落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

I wanna sail away

2017年06月29日 | movie
『わたしは、ダニエル・ブレイク』

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心疾患で休職を余儀なくされたうえに、療養手当の審査でも不適格とされた大工のダニエル(デイヴ・ジョーンズ)。
福祉局窓口で係員と衝突していたシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)と出会い、見かねてサポートを申し出るが、援助が必要なのはダニエルの方だった。
人が人の尊厳を自らまもろうとするための厳しい闘いを、巨匠ケン・ローチが描く。

2017年4月時点で日本の完全失業率は2.8%(総務省調べ)。うち失業手当を受給している人はここ数年は50〜70万人(独立行政法人労働政策研究・研修機構調べ)。ちなみにこの数字は実際の失業者(求職者)の2割程度である。生活保護受給世帯数は2016年1月時点で162万世帯(厚生労働省調べ)。
このブログを読んでいる人のうち、いったいどのくらいの人がこの手の公的扶助を受けたことがあるかはわからないけど、日本の労働人口に照らせば(約6400万人。総務省調べ)、少なくとも1%以上の人が失業保険を受給している計算になる。実際にはいま受給してなくても過去に受給したことがある人もいるから、経験者はもっとたくさんいるだろう。私ももちろん経験者です。
何がいいたいかっていうと、この手の申請がとにかくむちゃくちゃ煩雑でめんどくさくてしんどいってこと。なんでだろうね。まあ日本の職安は親切なほうだとは思うけど、それでもニートが77万人(厚生労働省調べ)もいるってことは、それだけ給付の申請を含めて求職活動が簡単じゃないってことなのかもしれない。
確かに公的扶助の財源は限られてるから、誰にでもほいほいと簡単にあげちゃうわけにはいかないから、審査や手続きがこまかくなるのはある程度しかたがないのかもしれない。でも、現状をちらりとでも覗きみれば、ほんとうに支援が必要な人にはぜんぜん行き渡っていない。たとえば障害者年金を受給していない障害者は全体の半数以上といわれている。いわれている、というのはデータがない。行政が調べてない。調べる気がないからである。生活保護にしても、審査が厳しすぎる、周囲の目がこわいなどの理由で受給できない貧困家庭も多い。
世間では不正受給の話題ばかり注目されがちだけど、ほんとは誰だっていつなんどきそんな支援が必要な立場になるかわからない。だからこそ、互いに支えあって人としての尊厳をまもるための制度なのに。

この映画のなかでは、そうした制度の不条理についてはいっさい触れていない。
完全に困窮者側、つまりダニエルやケイティ側だけに視点を絞って、うけるべき援助が受けられない人の身に何が起こるかを、ストレートに明確に描いている。
ケイティは福祉局に紹介されてロンドンから北東部のニューカッスルまで引っ越してくるが、その距離、実に約450キロ。日本で比較すれば東京ー京都、東京ー仙台ぐらいのレベルである。いくら公的扶助で保障された物件とはいえ、土地勘もなく家族も知りあいもいない、アクセントさえ違うところに幼子ふたり抱えた女性をひとりで放り込む時点でおかしい。
生活保護がおりなければ子どもを食べさせることはできない。大都会ロンドンならいざしらず、人口30万人足らずのニューカッスル(日本でいうと函館市、下関市、青森市と似たレベル)で、育児のために長時間労働を避けながら働ける求人をみつけるのも容易ではない。案の定ケイティはどんどん追いつめられていく。
一方、ダニエルは医師から仕事をとめられているにもかかわらず、療養手当審査では「就業可能」と判断され受給できない。不服なら申し立てをせよといわれるが、これまた手続きが煩雑でなかなか前に進まない。しかたなく失業手当の申請をするが、こちらは求職活動を証明しなければ受給できない。仕事ができないのに求職活動をしなくてはならない矛盾。

ダニエルは亡き妻を介護しながら30年以上まじめに働いて税金を納めてきた。ケイティは手のかかる小さな子どもをひとりで必死に育てている。
ふたりとも決して弱い人ではない。むしろまっすぐで強い人々である。
その彼らが、制度の矛盾にたたきのめされ、いためつけられ、ふみつけにされてボロボロになり、人としての尊厳を失っていく。そうして尊厳を損なった人がどこへ流れ、その先に何があるのか、制度をまもる側の行政にはそこまで考える義務があるはずだろうと思うのだが、現実にはその点ではいくらでも無責任になれるのが行政というものである。
物語にはそうした制度からドロップアウトして、完全に社会のシステムに反抗して生きようとする人々の姿も描かれる。ダニエルの隣人でスニーカーを並行輸入して売ろうとするチャイナ(ケマ・シカズウェ)たちである。彼らとの交流と、あくまでもタフであろうとつっぱらかるザ・頑固親父ダニエルのキャラクターがコミカルで、シリアスな話なのに楽しんで観られる明るい映画になっている。
でないとしんどすぎてちょっと観てられないです。めちゃめちゃ身につまされ過ぎて。

ていうかこれはイギリスの観客にはどう感じるのかが気になりました。
個人的にはこれを日本映画でやられたら本気で観てられないかもしれないから。
それくらいシビアでした。

ケン・ローチ作品レビュー
『天使の分け前』
『この自由な世界で』
『麦の穂をゆらす風』

メモ:
"I am not a client, a customer, nor a service user. "I am not a shirker, a scrounger, a beggar, nor a thief. "I'm not a National Insurance Number or blip on a screen. "I paid my dues, never a penny short, and proud to do so. "I don't tug the forelock, but look my neighbour in the eye and help him if I can. "I don't accept or seek charity. "My name is Daniel Blake. I am a man, not a dog. "As such, I demand my rights. "I demand you treat me with respect. "I, Daniel Blake, am a citizen, "nothing more and nothing less."



