落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ほんとの復興のはじめの一歩

2017年05月28日 | 復興支援レポート
第1回 小さな命の意味を考える勉強会
大川伝承の会第5回語り部ガイド



そこを訪れるたびに思い出す風景がある。
堤防が切れて、自衛隊が整備した川面すれすれの砂利の道路。地盤沈下して辺り一面海水に浸りヘドロに埋もれた田んぼと、瓦礫のなかにぽつんと建った校舎。
2011年4月末ごろの、大川小学校だ(3月末の様子。1ヶ月後もほとんどこのままの状態だった)。
見渡す限り黄土色一色、動くものは何もなく、音もなかった。
それはSF映画のなかの世紀末か、異星の風景のようだった。

津波に襲われる前、学校の周りには住宅街があった。郵便局があって、病院があって、公民館があって、お寺があった。
そこには代々暮してきた人たちの生活があったのだ。
それを、津波は一瞬にしてすべて奪い去った。
ひとつ残らず、跡形もなく。

現在、この釜谷地区に人は住んでいない。その先の海沿いの長面にも、川上側の間垣にも、ほとんど住民は戻らなかった。
だが漁業は続いているし、あのとき津波をかぶってしまった田んぼにもちゃんと稲が植えられて、閉校になった大川中学校の跡地には太陽光発電所と水耕栽培のハウスができている。
もとには戻らなくても、前に進んではいるのだ。

6年目にして1回目の今回の勉強会には、定員30人に50人以上の申込があったという。メディアも一通りメジャーもローカルも顔を揃えていた。
正直そこまでとは思わず会場に入って驚きました。だって石巻市内ったって中心部からはクルマで30分離れた場所で、終バスだって6時台という不便な会場までわざわざいくなんて、自分でもちょっとどうかと思ったもん。
とはいえ地元で地域の方々やご遺族の方々も大勢顔を揃えた中での会合だから、第1回で概要と軽い質疑応答だけとはいえ、話は自然に熱くなる。情報そのものとしてはメインスピーカーも同じ3月の講演会や各資料でこれまでに把握していた以上の要素はそれほどなかったけれど(あってもここに具体的に書くわけにはいかない)、やはり環境も違い、スピーカーも違えば、当事者の抱いている感情が抑圧された中からも非常にストレートに伝わってくる。
よく東北の人は我慢強いというけれど、それは厳しく自己を律しているからであって、抑えた感情の熱さ深さは他人事として見過ごせるものではない。

子どもを亡くした親として、真実が知りたい。
どうして先生たちは子どもたちを連れて山に登ってくれなかったのだろう。
どうして50分も校庭にじっとしていたのだろう。
実際、近隣の他校はみんな山に登って助かったのに、どうして大川小学校だけこんなことになってしまったんだろう。
そこで何が起きていたのか、少なくとも5人の生存者は事実を知っている。何が間違っていたのかはわかっている。それを認めてほしい。
たったそれだけの当たり前の気持ちを、学校も行政もうけとめてはくれなかった。あまつさえ無視したり、騙したり、誤摩化したりした。
それがどれほど悔しく、悲しく、情けないことか、残念ながらわたしには想像がつかない。想像できるとはとてもいえない。

その根底にあるのは、大川小学校だけでない、日本全国どこででも起きている学校での事故や事件ととてもよく似た構図である。
慣例に異様にこだわる官僚主義。事なかれ主義。危機管理意識の致命的な甘さ。そして隠蔽体質(例:一橋大学法科大学院アウティング事件裁判)。
誰も過ちを認めず、責任も決してとらない。仕方がなかった、想定外だったというその一点張りで何もかもチャラにしようとする。

だが、この期に及んでこの大惨事でそれを許すわけにはいかないのだ。
ゆるしてしまったら、いつか必ず同じことがまた起きてしまう。
敏郎先生は津波直後の大川小学校の情景を指して、「これはこの世の終わりじゃない。始まりなんです。ここから始めなきゃいけないんです」とおっしゃった。
二度とこんなことを起こさない未来を、この大川小学校から始めなくてはならないのだ。
そのことを、少なくともここに来た人すべてに、少しでも実感してもらいたいとわたし自身も、強く思いました。

