。
でもふたりきりの夫婦が心を許しあいさえすれば、互いの悲しみを分かちあうことも、ときにはできる。泣きたいときは泣いてもいい。それだけでも、人は随分救われる。
そういう相手にめぐりあえたことだけでも、ふたりは幸せの尻尾くらいは、つかめたのかもしれないと思う。


初日レビュー

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『スポットライト 世紀のスクープ』
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山梨県にて。

母の物干しロープ

2019年12月08日 | play

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アメリカ・ミルウォーキーで写真屋を営むアラム(眞島秀和)は、仲介業者を通じて故郷アルメニアから呼び寄せた孤児のセタ(岸井ゆきの)を妻に迎える。だが亡母の形見の抱き人形を手放そうともしないわずか15歳の少女と、早く子どもをもうけて失った“家族”を取り戻すことに執着する夫との溝はいっこうに埋まらない。
あるときセタが近所で出会った孤児のヴィンセント(升水柚希)を家に入れたことから、アラムが記憶から消し去ろうとしていた過去が暴かれ・・・。
2001年にモリエール賞を受賞した戯曲の日本再演。紀伊國屋ホールでの鑑賞。

そもそも赤の他人が家族になることがいくら何千年も引き継がれてきた当たり前の習慣だとしても、それが誰にとっても決して簡単ではなく、あらゆる努力や妥協や苦悩をともなう現実は、いつのどの時代のどこの国でも変わらない。
ところが結婚といえばすなわちおめでたいこと、一生を添い遂げようと決心することができる相手がいることは幸運だという認識も、同じように、いつのどの時代のどこの国でも変わらない。
それは、家庭を築き命を引き継いでいくという宿命を背負う人が生き物として、刷込みとして本能的に備えていなくてはならない感覚なのだろう。まるで、ひよこが初めて見た動くものを親と思いこむみたいに。

物語の最初から、アラムとセタが結婚に求めているものは180°異なっている。
アラムにとってそれは、信仰に篤く厳格だった両親のような夫婦像をそのままなぞることが至上命題だった。セタにとっては、ひとりの身寄りもなく身の安全も保障されないアルメニアから逃れるための手段だった。そして彼らは互いに天涯孤独だった。
どこまでいってもただふたりきりの彼らには、妻がいうことを聞いてくれない、なかなか子どもができない、夫と心が通わない、そんなありふれた悩みを気楽に打ち明けられるような存在すらいっさいもたなかった。

セタは何度もなんども、夫に向かって「感謝している」「私は運がいい」という。そのセリフには、観る者の心を真剣で繰り返し突き刺してくるような痛みがあった。
150万人ともいわれるアルメニア人が虐殺され、トルコ領内のほとんどのアルメニア人が故郷も家族も何もかもを失った。ただ殺される、砂漠に追いやられるなどといった言葉では片づけられないほどの究極の暴力の絶え間ない嵐を乗り越え、いま生きていて、トルコ軍が襲ってくる心配のないアメリカにいて、勤勉に働いている夫がいる。彼は妻への贈り物さえ欠かさない。当たり前に雨風をしのぐ家もあれば満足な食事も清潔な衣類にも事欠かない。確かにセタは運がいい。彼女をアルメニアから連れ出して妻として娶ったアラムに感謝の念を抱いて当然だろう。
それでも彼女も、夫も、ひたすら心から血を流し続けなくてはならない。どんなに忘れたくても忘れられない暴虐の記憶だけが彼らを傷つけているのではない。たとえ伴侶がすぐそばにいても、まっすぐに向かいあい、心の底からぴったりと寄り添いあえない孤独は、愛情のほかの何をもっても埋めることができないのだ。
そして、人と人とがそのようなあたたかい愛情関係に至るのはそう容易いことではない。互いに心に深い傷を負っていればこそ、なおさらそれが高い壁になってしまうこともある。

偶然だが、私の祖父母はちょうどアラムやセタと同世代にあたる。
アラムやセタの家族が殺されたアルメニア人虐殺事件が起きた時代、祖父母の故郷・朝鮮は日本の侵略をうけていた。ふたりは互いを知ることなく家族間のとりきめで結婚し、まもなく生活の糧を得るために玄界灘を渡り日本にやってきた。何世代も受け継いできた一族の資産は、土地も家も家具調度や蔵書、装身具や什器ですら、そのころには何ひとつ残されてはいなかった。日本の侵略がなければ祖父母が故郷を捨てることはなかっただろうし、私はいまここには生きていない。ほかに選択肢はなかったのだ。
人が移民として故郷を離れ国境を渡るのに、それ以外の理由はない。他に選択肢がない。その結果を幸運といってしまうのはやさしい。だがそんな運命への“評価”が、どんなにつらくても苦しくても逃げることのできない呪縛になってしまうこともあるとしたらどうだろう。

アラムは厳格だった祖父によく似ていて(祖父もとても背の高い人だった。写真が好きだった)、小柄で料理上手なセタは働き者で誰よりも善良で高潔だった祖母(身長130センチの身体で10人の子どもを生み育てた)を思い出させた。
舞台を観ていて、猛烈に彼らに会いたくなった。涙が止まらなかった。
悲しくなったわけではない。
もう二度と会えない彼らを、力いっぱい抱きしめてあげたくなったのだ。
そして、それほどの苦難を乗り越えて生き抜いた彼らへの深い深い感謝と敬意が、改めて心の底から溢れてきた。
そう思わせてくれた祖父母をもつ私自身は間違いなく恵まれているし、今日、この舞台を観ることができた幸運にも、やはり感謝したいと思う。

アラムを演じた眞島秀和は、旧態然とした家父長制時代の男性像こそが真の男らしさと信じて疑わないキリスト教徒役にぴったりで、どこかで演出の栗山民也が彼がいたから再演を決めたと語っていたように、眞島秀和をおいて他にこのキャラクターを演じられる役者はいまの日本にはまずいない、と全力で断言できるほどのはまり役。ただ頑ななだけでなく、自ら御しかねるほどの悲しみを抱きしめて硬い殻に閉じこもった少年のような痛々しさも、同時によく伝わってくる。
妻セタを演じる岸井ゆきのの説得力も凄かった。離れたかった孤児院、幸せだった家族の思い出、一家に起きた不幸としか呼べない出来事に対しても常にまっすぐに素直であるからこそ、そうはなれない夫を理解できず苦しむ健気さを秘めた心の強さが、劇場の空気全体をびりびりと震わせているように感じた。

出演陣は「普遍的な家族の物語」だと説明しているけど、そうした説明から連想しやすい安直な甘さはまったくない。
だが葛藤を乗り越えた先にしか見いだせない光もある。
その旅路の伴侶の手を握りしめて、相手のほのかな体温を宝物にできることの僥倖を、とにかく丁寧に描いた戯曲でした。名作、傑作だと思います。


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『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』 ボストン・グローブ紙〈スポットライト〉チーム編 有澤真庭訳
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日本語版シナリオ掲載誌。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の風景(訪問記)。手前の線路はユダヤ人を詰め込んだ貨車を収容所の敷地に入れるための引込み線。等間隔に並んでいる杭は高圧電流を流す鉄条網の柵。