落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

この世の終り

2013年05月28日 | book
『極北』 マーセル・セロー著 村上春樹訳
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映画が好きだというとよく「今まで観た中でいちばん良い映画は?」みたいな質問をされるが、これほど答えに窮する質問はない。映画好きを自称する人はだいたいそうだと思うけど、映画の良さは観たときのメンタリティにかなり左右されるし、相手によって勧められる作品はかなり限られてくるからだ。
だがこれが「今まで読んだ中でいちばん良い小説は?」となると話が違ってくる。まあこのブログに関していえば映画を観るほどには大して読んでないから、ということもできるけど、映画を観るよりは小説を読むのは時間を食うし、それだけの時間を費やすだけの価値のある小説を見つけるのは、映画ほど簡単ではない。

という訳で、ぐりがこれまでに最も心を動かされた小説を3冊挙げろといえば、すぐにタイトルは挙げられる。
ヘミングウェイの『日はまた昇る』と、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』、それからポール・セローの『写真の館』。
『写真の館』を読んだのは23歳のときで、季節は春だった。阪神淡路大震災と、地下鉄サリン事件があったころだった。『写真の館』を読んで、ぐりは大学を出て社会人になった。
あれからもう18年も経ったなんて何かの冗談みたいに思える。

著者のマーセル・セローはポール・セローの息子だという。もしかしてそうかもと思ったけど、訳者あとがきにしっかりそう書かれていた。阪神淡路大震災の直後に『写真の館』を読んで、いまこの『極北』を手にとったのは単なる偶然だと思うけど、それでもどこかに宿命を感じる。そういう小説だった。
あまり細かい内容に触れたくないのでやはり訳者あとがきを引用するが、著者はテレビの取材でチェルノブイリを訪れ、近郊に住む復帰居住者(いわゆるサマショール)の女性に出会ったことから、この小説を書くことを思い立ったという。孤独に自給自足の生活を営む彼らの生活は原始的だが、タフで知的でどこまでも自立していなければできないわざだ。
セローは、彼女に出会ったことで、われわれ人間社会がどれほど自然と本能を犠牲にして、文明と地球資源を無反省に浪費してきたかを知ったという。

小説の主人公はメイクピースという、タフで知的でどこまでも自立した人物だ。
メイクピースの両親は物質社会に背を向けて未開の土地─おそらくシベリア─に新しい世界を建設すべくやってきた入植者だったが、物語が始まった時点で既にこの世を去っていた。そして彼らが建設した新しい世界も崩壊してしまっていた。
メイクピースはその崩壊した世界にたったひとりで住んでいる。かつてまだ街があったころ、メイクピースは警察官だった。誰もいなくなった街で、メイクピースはその勤めをただ続けている。他にやることがないから。
そこにある変化が訪れる。思いがけない変化だ。メイクピースは魂の赴くままに、その変化に導かれていく。
物語は常に思いがけない展開の連続で、それでも、重く、恐ろしく、そして熱い。「極北」の、凍えるように冷たい世界を描いているのに、その冷たさ故に命に脈打つ血潮の熱さを、その沸点をひしひしと感じさせる。

メイクピースは苛酷に暴力的な試練に何度となく挫折しながらも生き続ける道を選ぶ。そこには明確な理由はない。
メイクピースにとっては、それはまさに自分自身との勝負だ。愛してはいても共感することのできなかった家族、懐かしくはあっても居心地よくはなかった故郷、何もかもが姿を消してしまっても、自分だけはこの世に留まり続けることで自らの運命に負けまいとする。
目的はただひとつ、自分が誰よりも正しかったことを、間違ってはいなかったことを自らに証明するためだ。誰に対してでもない、自分自身に対して証明したい。
だからこそメイクピースはどこまでも傲慢になれるし、自分を疑うことも決してしない。
そもそもメイクピースは救いなど求めてすらいない。自らの身を守り、命をつなぐために必要のないものに価値はない。
その価値観はどこか西部劇を思い出させるけど、西部劇にももうちょっと救いはあった気がする。この小説に比べれば西部劇はまだまだロマンチックといっていいくらいかもしれない。