ところでケータイのメールや履歴って、本体から消したら二度と戻んないもんなのかね?
ログってどっかにないのかな?
しかし消したってことは絶対「消さなきゃいけない理由」が何かあったってことだよね?確実にさ。やましくなきゃ消す必要ないもんね。
最近ホントにこんな話、多いね。はあ。


関連記事:
講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著


大川小学校の高学年の校舎。1階が家庭科や図工や理科の特別教室で、2階が一般の教室だった。
最近になってこの建物を設計した建築家が現地を訪問し、被害状況から津波がどれだけの力で学校を押しつぶしたのか計算してくれたそうだ。


復興支援レポート



In Moonlight Black Boys Look Blue

2017年05月22日 | movie
『ムーンライト』

フロリダ州マイアミ、リバティ・スクエア。
ドラッグディーラーのリーダー・フアン(マハーシャラ・アリ)と危険な地区の廃屋でであった小学生・シャロン(アレックス・ヒバート)。内向的で友人もたったひとり、唯一の家族は薬物や売春に多忙な母という孤独な境遇のなかで、フアンとガールフレンド・テレサ(ジャネール・モネイ)との友情に癒しを見出すのだが・・・。
第74回ゴールデン・グローブ賞映画部門作品賞、第89回アカデミー賞作品賞、助演男優賞(マハーシャラ・アリ)、脚色賞を受賞。

ジェームズ・ボールドウィンの『もう一つの国』を思い出す。偉大な先人たちが苛烈な差別と戦っていたころの物語。
あれから50年が経った。世界はどう変わっただろう。
あいかわらず人は人を差別しているし、暴力は続いている。毎日どこかでうまれている子どもたちはみんな祝福されているはずなのに、迎える世界はいつまでたってもちっともよくならない。
感情を出さずほとんど喋りもしないシャロンの繊細な相貌は、そんな世界を堪えようとする鎧の仮面のようにもみえる。
アフリカ系というだけでなく、母子家庭でしかもゲイという多重のマイノリティであるアイデンティティを背負った小さなシャロン。望んでそんな境遇にうまれてくる子どもなんていない。そんな現実をどうすればサバイブできるのか指南してくれる人もいない。
ただその過酷さを、問わず語りに慮ることができる人はいる。たとえそれが売人でも、少年にとっては救いだった。

ちゃんと数えたことはないけど、いままでだいたい3,000本程度映画を観てきて、おそらく初めて目にするタイプの映画じゃないかと思う。
完全に主人公主観の映画なら他にもあるだろうけど、それでもここまで静かに深く共感させられた作品はこれまでなかった気がする。
寂しい。どうすればいいのかわからない。家の中にも学校にも居場所がない。他人と違うことの何がいけないのかもわからない。誰を信じればいいのかわからない。絶対に他人にはいえない秘密の重さ。どこにいっても、ひとりぼっち。
背が伸びて大人になっても、ひとりぼっちの心細さだけはどうすることもできない。みんな、どこで乗りこえ方を覚えるんだろう。誰が教えてくれるんだろう。

わからないからと破滅的に生きているシャロンと旧友ケヴィン(アンドレ・ホランド)の邂逅はただただ静かに穏やかで、こんな風に心通わせられる存在があるなら生きていてよかったんじゃないかと思えるのは、この物語が映画の中の出来事だからだろうか。
でもほんとうにそうだろうか。心の底から平穏を感じられるその瞬間のために、人はどれだけの懊悩に堪えられるものだろうか。
それとも人に生まれるその運命そのものが、誰もが寂しく心細く、どこから注すのかもわからない光をただ求め続けるものなのだろうか。