インターホン

2017年06月29日 | movie
『セールスマン』

自宅マンションの壁が崩落し、急遽劇団仲間に紹介された物件に転居したエマッド(シャハブ・ホセイニ)とラナ(タラネ・アリドゥスティ)。
ある夜、夫の帰りを待つ間に入浴していた妻が暴漢に襲われて怪我をしてしまう。身体だけでなく心にも深い傷を負い、不安定になるラナのために犯人を探しまわるエマッドだったが・・・。
2016年アカデミー賞外国語映画賞を受賞したイランの心理サスペンス。

タイトルの『セールスマン』(原題・英題も同意)はアーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』に因む。
主人公夫婦は小さな劇団の俳優で、ちょうどこの『セールスマンの死』の上演準備中に災難に遭ってしまう。
ただでさえ余裕のないとき。ふだんならもっと慎重になれたり、優しくなれたり、要領よくたちまわれたりするはずなのに、たまたまそれができない、本来の自分ではいられないとき、気づかないうちに人間関係はどんどんもろくなっていってしまう。
いやあるいは、もろくなるからこそ、互いのほんとうの姿形が意外な側面から照らし出されるのかもしれない。
そういう意味では、ものすごくイヤな話です。

とにかく全編めちゃめちゃ生々しい。
イランの映画だが、描かれている物語そのものはどこで起こってもおかしくない。とくに文化風土や時代背景に左右されない、非常に普遍的な世界観で描かれている。
なにしろ留守宅のバスルームで起きた事実が、誰にも明確にはわからないまま話が転がっていってしまうからだ。
まず主人公エマッドが帰宅したとき、妻は隣人たちの手ですでに病院に運ばれた後だった。目撃者たちによれば「死んでると思った」ほど現場は凄惨だったというが、ラナ自身は何が起きたのかよく覚えていない。彼らは無論、実行犯の姿は見ていない。
何が起きたのかわからないからこそ、第三者の間では憶測が憶測を呼び、ラナ自身の心の傷もエマッドの混乱も深まっていく。
そこで気づくのは、こんなときにとるべき態度、もつべき心持ちに正解などないことに、いつのどの時代も変わりはないということだ。
すぐそばにいて、ずっといっしょにいて、いちばんわかりあえている、互いを誰よりも受け入れあっていると信じていたのに、何もかもが恐ろしく心細いときにどうすれば支えあえるのか、決定的な解決策なんかどこにもない瞬間。

エマッドはその正解を「加害者をみつけだして自ら罰すること」と見定めて行動を起こす。
彼らは事件を警察に届け出てはいないのだが、これも実際どこの国でもよくある話ではないだろうか。女性がひとりで在宅中、それも入浴中に誰かに怪我をさせられた。騒ぎ立てたくない、騒いだところで何も解決しない、そっとしておいてほしいと考える人も少なくないはずである。日本でも性暴力の被害を届け出る当事者はわずか18.5%に留まっている(法務総合研究所「第4回犯罪被害実態(暗数)調査。2014年度)。届け出て報道されれば世間の知るところとなるが、知られない残りの被害者にとっても、起きてしまったことは二度となかったことにはできない。そしてその傷は本人だけでなく、その周囲にいる人々の心も浸食していく。
どうして自分が、自分の家庭が、友人たちがこんなめに遭わなくてはならないのだろう。誰でも理不尽に感じて当然である。できることならなかったことにしたい、事件が起こってしまう前の状況に元通りにしたいと、誰もが思うだろう。だから、エマッドの暴走も加害者への怒りも、もちろんよくわかる。
だがその行動が、ほんとうに問題解決の糸口になるかどうかはまたまったく別の話である。そこのその結末が、『セールスマンの死』の終幕につながっていく。

名匠アスガー・ファルハディ監督の旧作『別離』『ある過去の行方』も観たいみたいと思っているうちに見逃してしまってたので、今回観られて非常に満足しました。
いやそれにしても生々しかった。
あとストーリーがどっちにどう転がってくのかが全然読めなくて、最後の最後まで超ハラハラしました。
最小限度の音楽と緻密な音響設計、細部まで計算された照明や美術にもいっさい無駄がなくて、ものすごく完成度の高い映像作品。ここまできたらもう工芸品の域に達してるんじゃないかと思うくらい細かいです。
やっぱりどうにかして旧作を観なくては。

