落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

無知は罪なり

2008年09月29日 | lecture
一昨日の土曜日、ポラリスジャパン事務局主催「人身取引大国ニッポン:女性や子どもたちへの暴力をなくすために」 第一回勉強会というのに行って来た。
ポラリスを知ったきっかけは先月のAIDS文化フォーラムin横浜グダグダなレポ)。今回は藤原志帆子氏のお話ががっつり聞けるとゆーので、前回聞き逃したこともチェックできるかもと思って参加。内容は1時間の講義と質疑応答。
パワーポイントで図表などを映写しつつの講義で、「後でこのパワーポイントをPDFファイルに落として配信します」との説明があったのだがまだ来ない。けどこのままおさらいしないと忘れそうなのでとりあえずアップしておく。後日改訂します(たぶん)。前回と一部カブッてるとこもあります。


*ポラリスジャパンとは
もともとアメリカで活動していたポラリスの日本支部。日本支部の立ち上げは2004年。
主な活動は人身売買やドメスティック・バイオレンスの被害に遭うなどして困っている女性のホットライン。
基本は24時間、3ヶ国後対応。
2007〜08年にかけて、風俗女性の暴力被害が多くなっている。

*ポラリスが始まったきっかけ
立ち上げたのはアメリカの大学生ふたり。
大学のすぐ傍で韓国系の売春宿の摘発があり、被害者の多くがタバコによるやけどを負っているなどの事実を知って、ショックを受けたのが最初。

*人身売買の被害者は8割が女性、5割が子ども。
被害者は何も悪くないのに、全員が「ごめんなさい」「私が悪い」と謝罪の言葉を口にする。
自責の念が強いために、精神的に追いつめられて逃げられなくなっていく。

*人身売買市場
ここ数年飛躍的に拡大しており、現在では銃器取引と同程度の規模になっている。
その額310億ドル/年

*日本国内で人身売買の被害に遭っている外国人は20万人(国際移住機関)
カウント方法は明らかでないが、他の各種データに照らせばあながち大袈裟な数字ではない。
だがこのうち警察に被害が把握されているのは1割にも満たない。
日本での被害は80年代頃から増加傾向にあるが、日本政府が被害の統計を調査し始めたのはなんと2000年以降

*被害女性の出身地は東アジア、東南アジア、東欧、中南米
コロンビアでは麻薬取引の取締りが厳しくなり、代りに女性の輸出が始まった。最近はまた取締りの効果もあり減少傾向にある。

日本には人身売買そのものを取り締まる法律はない
2005年にやっと刑法に226条人身売買罪が追加された。
実際の取り締まりにはこの他関連の法律6つを組み合わせるが、管轄の警察や入管によって解釈や適用法が統一されておらず、その都度見解は異なる。
つまり、行政自体に人身売買に対する態勢づくりがまったくされていない。

*人身売買がどれだけの利益を生むかという、非常に劣悪なケーススタディ
コロンビア人女性のストリップ劇場には、電話ボックスのようなブースがあり、客は料金を払ってコンドームとティッシュを受取って並ぶ。ブースの中の女性は1時間に5〜6人の客を相手にする(・・・・・・・売春っちゅーか便所じゃねーかよ!)。
この業態では1週間で女性ひとりあたり50万円の売上げが見込まれ、女性が3人雇われていれば年間7000万円もの利益を上げることができる。
この種のストリップ劇場は取締りが厳しく、現在ではほとんど営業していない。

警察によれば日本の風俗店の半数は違法営業であり、日本のGNPの1〜2%は売春産業によるものと推定されている。
(つまり、フーゾクに通う一般市民が支払う料金の半分は犯罪組織に流れていて、日本という国が生み出すカネの0.5〜1%は違法な風俗店から生まれてるとゆー理屈)

*ポラリスはさまざまな外国人向け雑誌やフリーペーパーに広告を掲載しているが、同じ雑誌に風俗業者の募集広告が掲載されている。募集要項には「売春」の文字はないが、「コンドーム使用100%」と書かれている。