手持ちカメラの主観映像に、極度に感覚的な音響設計が印象的な演出で、緻密に構築された背景音によって主人公の心を覆う壁が観客に伝わるしくみになっている。
主人公が自分ではまったくといっていいほど喋らないという設定も非常に効果的。必要最低限しか言葉を発しないから、観ている人間は自分の精神状態を画面の中の男の子に投影する以外にストーリーについていく手段がない。
音楽もとても綺麗だし、ここまで映像作品としての完成度にまったく一片の瑕疵もない傑作はまずなかなかないんではないかと思いました。監督2作目でいきなりオスカーをとったバリー・ジェンキンス監督の次回作にも期待したいと思います。

劇中で、大好きな「Cucurrucucu Paloma」がかかっていた。
もう18年も前に観て、いまも、そして一生忘れ得ないであろう映画『ブエノスアイレス』の挿入曲だった歌だ。

 Dicen que por las noches
 nomás se le iba en puro llorar;
 dicen que no comía,
 nomás se le iba en puro tomar.
 Juran que el mismo cielo
 se estremecía al oír su llanto;
 como sufrió por ella,
 que hasta en su muerte la fue llamando.

 Ay, ay, ay, ay, ay,… cantaba,
 Ay, ay, ay, ay. Ay,… gemía,
 Ay, ay, ay, ay, ay,… cantaba,
 de pasión mortal… moría.

 Que una paloma triste
 muy de mañana le va a cantar,
 a la casita sola,
 con sus puertitas de par en par.
 Juran que esa paloma
 no es otra cosa mas que su alma,
 que todavía la espera
 a que regrese la desdichada.

 Cucurrucucu… paloma,
 Cucurrucucu… no llores,
 las piedras jamás, paloma
 ¡que van a saber de amores!
 Cucurrucucu… cucurrucucu…
 Cucurrucucu… paloma, ya no llores.

月に照らされた夜の浜辺に、波の歌に、いつでも還れると思えるなら、その風景は希望になるのだろうか。
そんな風景が、誰の心にもあればいいのにと、思った。



英語題は「侍女」

2017年05月20日 | movie
『お嬢さん』

人里離れた豪邸で稀覯本蒐集家の叔父(チョ・ジヌン)に閉じ込められて暮す日本人令嬢・秀子(キム・ミニ)に侍女として仕えることになった珠子(キム・テリ)。詐欺師の藤原(ハ・ジョンウ)の計画で、秀子と駆落ちさせ奪った財産を山分けする予定だったが、常に孤独に堪え忍ぶ秀子の境遇に同情した珠子は彼女の美しさに心を動かされ・・・。
サラ・ウォーターズの『荊の城』をパク・チャヌクが日本統治時代の朝鮮を舞台に映画化。

あの傑作『オールド・ボーイ』も10年以上前かあ。光陰矢の如し。とにかくパワフルなドライブ感満載の復讐劇が無茶苦茶おもしろかったことは覚えてるけど、さすがにディテールはもう記憶には残ってない。
で今作もやっぱり復讐の話です。パク・チャヌクは復讐劇専門なの?しかしただの復讐劇ではない。
この映画は三部構成になってるんだけどそれぞれ視点が違っていて、三部が互いに入れ子になるしくみで話が展開していく。一部は侍女目線、二部は令嬢目線、三部は詐欺師目線で、かつこの三者がそれぞれに惹かれあい、欺きあい、報復しあう関係になっている。
いやもうクドい。話がクドいだけじゃない。構造そのものがクドい。コッテコテです。ここまで来たらいっそのこと潔いね。天晴れです。