関連記事:
『性犯罪被害にあうということ』 小林美佳著
『ペルセポリス』



蒼い瞳の子どもたち

2017年06月24日 | movie
『ヒトラーの忘れもの』

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1945年、デンマーク。
ラスムスン軍曹(ローラン・ムラ)はユトランド半島の海岸線にナチスが埋設した150万の地雷を除去するよう指示されたドイツ兵捕虜を指揮するが、14名全員が年端もいかない少年兵ばかり。常に爆発事故の危険にさらされながら続けられる作業の緊迫感と、満足な補給も休息もない過酷な状況下で、子どもたちは3ヶ月後の計画終了と帰郷を心待ちに、日々を堪え忍ぶのだが・・・。
デンマークでも語られてこなかった負の歴史の史実をもとにしたドイツとの合作映画。

戦争を始めるのは簡単だけど、終わるのはとても難しい。
そして始める人間は大抵ずっと安全なところにいて、終わらせる任務を担う人間は常に生命の危機に瀕している。
人が民族という共同体を形成し、宗教や言語の壁を挟んで争うようになった遥か過去から、その真理は不変のままだ。
この物語でその犠牲者になるのは、いまでいえばせいぜい中学生ぐらいの少年たちである。みるからにあどけなくおどおどと頼りない彼らが、明けても暮れても毎日毎日砂浜に這いつくばって震える手で地面の下の地雷を探り、掘り返して処理するシーンが延々続く。
台詞は無茶苦茶少ないし、音楽もほとんど使用されない。聞こえるのは吹きすさぶ海風の音と、軍曹の厳しい命令の声ぐらいなものである。
落ち着きません。こんなに落ち着かない映画があるもんかってくらい、究極に落ち着かない。

それでもこの映画が美しいのは、北欧映画独特の色あいと光に満ちた圧倒的な映像美によるものだろう。
季節設定が5〜8月で日が長く、軍曹が「寝ろ」と命じる消灯時間でも辺りはかんかん照りの真昼の明るさである。彼らが任務に就く海辺には軍曹が下宿する小さな農家がたった一軒、雪のように白い砂浜が広がる海岸線はつるりとまっすぐで、そこに青い波がはたはたと穏やかに打ち寄せている。
もうむちゃくちゃ綺麗です。すんごい綺麗。絵のようななんて陳腐な表現しか思いつけないのが残念だけど、ほんとにアンドリュー・ワイエスの絵みたいなんだよね。燃えさかるように明るいのに寂しげで、悲しいほど荒涼としているのに叙情的。
そこで働く子どもたちはみんなぼろぼろに疲れてよごれてるんだけど、それでもとてもかわいい。冒頭、暗い軍用トラックの座席で、彼らの蒼い瞳がキラキラと光る場面がある。ひとことの台詞もない陰鬱なそのシークエンスから、年齢も風貌もそれぞれ違う子どもたちの、どれほど惨めな状況でもほとばしる無垢な魂の輝きと滴るような生命力が、画面の向こうから胸に直に突き刺さってくる。
どうしてこんな小さな子どもが、残虐な戦争の尻拭いをしなければならないのか。どんな大義名分もどこにも残っていないのに。どうして彼らを、誰もまもってくれなかったんだろう。

軍曹は子どもたちをあくまでも捕虜として冷徹に指揮する。その態度には一片の呵責もない。なにしろ子どもたちは彼の部下ですらない。餓死しようが爆死しようがいっこうに構わない。
子どもとはいえ彼らはナチス・ドイツの兵士である。デンマークはドイツと交戦はしなかったが、1940年から5年の間占領され軍政下に置かれていた。紛うかたなき敵であることに間違いはない。
だが世の中のしくみと人の感情とはべつもので、下宿先の農婦母子以外に外部との接触が極端に少ない閉鎖的な環境の中で、じわじわと軍曹の思いも変化していく。揺れ動き、葛藤しながら、軍人ではなく人の心をとりもどしていく彼の辿る道が、この物語の軸にもなっている。
そりゃそうです。だって戦争はもう終わってるんだもん。軍人としてどうこうより、人としてどうありたいかの方が大事に決まっている。

地雷除去の話なのでもちろん爆発事故のシーンは何度かあるが、子ども中心の作品のせいか流血表現が極端に少なく、誰でも安心して観られる画面になってます。
ていうかこれ観ちゃうと、暴力の再現性と流血表現はいっさい無関係なんだなってことがすっごくよくわかる。血なんか出なくても負傷者や死者が映らなくても(まったく映ってないこともないけど)、じゅうぶん怖いもん。
誰が加害者で誰が被害者でとか、何が正しくて何が間違っててなんていう勧善懲悪じゃなく、ただただ戦争がどれほど非人間的なものかを、少人数の子どもたちばかりの言葉も少ないシンプルなストーリーで見事に再現した傑作。
戦争映画っていくら観てもどうしても好きになれないけど、これはほんとうに観てよかったです。



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『ある愛の風景』
『ボーフォート ─レバノンからの撤退─』
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