第1回 小さな命の意味を考える勉強会
大川伝承の会第5回語り部ガイド
そこを訪れるたびに思い出す風景がある。
堤防が切れて、自衛隊が整備した川面すれすれの砂利の道路。地盤沈下して辺り一面海水に浸りヘドロに埋もれた田んぼと、瓦礫のなかにぽつんと建った校舎。
2011年4月末ごろの、大川小学校だ(3月末の様子。1ヶ月後もほとんどこのままの状態だった)。
見渡す限り黄土色一色、動くものは何もなく、音もなかった。
それはSF映画のなかの世紀末か、異星の風景のようだった。
津波に襲われる前、学校の周りには住宅街があった。郵便局があって、病院があって、公民館があって、お寺があった。
そこには代々暮してきた人たちの生活があったのだ。
それを、津波は一瞬にしてすべて奪い去った。
ひとつ残らず、跡形もなく。
現在、この釜谷地区に人は住んでいない。その先の海沿いの長面にも、川上側の間垣にも、ほとんど住民は戻らなかった。
だが漁業は続いているし、あのとき津波をかぶってしまった田んぼにもちゃんと稲が植えられて、閉校になった大川中学校の跡地には太陽光発電所と水耕栽培のハウスができている。
もとには戻らなくても、前に進んではいるのだ。
6年目にして1回目の今回の勉強会には、定員30人に50人以上の申込があったという。メディアも一通りメジャーもローカルも顔を揃えていた。
正直そこまでとは思わず会場に入って驚きました。だって石巻市内ったって中心部からはクルマで30分離れた場所で、終バスだって6時台という不便な会場までわざわざいくなんて、自分でもちょっとどうかと思ったもん。
とはいえ地元で地域の方々やご遺族の方々も大勢顔を揃えた中での会合だから、第1回で概要と軽い質疑応答だけとはいえ、話は自然に熱くなる。情報そのものとしてはメインスピーカーも同じ3月の講演会や各資料でこれまでに把握していた以上の要素はそれほどなかったけれど(あってもここに具体的に書くわけにはいかない)、やはり環境も違い、スピーカーも違えば、当事者の抱いている感情が抑圧された中からも非常にストレートに伝わってくる。
よく東北の人は我慢強いというけれど、それは厳しく自己を律しているからであって、抑えた感情の熱さ深さは他人事として見過ごせるものではない。
子どもを亡くした親として、真実が知りたい。
どうして先生たちは子どもたちを連れて山に登ってくれなかったのだろう。
どうして50分も校庭にじっとしていたのだろう。
実際、近隣の他校はみんな山に登って助かったのに、どうして大川小学校だけこんなことになってしまったんだろう。
そこで何が起きていたのか、少なくとも5人の生存者は事実を知っている。何が間違っていたのかはわかっている。それを認めてほしい。
たったそれだけの当たり前の気持ちを、学校も行政もうけとめてはくれなかった。あまつさえ無視したり、騙したり、誤摩化したりした。
それがどれほど悔しく、悲しく、情けないことか、残念ながらわたしには想像がつかない。想像できるとはとてもいえない。
その根底にあるのは、大川小学校だけでない、日本全国どこででも起きている学校での事故や事件ととてもよく似た構図である。
慣例に異様にこだわる官僚主義。事なかれ主義。危機管理意識の致命的な甘さ。そして隠蔽体質(例:一橋大学法科大学院アウティング事件裁判)。
誰も過ちを認めず、責任も決してとらない。仕方がなかった、想定外だったというその一点張りで何もかもチャラにしようとする。
だが、この期に及んでこの大惨事でそれを許すわけにはいかないのだ。
ゆるしてしまったら、いつか必ず同じことがまた起きてしまう。
敏郎先生は津波直後の大川小学校の情景を指して、「これはこの世の終わりじゃない。始まりなんです。ここから始めなきゃいけないんです」とおっしゃった。
二度とこんなことを起こさない未来を、この大川小学校から始めなくてはならないのだ。
そのことを、少なくともここに来た人すべてに、少しでも実感してもらいたいとわたし自身も、強く思いました。
ところでケータイのメールや履歴って、本体から消したら二度と戻んないもんなのかね?
ログってどっかにないのかな?