登場人物の半分以上が日本人の設定なんだけど出演者は全員韓国人俳優だったり(もちろん台詞は訛っている。致し方なし)、舞台が閉鎖的で時代背景が演出上の装置でしかなかったり、いろいろとツッコミどころはあるにせよ、それでもこのクドさと展開の派手さで観客をぐいぐいろひっぱっていくパワーはやはりさすがというしかないです。
だって台詞が変態過ぎるんだよ。この設定、韓国語でこんな台詞喋れないから外国語=日本語にするために統治時代にしただけでしょ。絶対。邦画ではまずあり得ない(というかどこの国の映画でもちょっとこれは無理だろう)ぐらいふりきったど変態ワードのオンパレードです。いや台詞だけじゃないな。もうちょっと凡人には想像つかないぐらいのスーパー変態シーンが全編、とくに中盤以降ギッチギチに詰まってます。はっきりいってドン引きです。
なのに引きつつつい観てしまう。あまりの変態ぶりに笑っちゃいながらも目を背けられない。いってみれば超ハイクオリティな秘宝館を見せられてる感じとでもいいましょうか。なんつっても伝わらないよね。すみません。

ただこの日本統治時代という設定はビジュアル的にはかなり効果的で。
従来の韓国映画のコスチュームプレイというと、家具調度が地味で画面がなんか寂しかったんだよね。今作は前半のほとんどが変態おじさんの豪邸で、建物は日本建築とドイツ風建築の半々、屋内の装飾や庭園も和洋折衷風で、後半は中国の上海影視楽園かな?アールデコ系のオープンセットも出てきたりしてめっちゃ豪華です。秀子さんの衣裳は基本ヴィクトリア朝風の洋装。オシャレ。あとなんでかほとんどのシーンで秀子さんや藤原がいちいち手袋してる。食事時ですら必ずはめてるのがフェティッシュ。
そういうディテールにものすごく凝っていて、視覚的にもコテコテに楽しめる。

ど変態稀覯本マニアをめぐるサスペンスといえばレイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』だけど、リアリズムを追求したチャンドラーとは真逆に、サスペンスにいろんなタイプの衝撃を暴力的に重ねまくるストーリーが、観ていて途中から気持ちよくなってきます。
完全にオーバーフローな変態要素や、究極の三竦み構造がどんどんねじれてくギミックにも驚かされたんだけど、個人的にもっとも度肝を抜かされたのは作品の男女観。
儒教の国であり、アジアの他国と比較しても男尊女卑思想が根強い韓国で、ここまで既成概念をとことん覆した男女観をもつ映画が商業ベースでつくられて評価もされているというところには、ほんとうに心底驚きました。
確かにちょっととんでもない映画だし過剰に露骨な性描写もあるけど、もっとたくさんの人が観るべき作品なんじゃないかと思います。
少なくとも、私は観てよかったし、すごくトクした気持ちになれる映画でした。原作もこれから読んでみたいです。



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助けられた命

2017年05月05日 | lecture
一橋大学アウティング事件裁判経過の報告と共に考える集い

初めてであった性的少数者は高校の美術教師だった。
進学校の受験とは無関係な選択科目の教師だったせいなのか、彼はたまに出欠を取る以外ほとんど授業に出てこなかった。3年間所属した美術部の顧問だったはずだが部活中にもろくに顔をあわせたことがなく、学校行事にも姿はなかった。高校生活で彼と言葉を交わしたのはせいぜい2〜3度だと思う。進路を美大に決めてからも、担任教諭との面談で相談相手として彼の存在が挙ったことすらなかった。
にも関わらず、私は彼が性的少数者であることをごく常識として知っていた。おそらく学校中の誰もが知っていた。奥手で世事に疎くあだ名が“天然記念物”だった私が知ってたくらいだから、知らない者はいなかったのではないだろうか。
しかしそれはおそらく、彼が自らカミングアウトした状況ではなかったのではないかと思う。美術準備室に日がな一日閉じこもり、授業にも部活にも出ず生徒とも他の教職員とも交流しなかった彼が、誰かの前で公然とそう宣言したなどとは考えにくい。だがそれは単なる噂話でもなかった。詳細は控えるが、動かぬ証拠が生徒たちの間で共有されてしまっていたのだ。
あとになってオープンリーゲイの人々とごく当たり前に交流するようになると(進学先が美術系、就職先がマスコミ系/国際組織となると性的少数者の存在は日常になる)、彼のことをよく思い出すようになった。美術を学んだ先輩としてもっと毅然としていてほしかった。生徒たちとの時間をもっと大事にしてほしかった。どうして彼にはそれができなかったのだろう。生意気盛りの子どもたちにあらぬ噂をおもしろ半分にたてられながら、一日中暗幕をひいた美術準備室で、いったい何を思っていたのだろうかと。