*人身売買の加害者は売春業者だけではない
風俗街で営業している名刺などの印刷業者、風俗嬢と客が連れ立って食事するラーメン店、風俗店のHPを制作するインターネット業者、看板屋など、搾取の末端は関係するさまざまな業種にひろがる。

*民主党は人身売買禁止ネットワークなどNGOと協力して「人身取引等の防止及び被害者の保護に関する法律案」を国会に提出、衆議院で審議中。

*被害者保護の第一歩は、被害者の言語で聞取りのできる専門家が対応すること。
いちいち通訳を挟んでいたのでは被害者と捜査側の信頼関係を築き、正確な聞き取り調査をするのは困難である。
また日本には被害者を支援する行政システムが存在しないため、被害者側でも認定(※下記参照)など必要ないと判断してしまう。

*われわれ市民にできることは、まずこの問題を知り、ひとりでも多くの人にひろめること。
チャリティイベントやパーティーもいいし、ただ話し合うだけでもよい。
ポラリスではRadioheadの日本公演にMTVといっしょに参加する予定。

All I Need - Radiohead
</object>

以下は質疑応答の内容。

被害者認定※
警察と入国管理局が行う認定でフォーマットがあるはずだが公開はされていない。
警察と入管ではおそらく内容が異なる。
また、日本には移民法がないため、被害者は認定後に日本に留まることが非常に難しい。
入管では条件が揃えば留まることはできると説明しているが、それはあくまでも建て前。
ちなみにアメリカには3年間有効なトラフィッキング・ビザがある。この期間に永住権を取得することも可能。
なおこのビザの目的は加害者を逮捕・訴追するためである。

*人身売買の需要をなくすために、ポラリスでは学校での講演を行っている。
まずは正しい性教育が必要である。

*被害者の多くが違法な借金を背負わされているが、正式な借用書などは存在せず、利率も利息制限法に違反しているなどの情報は被害者にはいっさい与えられていない。
海外から日本にやってくる被害者は3ヶ月のビザで入国するが、このビザの取得に預金証明が必要となる。
現地ブローカーはこれに必要な現金をまず被害者に渡し、航空券を渡す。この時点で航空券が被害者の借金となる。
成田空港に到着すると日本のブローカーが被害者を待っている。このブローカーが現金を没収し、新たに滞在費用としてカネを貸す、という仕組みになっている。(
*人身売買の被害者は世界中どこの国でも、外国人被害者の3倍は自国民であるといわれている。つまり日本の場合60万人と推定される。
<font>
銀座の花。

A Wee Bit O'Irish

2008年09月28日 | movie
『消えたフェルメールを探して 絵画探偵ハロルド・スミス』

1990年春、セントパトリックデーの深夜、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から13点合計5億ドル相当の美術品が強奪された。被害を受けたのはレンブラントやマネ、ドガの傑作と、フェルメールの『合奏』。17世紀の画家フェルメールの画業生活は短く、長く市場から忘れられていたこともあって現段階で実在が確認されている作品はたった35点しかない。稀少価値は高く、『合奏』はこれまでに盗難に遭った美術品の中でも最も高額な作品といわれている。
『合奏』のファンだという監督自らが美術品捜索のスペシャリスト、ハロルド・スミスにアクセス、捜査の現場に密着したドキュメンタリー。