訳者あとがきでも触れている通り、2011年3月11日を経た今となっては、この小説に描かれた世界はもはや絵空事ではなくなってしまった。
ここに描かれる破滅と絶望と荒廃は、ぐりの目にはいつか起こり得る─それこそ明日か明後日か、ごく近い将来の出来事を示唆しているように感じてしまう。
あの未曾有の大災害と大事故を通して、われわれは人間社会が築き上げてきた文明の脆さを、人間の愚かさと強欲の醜さを痛いほど思い知らされた。どこにどんな救いがあるのかも、もうわからない。

ひとつだけいえるのは、この小説そのものがぐりに、小説を読むということがどれほど人の心を潤し、力づけてくれるかという懐かしい感覚を思い出させてくれたことだ。
子どものころ、寝る時間も惜しんで本にかじりついていた、読書の愉楽。
そういう小説に巡りあえるのも、ぐりにとっては救いであることは間違いない。

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告白耐久戦

2013年05月19日 | movie
『私は告白する』
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聖マリー教会の神父ローガン(モンゴメリー・クリフト)は、深夜に帰って来た職員のケラー(O・E・ハッセ)から、強盗殺人の罪を告白される。ケラーが法衣を着て変装していたことと、ローガンにアリバイがなかったことから、警察はローガンを犯人と見て捜査を進めるのだが・・・。
1953年のヒッチコック作品。

舞台がケベックで、台詞にフランス語やイタリア語やドイツ語が混ざってる、ちょっとエキゾチックな作品。フランスの戯曲だった原作の雰囲気を活かそうとした演出だと思うんだけど、正直ストーリーとはあんまり関係ないですね。おそらくは公開当時の社会背景を取り込むことで、堅苦しい宗教的題材をちょっとでもやわらかくエンターテインメント映画にしようとしたんじゃないかと思うんだけどどうでしょう。あとアメリカ人のヨーロッパ人に対する妙な偏見描写もちょっとしつこい気がします。

それはそれとして、法廷ドラマのはしりとしてもなかなかおもしろかった。ローガンは聖職者の職業倫理から、決して告解の事実を他言することができない。むしろ信徒の罪をこそ被ることでその職務を全うすることをも受け入れようとする。そこに最後まで揺るぎはない。
逆にいえば、聖職者以外の登場人物たちの人間性と、ローガンの精神力との戦いがこのストーリーの軸になっている。
なかなか折れない聖職者がいつ挫折するのか、挫折するべきか否か、というシンプルなその一点だけで最後まで引っ張っていくサスペンスって、たぶんアメリカだからこそつくれるんじゃないかなあ。少なくとも日本じゃ無理だね。ヨーロッパもどうかなあ。
アメリカのことはよくわかんないけど、この映画を観る限りでは、教会がアメリカ人にとっていかに精神的な大きな拠り所かというところがひしひしと伝わる。

ぐりはヒッチコック作品でも『裏窓』や『ハリーの災難』みたいな、ちょっとコメディー要素の強い作品が好きで、小さい頃に観たこの2本の印象がすごく強いんだけど、実はこのタイプの作品てあんまり多くないみたいですね。いや『サイコ』や『鳥』も好きだけどさ。
けど子どものときの刷り込みってコワイもんで、ヒッチコック観るたびに「どこで笑いがくるんやろ」と無意識に期待してしまうワタシ。絶対なんか間違ってるよねえ。
すんまへん。こないだ観た『バルカン超特急』もまあまあ笑えたもんですからつい・・・。

残念な話をしよう

2013年05月17日 | diary
残念な話をしよう。

先日、某政治家が「慰安婦は必要だった」「米軍は風俗店を利用すべき」といった発言をした反響が連日マスコミを賑わせている。
ぐりはこの政治家が政治家になる前、光市母子殺害事件の弁護団に対して起した懲戒請求騒動がきっかけで、弁護士とあろう人物にこれほどまでに知性と人権意識が欠如していてさえ、法律家としての職務が問題なく全うできている社会に驚愕したことがきっかけで彼を知ったので、今回の騒動についても正直まったく驚かなかったし、腹も立たなかった。
逆に、あのときと同じように、おそらくは彼の発言に無批判に同調し無関心なふりで沈黙する多くの人々─いわゆるサイレントマジョリティ─の存在こそが恐ろしく、悲しく思った。