しかし消したってことは絶対「消さなきゃいけない理由」が何かあったってことだよね?確実にさ。やましくなきゃ消す必要ないもんね。
最近ホントにこんな話、多いね。はあ。
関連記事:
講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著
大川小学校の高学年の校舎。1階が家庭科や図工や理科の特別教室で、2階が一般の教室だった。
最近になってこの建物を設計した建築家が現地を訪問し、被害状況から津波がどれだけの力で学校を押しつぶしたのか計算してくれたそうだ。
復興支援レポート
大川伝承の会第5回語り部ガイド
そこを訪れるたびに思い出す風景がある。
堤防が切れて、自衛隊が整備した川面すれすれの砂利の道路。地盤沈下して辺り一面海水に浸りヘドロに埋もれた田んぼと、瓦礫のなかにぽつんと建った校舎。
2011年4月末ごろの、大川小学校だ(3月末の様子。1ヶ月後もほとんどこのままの状態だった)。
見渡す限り黄土色一色、動くものは何もなく、音もなかった。
それはSF映画のなかの世紀末か、異星の風景のようだった。
津波に襲われる前、学校の周りには住宅街があった。郵便局があって、病院があって、公民館があって、お寺があった。
そこには代々暮してきた人たちの生活があったのだ。
それを、津波は一瞬にしてすべて奪い去った。
ひとつ残らず、跡形もなく。
現在、この釜谷地区に人は住んでいない。その先の海沿いの長面にも、川上側の間垣にも、ほとんど住民は戻らなかった。
だが漁業は続いているし、あのとき津波をかぶってしまった田んぼにもちゃんと稲が植えられて、閉校になった大川中学校の跡地には太陽光発電所と水耕栽培のハウスができている。
もとには戻らなくても、前に進んではいるのだ。
6年目にして1回目の今回の勉強会には、定員30人に50人以上の申込があったという。メディアも一通りメジャーもローカルも顔を揃えていた。
正直そこまでとは思わず会場に入って驚きました。だって石巻市内ったって中心部からはクルマで30分離れた場所で、終バスだって6時台という不便な会場までわざわざいくなんて、自分でもちょっとどうかと思ったもん。
とはいえ地元で地域の方々やご遺族の方々も大勢顔を揃えた中での会合だから、第1回で概要と軽い質疑応答だけとはいえ、話は自然に熱くなる。情報そのものとしてはメインスピーカーも同じ3月の講演会や各資料でこれまでに把握していた以上の要素はそれほどなかったけれど(あってもここに具体的に書くわけにはいかない)、やはり環境も違い、スピーカーも違えば、当事者の抱いている感情が抑圧された中からも非常にストレートに伝わってくる。
よく東北の人は我慢強いというけれど、それは厳しく自己を律しているからであって、抑えた感情の熱さ深さは他人事として見過ごせるものではない。
子どもを亡くした親として、真実が知りたい。
どうして先生たちは子どもたちを連れて山に登ってくれなかったのだろう。
どうして50分も校庭にじっとしていたのだろう。
実際、近隣の他校はみんな山に登って助かったのに、どうして大川小学校だけこんなことになってしまったんだろう。
そこで何が起きていたのか、少なくとも5人の生存者は事実を知っている。何が間違っていたのかはわかっている。それを認めてほしい。
たったそれだけの当たり前の気持ちを、学校も行政もうけとめてはくれなかった。あまつさえ無視したり、騙したり、誤摩化したりした。
それがどれほど悔しく、悲しく、情けないことか、残念ながらわたしには想像がつかない。想像できるとはとてもいえない。
その根底にあるのは、大川小学校だけでない、日本全国どこででも起きている学校での事故や事件ととてもよく似た構図である。
慣例に異様にこだわる官僚主義。事なかれ主義。危機管理意識の致命的な甘さ。そして隠蔽体質(例:一橋大学法科大学院アウティング事件裁判)。
誰も過ちを認めず、責任も決してとらない。仕方がなかった、想定外だったというその一点張りで何もかもチャラにしようとする。
だが、この期に及んでこの大惨事でそれを許すわけにはいかないのだ。
ゆるしてしまったら、いつか必ず同じことがまた起きてしまう。
敏郎先生は津波直後の大川小学校の情景を指して、「これはこの世の終わりじゃない。始まりなんです。ここから始めなきゃいけないんです」とおっしゃった。
二度とこんなことを起こさない未来を、この大川小学校から始めなくてはならないのだ。
そのことを、少なくともここに来た人すべてに、少しでも実感してもらいたいとわたし自身も、強く思いました。
ところでケータイのメールや履歴って、本体から消したら二度と戻んないもんなのかね?
ログってどっかにないのかな?
しかし消したってことは絶対「消さなきゃいけない理由」が何かあったってことだよね?確実にさ。やましくなきゃ消す必要ないもんね。
最近ホントにこんな話、多いね。はあ。
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大川小学校の高学年の校舎。1階が家庭科や図工や理科の特別教室で、2階が一般の教室だった。
最近になってこの建物を設計した建築家が現地を訪問し、被害状況から津波がどれだけの力で学校を押しつぶしたのか計算してくれたそうだ。
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