ここ数年で日本でも公開本数が増えつつある(そしてこのブログでのレビュー本数も増えている)ドキュメンタリー映画だが、美術品にまつわる作品はけっこう珍しいんじゃないかなあ。しかも主人公となる絵画は盗品。レアだ。
それにしても熱い映画です。なにしろ監督が愛してやまない作品が盗まれたまま戻ってこないのだから、思い入れもひとしおだろう。ぶっちゃけ観ててついてけないなと感じるパートもけっこう多い。ぐりの真後ろの男性客なんかくすくす笑い通しだった(うるせえよ)。隣の席の女性客は携帯見まくり(出てけ)。アップリンクでこんな観客の態度が悪い上映は初めてです。
それでもぐりは監督や映画に登場する人たちの熱狂には共感を覚える。映画にはたくさんの関係者が登場する。美術館員、ジャーナリスト、作家、警察関係者、元美術品泥棒、そしてイザベラ・スチュワート・ガードナー本人と彼女の画商の往復書簡。彼らは魂の底からフェルメールを、『合奏』を、芸術品を、美術館を熱烈に愛してやまない。人によってはそんな愛はどこか滑稽にうつるかもしれない。でも愛は愛だ。うるわしいではないか。ぐりは美しいと思う。

もうひとりの主人公ハロルド・スミスのパーソナリティが特異なのが、この映画をさらにチャーミングにひきたてている。
50年間も皮膚ガンと戦う彼は黒いアイパッチに帽子に義鼻といういでたちで世界中をとびまわっている。撮影当時既に75歳だがかくしゃくとして、どんな相手もくつろがせつつ情報を引き出すという特殊な技能を発揮する。
しかし美術品専門の保険調査員て職業があるなんて、ほとんど世の中には知られてないんじゃないかな?ぐりは大学で博物館学をとってたので習いましたけれど。彼らのコネクションは捜査関係者やキュレーター、美術家、鑑定士や修復師、コレクターなど多岐にわたる。まるで推理小説の舞台そのままのリアルワールド、考えただけでワクワクするような世界である。かっこいい。クールじゃ。
欲をいえばこのアーティスティックかつスリリングかつセレブーなコネクションをもっとうまく見せてくれれば、映画としてさらにカラフルになったんではないかなという気はする。『合奏』周辺人物のみで世界が完結しちゃってて、なんだか観てて息がつまるとゆーか、どっかアングラな感じがしてしまってるのが惜しかったです。

ガールズ・イン・ブルー

2008年09月28日 | movie
『女工哀歌』

広東省沙渓のリーフェン縫製工場では、10代の少女たちが寝る間も惜しんでジーンズを縫っている。
彼女たちの時給は8円未満、毎日朝8時から0時過ぎまで働いて月収にしてたった¥3,000〜¥7,800。それすら支払いはしばしば滞る。食事代や寮費、お湯代までがそこから天引きされる。
工場でつくられるジーンズの納入先は欧米の多国籍企業。有名ブランドも含まれるが、消費者が商品に支払う代金のうち、製造者の手にわたる工賃は2〜3%に過ぎないのだ。
ゲリラ撮影で16歳の工場作業員と社長に密着取材したドキュメンタリー。

監督はスイス生まれのイスラエル人、ミカ・X・ペレド。この方は『STORE WARS: When Wal-Mart Comes to Town』で話題になられた方ですね。ぐりは作品は観たことなかったんだけど、噂は小耳に挟んだよーな気が。
実際作品観ると、んー・・・ちょっと長いですかね?なんだろ?構成の問題なのかしらん?88分よりずっと長く感じました。できればこのリーフェン縫製工場以外の企業も取材して、国際市場の90%という驚異的なシェアを誇る中国のアパレル業界全体を俯瞰できるパートも入れてほしかった。
まあでも監督の意図はそーゆーことじゃないんだろーね。たぶん。
この映画の主人公はジャスミンという新人作業員。彼女は初めて親元を離れて、家族の役に立てるという希望に満ちて都会にやって来る。日が経つにつれて同世代の同僚と仲良くなったり、ホームシックにかかったり、なかなか給料が支払われないのに不安になったり、女の子らしい感情の揺れが繊細に描かれる。この描写によって、観客がいつも穿いているジーンズのつくりてが、人格をもったひとりの人間としてはっきりとイメージが浮かんでくるという仕掛けになっている。