彼の発言そのものの正誤はすでに問題ではない。
そもそも「慰安婦」という姑息な言い換え自体が人権侵害となっていることにも、日本のマスコミは決して触れようとしない。彼がいうように、古今東西世界中の戦場で女性に対する性暴力は横行していたが、彼女たちを「慰安婦」「女子挺身隊」などというもっともらしいパッケージに押し込めて、世紀をまたいで自分たちの犯罪を否定し続けているのは日本だけだ。
国際社会では、性暴力の犠牲者として拉致・監禁され、強制売春の被害を受けた人のことを「性奴隷」、英語で「sex slave」と呼ぶ。性産業を目的とした人身取引の被害者とまったく同じ表現だ。日本語では馴染みのない表現だし、ショッキングに感じる人も多いかもしれないけど、死ぬよりもつらい生き地獄を味わった事実をそのまま表現するとなると、どうしてもこういわざるを得ない。どう言い換えようとあったことをなかったことには決してできないのだから、あえてオブラートに包むことこそが被害者をより傷つけることになる。

日本政府は2007年にアメリカの下院外交委員会で「慰安婦問題の犠牲者に対し謝罪、賠償を行うべき」という決議がなされて以来、その事実を否定し、抵抗し続けているが、よしんば政府間で損害賠償が決着していたとしても、法的には個人が政府を相手に損害賠償を求める権利はそれによって何ら妨げられるものではない。政治家もマスコミもこの事実を伏せて、とにかく被害の矮小化にばかり汲々としている。
政府間でどんな取引が行われようと、被害者の受けた傷が回復されることなどあるわけがない。そのことが一番無視され、そして被害者を二重三重に傷つけている。貶めている。

某政治家は合法な風俗店を否定するのは風俗で働く女性への差別だとまで発言したけど、彼が弁護士時代に大阪・飛田新地料理組合の顧問弁護士だったことはよく知られている。
飛田新地は旧遊郭で今も日本有数の風俗街だ。経験上、風俗にはお詳しいおつもりでそうおっしゃったのだろうが、合法な風俗が聞いて呆れる。日本の風俗店で営業許可を取って合法に経営されている店は警察発表ですら半数以下、無店舗ヘルスのような曖昧な業態も含めば実情では違法営業の方が遥かに多いし、許可を取って営業していても店内では違法なサービスを従業員に強制している業者も珍しくない。
ぶっちゃけていえば、日本の合法な風俗店では建前上、性欲は消化できない。ザル法であっても風営法でセックスは認められてないから。

それからここが最大の誤解ポイントなのだが、某政治家以外の方でもどなたでも、風俗で働いてる人は積極的に自らその仕事を選んでやってるはず、好きでやってるはずなんだから、誰の性のはけ口になろうがそれが仕事だろう、どんな目に遭おうが自己責任だろうという認識がおかしい。
確かに風俗嬢になりたくてなった、なれて100%ハッピーという方も中にはいるはずだが、決して数は多くないと思う。ここではっきりいっておくが、風俗業といえば高収入というイメージがあるけど、今は完全な買い手市場で女の子は余ってるから、彼女たちの労働環境は坂を転がるよりもひどいスピードで劣悪化している。それでも不景気で正規雇用が減り、貧困から脱するため、受けたい教育の機会を得るため、家計を支えるため、やむにやまれぬ事情で一時的にその職業を選ぶしかなかった人も多い。誘拐や詐欺や人身取引やDVの被害に遭い強制的に風俗で働かされている女性も珍しくない。
決して全員がそういう人ばかりとまではいわないけど、あらゆる事情を抱えた彼女たちを十把一絡げにして「性欲のはけ口」呼ばわりはどう考えても偏見以外の何ものでもない。

ちなみにアメリカ軍は軍法で売買春を禁止しているが、これも長い歴史的背景がある。そこはぐりの守備範囲ではないのでここでは割愛するが、軍が売買春を認めたらそれがすなわち人身取引の温床になるのは既に旧日本軍が証明している。それは今も続いている軍隊の闇の歴史だ。つい5年ほど前にもイギリスの民間軍事会社が人身取引に関わったスキャンダルが報道されたけど、この前にも後にもPKOやODA関係者が人身取引の加害者となった事件は枚挙に暇がない。
そこにはいつも、国家事業で遠隔地に派遣された男性権力が、カネで地域の女性を蹂躙するという図式がある。某政治家の人権意識の低さはこのレベルでしかない。カネさえ払えば女性に何をしてもいいという発想が狂っている。