一橋アウティング事件は、一橋大学法科大学院の学生が恋愛感情を告白した同性の同級生によってゲイであることを暴露されて精神的に不安定になり、2015年8月に大学構内で転落死した事件である。
この一橋大学のロースクールは1年目の司法試験合格率が約50%と、東大京大よりも高い日本一の合格率を誇る優秀なロースクールだそうで、亡くなったAくんも入学できたときはとても喜んでいたそうだ。
中学のときから「人の役に立つ仕事に就きたい」という夢をもち、礼儀正しくおとなしく、静かだけれど積極的な子どもだったというAくんだが、ゲイであることを家族には一度も相談したことがなかった。2015年4月に同級生のBくんに告白し、6月にBくんによって同級生たちにそのことをバラされて悩んでいたときも、涙を見せながらも「これだけはいえない」といって話さなかった。
この間、Aくんは大学のハラスメント相談室、ロースクールの教授、保健センターでもことの次第を相談している。そのたびに彼はカミングアウトを余儀なくされた。Bくんの顔を見るだけでなく、Bくんが乗っていた自転車を見かけるだけで気分が悪くなった。
ところが相談された大学側はBくんに事実を問いただしたり、ふたりを引き離したりといった具体的な対策をとらず、やがて模擬裁判という「絶対に休めない」授業中、精神的な逃げ場を失ったAくんは自ら命を絶ってしまった。

その日の午後3時過ぎ、Aくんはロースクールの教室が入っている建物の6階のベランダにつかまってぶらさがっていたという。
力尽きて、または諦めてその手を離すまで、彼は何を思っていたのだろう。
少なくとも彼は、激しい孤独に苛まれていたのではないか。
異性愛者だけを「正常」とする世界で、どこにいけばいいのか、どうすればいいのか、まったくわからなくなってしまっていたのではないだろうか。
その激しい孤独と絶望には、性的指向に関わらず誰しも心当たりがあるだろう。世界中に誰ひとり味方のいない寂しさと心細さを、生涯一度たりとも感じたことがない人間などいないはずだ。

Aくんは死ぬ間際に、クラス全体のLINEに「(B/実名)が弁護士になるような法曹界なら、もう自分の理想はこの世界にない」「いままでよくしてくれてありがとう」などと投稿したが、この投稿を遺族は裁判で初めて知ったという。
それまで、クラスメートの誰も、大学側さえも、遺族に何のコンタクトもしていなかったのだ。唯一、Aくんに貸したスターウォーズのDVDを回収にきた学生がひとりいただけだった。
大学側は遺族への説明に弁護士が同席するときいて一方的に面談をキャンセルし、以後一度も遺族にひとことも何の説明もしていない。
遺族は、愛する我が子がなぜ夢に胸膨らませて入学したロースクールで死ななくてはならなかったのか、ただその事実を知りたいだけである。彼らにはその権利がある。同級生たちと大学側はあくまでそれを黙殺した。蹂躙した。
だから遺族は裁判で明らかにするしかなかったのだ。