実をいうとぐりはほとんどジーンズを着ない。数年前までは現場に出るときは便利だから穿いてたんだけど、最近はまったくといっていいほど着ない。ふだん着ている服の8割はリサイクル品で、製造国は日本か欧米(大抵フランスかイタリア)のものが多い。何年か前からか、品質そのものよりも異常な安値が不可解でアジア製品を買わなくなった。まだ着られるものならリサイクル品でじゅうぶんだし。
べつにアジア製品が嫌いだというわけではないけど、買っても払った代金が製造者にわたらず、モノを右から左へ動かしてるだけの中間業者ばかりが儲かるビジネスは正直あんまり好きになれないし、できればあんまり関わりたくない。
タダより高いものはない、と昔からよくいうけれど、今や高い代償を支払わされているのは消費者ではなく製造者たちである。こういう世の中はどう考えてもおかしい。おかしいってことを、誰もがちゃんと把握してないといけないんじゃないかな?

関連レビュー:
『この自由な世界で』
『いま ここにある風景』
『おいしいコーヒーの真実』
『いのちの食べかた』
『ファーストフード・ネイション』
『ダーウィンの悪夢』
『無用』
『ナイロビの蜂』 ジョン・ル・カレ著
『ナイロビの蜂』

芸術残酷物語

2008年09月27日 | movie
『アキレスと亀』

製糸財閥の御曹子・倉持真知寿(吉岡澪皇)は絵を描くのが大好きな男の子。将来は画家を夢見ていたが、父親(中尾彬)の会社が倒産、一家はバラバラになってしまう。
青年になった真知寿(柳憂怜)は画商(大森南朋)の薦めで美術学校に通い、幸子(麻生久美子)という理解ある妻も得て創作活動に励むのだが、いっこうに絵は売れるようにならなかった。

ぐりは4歳のときから絵画教室に通っていた。正確には通わされていた。
母親が絵描きになりたかった夢を娘に投影して、音楽と同じように絵も小さいうちからと思ったのだろうが、いくら田舎のお絵描き教室といえども4歳の生徒なんて他にいるわけがない。教室の方でも持て余して、年長の子どもたちにはきちんとした課題が与えられてる横で、ひとり放ったらかしにされていたのをよく覚えている。
この教室は小学校に入ってすぐに辞めさせられた。辞めさせられた日のことはくっきりと記憶に残っていて、母の日のプレゼントにおかあさんの似顔絵を描きましょうといわれ、ぐりはいつものようにそれを無視して(というか描かなくて良いと判断して)勝手にお姫さまの絵を描いていた。教師もそれを咎めはしなかった。レッスンが終わって母親が迎えに来ると、他の子たちはその場で似顔絵をプレゼントした。ぐりの母親はぐりが描いたお姫さまの絵を見て烈火のごとく怒りだした。具体的な言葉までは覚えていないが、これではなんのために月謝を払って通わせているのかわからないではないかとか、そんなようなことをいったのだろうと思う。ぐりはなんでそんなに怒るんだろう?と不思議に思っていた。

絵画教室を辞めてもぐりを絵描きにしたい野望を諦められない母は、休日ごとにぐりを連れて近隣の地域で催される写生会や展覧会をまわり、ときには自ら写生場所を選んで絵を描かせた。小学生のころ、同級生たちが遊園地や動物園に連れて行かれている行楽日、ぐりは写生をしたり美術展鑑賞をしていた。
ぐりの母は真知寿の父のように「何でも好きなように自由に描け」という人ではなく、ぐりが描いた絵が少しでも気に入らないと無茶苦茶に怒った。ぐりが綺麗だなと思って選んだモチーフは彼女にとっては地味でどうでもいいものばかりで、ぐりが素敵だなと思って用いたタッチは彼女にとっては弱々しくアピール力に欠けていると判断された。子ども時代を通して、母がぐりの絵を褒めたことは一度もない。いつでも叱られ通しだった。スパルタである。
おかげで小中高を通して美術の成績は良かったし、なんだかんだでどうにかこうにか美大には進学したが、気がつけばぐりには自分で描きたいものなんかなんにもなかった。母親に褒められるため、学校でいい成績をとるため、コンクールで入賞するため、入試に合格するためなら絵は描ける。逆に目的がなければ、ぐりには絵を描くことに意味はまったくなかった。
それに気づいたときのショックは、今思い出してもとても淋しい。もしも6歳のときあのお絵描き教室を辞めてなかったらどうなっていただろう、なんてことは想像はしなかったけれど。