この騒動の最もつらいところは、女性をあくまでも性の道具としてしか見ていない、その価値観がこともあろうに人権を守ってくれるはずの弁護士や政治家に許されている日本社会の人権意識の稚拙さそのものだと思う。
某政治家だけじゃない。彼の発言が国際社会から批判されていることだけを問題視したり、慰安婦問題の正当化を擁護したり批判したりするだけで、ほんとうはどこが間違っているか見ようとしない、我が身に置き換えて考えない、そういう社会そのものが、とても恐ろしく、悲しく思う。

「慰安婦」Q&A アクティブ・ミュージアム

関連レビュー:
『セックス・トラフィック』
『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』 今枝仁著
『ハーフ・ザ・スカイ 彼女たちが世界の希望に変わるまで』 ニコラス・D・クリストフ/シェリル・ウーダン著

5月の福島

2013年05月13日 | 復興支援レポート
11日の月命日に、福島県沿岸での捜索活動に参加してきた。

先月と同じように、海岸を歩いて、砂や津波で崩壊したテトラポットの中に遺骨や遺物がないか捜す。
午前中は南相馬市萱浜から南へ歩いて捜し、昼食をはさんで午後は萱浜で埋もれたテトラポットの隙間を掘って探した。
昼に降り出した雨が激しくなってきたので、14時46分の黙祷の後、解散。

砂浜には大きな漂着物はほとんどなく、一見きれいにみえるが、実際に歩いてみると服や靴などの生活雑貨や漁具や自動車部品や流木など、津波の細かな残骸がいたるところに埋もれている。
津波にさらわれて沈んだモノが波に洗われ、くだけ、朽ちて小さく軽くなって打ち上げられてくるのだろうか。
それをひとつひとつ検分し、砂を掘って、波に寄せられた砂浜の中に埋もれたものがないか捜した。
砂浜は淡褐色のきれいな砂の下数ミリのところからは黒く、津波で海底から巻き上げられた大きな石とヘドロが混じりあって堆積している。石はこぶし大のものから子どもの頭ほどもあるくらいの大きさで、シャベルで砂ごと取り除くのは難しい。なので、手で石を掘り出してはシャベルで砂を掘り、シャベルを置いてまた石をつかみ出すという作業をひたすらやっていた。
ヘドロは打ち上げられて2年経っていてもしっかりとヘドロの臭いがする。すぐに鼻が慣れるので臭くはないが、掘っている手袋が油のような汁でべとべとになる。

といっても広い広い砂浜で、そうそう遺骨が見つかるものではない。文字通り砂中の針を探すような気の遠くなるような作業だ。
でもやらないわけにはいかない。まだ見つかっていない人がいて、帰りを待っている人がいるから。彼らにとって、その日々に終わりはない。

今回はあいにくの天候だったけど、それでも新緑の福島はおとぎ話のように美しい。
空にはヒバリのさえずりが響き、目にも鮮やかな緑の野原にはたんぽぽや菜の花やチューリップ、ナズナやしろつめくさやポピーやカラスノエンドウが一面に咲き乱れ、遅咲きの山桜と萌えはじめた木の芽でパステルカラーに煙る山々を、雨雲が音もなくゆっくりと這い登っていく。
静かで、穏やかで、そして命の輝きに満ちている。たとえ放射能に汚染されていても、美しいものはやはり美しい。
美しいから悲しい風景もある。5月の福島。


南相馬市萱浜にて。

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消えた女

2013年05月05日 | movie
『バルカン超特急』
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イギリスでの婚礼を間近に控えたアメリカ人・アイリス(マーガレット・ロックウッド)は友人たちとバルカン半島のバンドリカ(架空国)で独身最後の休暇を過ごす。帰国前夜に雪崩で列車が運休し、たまたま宿泊したホテルでミス・フロイ(メイ・ウィッティ)というイギリス人の老音楽教師と親しくなり帰路をともにするが、彼女は走る列車内で忽然と姿を消す。
他の乗客も給仕も彼女を見ていない、知らないと証言する中、アイリスはやはりホテルで知りあったイギリス出身の音楽研究家ギルバート(マイケル・レッドグレイヴ)とミス・フロイを探し始める。
1938年に公開されたヒッチコックのイギリス時代最終期のヒット作。