アウティングの重大性はおそらく世界中どこでもじゅうぶんに認識が浸透しているとはいえないと思う。残念ながらそれは事実である。私自身どこまで認識しているか自信があるとはいえない。
だがこの事件が起こったのはロースクールだった。大学の言葉を借りるなら「相応の教養と見識があり」「わざわざ人権について教えるべくもない」とする学生が集まり法律のプロを育成する学府が、この人権侵害の現場になったのだ。
では、そもそも大学が学生を「相応の教養と見識があり」「わざわざ人権について教えるべくもない」とする根拠はいったい何なのか。日本の義務教育でまともな性教育が行われなくなって久しい。人権教育など何をかいわんやである。入試で人権や性意識を審査しているとも思えない。現にAくんは生前、同級生が「(同性愛者を)生理的に受けつけない」と発言しているのを耳にしていた。多少なりとも人権意識があるべき人間なら、決して口にしてはいけない言葉である。

発言してしまったものはしかたがない。LINEに投稿してしまったものはしかたがないとしよう。百万歩×∞譲って。人間誰にでも誤りはある。起こってしまった間違いは取り返しがつかない。
だとしても、大学側にも、Bくんにもできることはあった。
なぜならそこはロースクールだったからだ。人権意識があって、性的少数者も含めたマイノリティの権利についての専門知識を備えたスペシャリストがごまんといたのだ。Aくんがどんなに追いつめられていても、彼を助けられるだけのしくみはいくらでもあった。
Aくんを助けることは、絶対に誰にも不可能な「人知を超えた」出来事(大学側の主張)などではなかった。
Aくんの命は救えたのだ。
なのに彼は死んでしまった。
そして事件は隠蔽され、同じ一橋の学生にすら知られることがなかった。
ご遺族が裁判を起すまで。

シンポジウムでは裁判の原告代理人弁護士である南和行氏がファシリテーターとして裁判の経過を報告、今回のシンポジウム開催に尽力した鈴木賢氏(明治大学教授)の基調講演があり、裁判を支援する方々が合間に発言をされ、遺族のインタビュー動画の上映があって、その後に木村草太氏(首都大学東京教授)・原ミナ汰氏(NPO共生ネット代表理事)・横山美栄子氏(広島大学教授)のパネルディスカッションがあり、ぜんぶで3時間という長丁場だったので個々の発言の詳細については割愛するが、なかで非常に印象的だったのは、鈴木教授の講演で紹介された台湾の事例である。
2000年4月、葉永[金志]くんという15歳の男の子が学校のトイレで血を流しているのが見つかり、その後病院で亡くなった。葉くんは口調や挙措動作が女の子っぽいことでいじめをうけていて休み時間にトイレに行けず、いつも授業中に教師の許可を得てトイレに行っていたという。しかし学校は警察の捜査が始まる前に現場の血を洗い流したり、葉くんが病気で亡くなったかのような証言をしたり隠蔽工作を重ね、結果的に校長を含む学校関係者3名が業務上過失致死罪で有罪判決を受けた。葉くんの死から4年後の2004年には性別平等教育法が制定され、現在では性的指向についての教師用指導ガイドや同性愛についての教材、小中学校の教師を対象とした教育セミナーまで整備されているという。葉くんはかえってこないが、彼の犠牲が台湾社会を大きく動かしたのだ。

Aくんの犠牲を無駄にせず、この裁判で社会を変えなければならないと、登壇者は口を揃えていっていた。いま変えなければ、悲劇は繰り返されてしまう。
木村草太教授は「この裁判は判例集に必ず掲載される重大な判例になる。必ず勝たなくてはならない」と強い口調でおっしゃった。これは性的少数者だけの問題じゃない。いじめ(=離脱可能性のない空間(例:模擬裁判の授業)の危険性)の問題でもある。いじめの裁判ならいままでたくさんあった。これまで積み重ねてきた愚を繰返し、人は学ばない生き物だということを証明し続けるのでは何の意味もない。
もし裁判官が一橋大学法科大学院と同じ見識だとすれば一審では負けるかもしれない。でも絶対に控訴します。だからずっと関心を持って、忘れないで支援してほしいと、南さんとパートナーの吉田昌史弁護士は力強く訴えておられた。
都合があえば、裁判の傍聴にも是非行きたいと思います。