子どものころに画家になる夢を持たされた真知寿だが、他者から夢を持たされたという点ではぐりと彼は同じだ。
だが真知寿には「絵を描く目的」がなかった。あえていえば、ただただ好きなものを好きなだけ、画材のある限り描き続けることが目的だった。
映画の中で周囲の人はみんな真知寿の絵を観て「才能がない」というけれど、ぐりはそうは思わなかった。彼のように、心に浮かんだものを湯水のように描き続ける意欲とエネルギーを失わないでいられるのはそれだけで才能だし、とても幸せなことだと思う。少なくとも、ぐりには幸せに見えた。憎しみを感じるほど羨ましかった。こんな風に純粋に絵を描くことを愛せるなんて。絵を描くことにいっさいの迷いを持たずにいられるなんて。
ほんとうは真知寿だって迷ったり苦しんだりしているのかもしれないけど、映画には具体的には描かれていない。おそらく彼のそうした純粋さには、どこまでも黙ってついてきてくれる妻という存在の影響も大きかったのだろう。別のいい方をすれば、彼女がいたから、彼は芸術に必要なだけの孤独や挫折を知らずに過ごしてしまったのだろう。

ストーリー全体としては北野作品で初めてヒットしたという『HANABI』に似ている。あからさまに悲劇的で暴力的だった『HANABI』をネガとして、夫婦愛に悲劇と暴力を暗示したポジが『アキレス〜』といえるかもしれない。
ぐりは北野作品は全部はチェックしてないけど、今回のこの作品に関していえば完成度には若干の不満は残るものの、ストレートでわかりやすくて感動的な映画であるところに間違いはないと思う。ぐり個人としてはそう思うけど、絵を描くことに関心のない観客がどう感じるのかはよくわからない。
1点気になったのは、青年時代のパートと中年時代のパートの両方に薬物による死が登場するところ。直接的な表現ではなく前後の文脈からそう判断したのだが、これはしばしば芸術家がアルコールや薬物などの助けを得て創作するという現実に対する皮肉とも受取れるのだが、実際はどうなんだろう。ぐり的にはそれよりも、昨今目につくようになったまるで女優かミュージシャンのような“ビジュアル系”芸術家ブームを皮肉って欲しかったけどね。結局TVや雑誌でパーソナリティがネタになれば価値がつく、作品そのものの価値を判定することになんか誰もキョーミなーし、みたいな。
それにしても劇中に登場する絵の数がすごい。これ全部たけしが描いたのかー、と思うと労力だけでも圧倒されてしまう。ぐりはたけしの絵って好きでも嫌いでもないんだけど、アレって市場価値としてはどのくらいなんだろね?

the only truth who can accept is their own

2008年09月26日 | diary
さすがに残暑も和らいでいよいよ秋っぽい雰囲気になって来ましたけども。
こないだ「たまたま入ったラーメン屋で最後の冷やし中華がオーダーされるのに居合わせて夏の終わりを感じた」なんて日記を書いてる知りあいがいて。夏が終わると淋しいナーって人も世の中にはいっぱいおられるのでしょー。
ぐりは紫外線アレルギーで夏場あんまり派手に外で遊べないのと、学生のころ既に‘夏=書入れ時’とばかりにバイトしまくってたので、もともと暑くてもテンションが上がったりするタイプではないです。
むしろ秋でしょ。読書の秋、芸術の秋、スポーツの秋、そして美食の秋。
ああおいしいものが食べたいなあ。