こういうクラシック映画を観るといつも、一生懸命レタリングをやっていた子ども時代を思い出す。
昔はみんな手でフォントをコピーして、それをフィルムに焼き付けてグラフィックデザインに使ったんだよね。この当時の映画のクレジットもみんな手描きだった。手描きのレタリングなんて今は誰も勉強してないのかな。
閑話休題。
ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発したのが1939年。でもナチスのヨーロッパ侵略はそれよりも前に始まっていて、1937年には日中戦争が始まっている。世界中がファシズムの暴力に巻き込まれていった、暗い時代だった。
映画はこの時代背景をうまく利用して、シンプルだが二転三転とストーリーが何度も転換する娯楽サスペンスに仕上げている。走行中の列車内という限られた舞台で登場人物もごく少人数だけど、イギリス人・イタリア人・アメリカ人の民族性も辛辣に風刺してあったり、互いの人種的な偏見や社会信条など価値観の違いも実に巧みに演出に織り込んである。ナチスの描写がメチャクチャ勧善懲悪という感じなのはまあしょうがない。要は社会派ドラマじゃなくて娯楽映画というジャンルに徹底している。

この映画のメイン・プロットである「主人公が探す人物を主人公以外の誰も知らない」というギミック。アイリスはたまたま乗り合わせた精神科医のハーツ(ポール・ルーカス)に精神病だとまで決めつけられ、どんどん孤立していく。
このメイン・プロットに入るまでのプロローグがものすごく丁寧で、上映時間97分中、主人公たちが乗車する列車が発車するまで26分、ミス・フロイが画面から消えるまで32分もかかっている。ひらたくいえば、本筋とはまったく関係のない前段のパートが、映画の前半3分の1近くを占めているわけである。ここがこの映画のミソだ。
メインの舞台が列車の車内では、作中の背景がほとんどずっと同じということになってしまうし、モノクロ映画で全編同じシチュエーションでは登場人物の人物造形の差異を表現するのはけっこう難しい。このためにヒッチコックはわざわざ雪崩を起して北国の山村のホテルに登場人物たちを一泊させ、日常的な悪天候下での観光客同士のディスコミュニケーションという些細なトラブルを組み合わせることで、観客に彼らそれぞれのキャラクターを印象づけ、互いの関係を構成している。しかもそれがいちいち笑える。クラシック映画の職人芸です。

あとこの映画の背景になるのがもうひとつ、女性の社会的地位の低さである。
おそらく、行方不明になったのが男性で彼を探しているのも男性であるなら、この物語はまったく別のものになったはずだと思う。感情的になった女性を真面目に相手にする意味はない、という当時の女性蔑視があって初めて成り立つ物語でもある。とくに主人公たちと同じ列車に乗り合わせた不倫旅行中の弁護士カップル(セシル・パーカー/リンデン・トラヴァース)のやりとりと彼らの結末に、この不条理が如実に表現されている。
現実に第二次世界大戦下で諜報活動をした女性は存在するが、映画や小説の題材にはなりこそすれ、実際には戦果にめだった貢献をしたと評価される人物は歴史上にはほとんどいない。だからこそ、この物語でもなぜミス・フロイが狙われたのかという点は極力重要視されないように注意深く描写されている。アイリスたちが彼女を助けようと奔走する動機を、愛国心も戦争も関わりない純粋な正義感とすることで、どんな観客も共感しやすくなっている。

この映画を撮ってまもなくヒッチコックはハリウッドに活動の場を移したけど、実をいえばぐりがこれまでに観たヒッチコック作品はハリウッド時代のものばかり。日本ではイギリス時代の作品はほとんど観れないし。今後もっと観れるようになるといいんだけど。もうパブリックドメインになってるしね。テレビでもどんどん放送してほしいなあ。
しかし作中のイタリア語がやたら強烈に訛っててそれが超気になり。イタリア人俳優が不足してたのかしらん。