大阪でオープンリーゲイの弁護士として活動されている南さんと吉田さんのお話は前から聞いてみたかったし、ツイッターをいつも見ている(TVは観ないので)木村教授の話も聞けて、またパネリストの人選もこれ以上ないくらいばっちりで、非常に質の高い、身の詰まったシンポジウムでした。
定員200名の会場に300人以上来ていて、会場に入れずに廊下で聞いてる人までいました。参加できてほんとによかったです。

一橋大学ロースクールでのアウティング転落事件〜原告代理人弁護士に聞く、問題の全容 | Letibee Life
一橋大アウティング裁判で経過報告…遺族「誰か一人でも寄り添ってくれていたら」

セクシュアリティ、ジェンダー関連のレビュー・記事一覧

山の日本人

2017年05月03日 | movie
『哭声/コクソン』

山間の田舎町・谷城で突如頻発しはじめた一家惨殺事件を捜査する警官ジョング(クァク・ドウォン)は、山の中にひそんでいる謎の日本人(國村隼)が怪しいという噂をききつける。一方で毒キノコの幻覚作用が原因という報道も流れるなか、捜査が進展しないうちに娘ヒョジン(キム・ファニ)の身体にも異変が表れはじめ、ジョングは義母の勧めるまま高名な祈祷師(ファン・ジョンミン)を招くのだが・・・。
國村隼が青龍映画賞男優助演賞を受賞したことでも話題のスリラー。

主人公が警官(警察組織に属する人物)という設定の映画は世界中でつくられてるけど、たいていのその設定の大前提は“主人公=正義”だ。
警察は市民の安全と社会の秩序をまもるための組織である。彼らが依って立つのは法、つまり市民と国家の合意に基づいて形成された論理による社会契約である。
だが現実の世の中ではそうした基本概念がしばしばおざなりにされる。誰かが必要とする「敵」が設定され、その「敵」を排除するために「正義」を行使することが正当化される。法に基づく根拠の証明は後回しになり、そこで法はただの道具でしかなくなる。正義を保証するのは、しばしば多数決の感情論になる。
この映画は、それをスリラーという形で娯楽映画化している。なかなかチャレンジングです。

まずおもしろいのが主人公がさっぱり活躍しない。本人も活躍する気がない。そもそものどかな平和な村の警官だから、おそらくふだんは村人同士の些細なご近所トラブルやこそ泥を相手にする程度の仕事しかしていないのだろう。一家惨殺事件なんて捜査できるスキルなんかない。事件の規模としても、ちゃんと科学捜査ができる中央警察に任せればいいし、自分には出る幕などないと思いこんでいる。
ところが娘の身に異常が起こってしまってからはそんな平静も保てなくなる。とにかく一刻も早く、自分の手でなんとかしなくてはと思いこんで対策に奔走し始めるのだが、その対策に根拠がない。家族がこういった、近所の人がああいった、単純に身近な人々にいわれたことだけを鵜呑みにして、自分の頭では考えずに流されていく。それで自身では解決を目指しているつもりになっている。

スリラー映画なので、当然主人公の思惑通りには物事は運ばないのだが、韓国映画の特色であるクドさがここでも大炸裂です。
主人公が振りまわされるどんでん返しにつぐどんでん返しが、これでもかととにかくしつこくクドく繰り返される。途中からはもう何が何だか観客もワケがわからなくなる。
たぶん意図としてはそこにあるんだろうね。ホラ、わかんないでしょ。わかんないのによく考えもせずに「敵」を「排除」するってこういうことだよ。それってただの暴力じゃん。暴力で解決なんかしっこないよ。勝手に「敵」を決めて「排除」し始めたとき、ほんとうの敵は己の心の中にある。ほんとうに恐ろしいのはそれに気づかない、気づいていて知らないふりをしてしまう人間の愚かさなのだ。

ふだんスリラーってなかなか自分から観ることがないけど、図らずも韓国映画のコシの強さを再認識しました。
おもしろかったです。