今ぐりが猛烈に食べたくてしょうがないのは

*プロシュート。パンツェッタ。よーするに生ハム。
*チーズ料理。ゴルゴンゾーラのリゾットとかー、チーズフォンデュとかー。
*チゲ鍋。サムゲタン。韓国料理・・・。
*フレンチトースト。メレンゲとかはちみつとかジャムとかこってりつけて食べたい。
*フォー。ベトナム料理。インドネシア料理でもカンボジア料理でもタイ料理でも、とにかく東南アジアの料理が食べたい。

天高く馬肥ゆる秋、食欲だけはしっかりある。
しかしトシのせいか好きなものを好きなだけ食べるとゆーことはもうできない。胃がしっかりと老化していて、ふだんでもお店で出されたものを出されたなり食べていると必ず後で具合が悪くなる。飲み会なんかで調子に乗ってパクパク食べてると、1時間後には絶対に「・・・(無言)」な状態になってしまう。悲しい。
もともとが食いしん坊だから、好きなだけ食べられないとゆーのはすごく淋しい。その時は具合が悪くなってもいいや、なんてヤケで食べまくったりもするけどね。

全然話は変わりますが。昨日の続き。まだひっぱります。
ちょっとにも書いたけど、ぐりの仕事場の近所にはたくさんの外国人がいて、コンビニとか飲食店の従業員はほとんどが外国人です。
そういうお店でちょこちょこ気になるのが、やはり近辺に多い中高年のおじさんと従業員のやりとり。なんちゅーかすんごい横柄な人がいるんだよね。何様?あ、お客様かい。っちゅーくらい威張ってて、相手の日本語が訛ってるのが気に入らないのか、いちいち大声で「ええっ?」とか「わかった?」とかいってんの。うるさいよー。訛ってるたって聞き取りづらいほどではないし、傍で聞いてるぶんには会話にどこも支障はないのに。あとちょっとでも不備があるとすぐ「外国人だから」と決めつける人もけっこういる。たとえばぐりがある人と食事をして会計に手間どっていると「あの人(レジ係)中国人でしょ?計算できないんだよね」なんていけしゃあしゃあといったりする。レジ係は日本人だったし、大体中国人は日本人よりも数字には強いんじゃないかね?一般的に?と思ったけど一応黙ってました。ムカついたけど。

そーゆーのをみてると、一部の日本人には外国人は同じ人間に見えてないのかな?って気がします。てゆーか、たぶん実際そうなんだろう。そしてそういう人にとって外国人とは欧米人のことで、欧米人と日本人以外はなんか違う生き物なんだろう。それでやれ反日がどーとかいわれてもね。自分の態度はどーなんだとゆー。
『闇の子供たち』虚偽PR問題にしても、なんだかんだ文句いってる人の論調をみてると結局大事なのは日本人の面子なんだよね。タイの面子を建て前に持って来たとしても結局なんにも裏づけはない。
つまりはさ、買う人間が誰であろーと、誘拐されて臓器密売組織に殺される子どもとか、物心もつかないうちから売春させられてエイズかヤク中で死ぬしかない子どもとか、そんなんどーでもいいワケですよ。眼中にない。だって人間じゃないんだもん。自覚のない差別意識ってコワイわー。
そんなメンタリティをもってすれば「売春なんかしてる人間はどう扱おうと構わない」「安いアジアにセックスツアーに行くのが何が悪い」なんて理屈もまるで矛盾がなくなる。だって人間だと思ってないんだからさ。日本に人種差別なんかない、とか堂々といっちゃうのもこーゆー人だったりしてね。

ぐりが不思議だなーと思うのは、そーゆー人って、自分たちの態度や意識が相手の外国人からどう見えてるか、ってのが気にならないのか?ってこと。
反日感情にはやたら過剰反応するのに、自分たちの何に反感を持たれてるかってのはわかろうとしない。
ホント不思議なんだけど。


ハーブティー。