落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

Jardins sous la pluie

2010年01月27日 | book
『ノルウェイの森』 村上春樹著
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高校の親友キズキを自殺で喪い、東京の大学に進学してから、周囲のあらゆる物事と「しかるべき距離を保つ」ことに決めた「僕」。
だが電車の中で偶然再会したキズキの恋人・直子と逢瀬を重ねるうち、彼女の繊細な美しさに抗いがたく惹かれていく。

初めて読んだのは高校2年生のとき。
以後何回読み返したか覚えてないくらいだけど、今回は何年ぶりだろ?それも覚えてないくらい超久しぶりの再読です。
20代になってからは読んでもあんまりぴんとこなくて、思春期に読むべき小説なのかなあ?と思ったものだけど、今ひさびさに読み返してみるとそんなことないです。泣けました。ちゃんと。
たまたまだけど、最初に読んだときはぐりは16歳、キズキが死んだのと同じくらいの年ごろで、今は30代後半、ハンブルク空港で直子を思い出す「僕」や直子のルームメイト・レイコさんと同世代になっている。
だから当然のことだけど、共感する部分がまったく違ってしまっているし、読んで感じることもやっぱり違う。

飛行機の中で37歳の「僕」は永遠に20歳のままの直子の顔を思い出そうとする。
そして彼女が、「私を忘れないで」と訴えたことを思い出す。直子は、「僕」の中で彼女の記憶が薄れていくことを知っていた。だからこそ、愛してもいない「僕」に「私を忘れないでほしい」と頼んだのだ。
人は忘れる動物だし、忘れることができるからこそ正気を保っていられる。だから「僕」が直子の顔をすぐに思い出せなくなっていくのはある意味で健全なことだといえる。べつに間違ってはいない。それなのに悲しい。せつない。
ぐりは20歳のとき大好きだった男の子の顔を思い出すことはできる。美大の同級生らしく、我々はお互いを写真に撮ったり絵に描いたりして、かなりみっちりと相手を観察しあっていたからだ。
だから、会わなくなって10数年経った今でも、あの子の瞳や声や後姿や、笑い方や歩き方もくっきりと思い出せる。
それでも、あのとき感じていたときめきはもうない。今、彼のことを思い出してみても、あのころ胸を焦がした熱い思いは微塵も蘇っては来ない。あんなに大好きだったのに、あの思いはいったいどこへ行ってしまったんだろう。
愛がさめてそれだけ時が過ぎたせいなのか、ぐりがもう20歳じゃないからなのか、それももうよくわからないけれど。

10代から20代のころ、この小説を何度も読みかえしたころ、ぐりも年をとればレイコさんみたいにいろんなことがちゃんとわかるようになるんだろう、と漠然と思っていた。
あのころ、不器用な「僕」や直子に共感しながら、その不器用さも若さの特権のように無意識に思いこんでいた。「僕」は寮の上級生・永沢の冷酷さを心の中で非難しながら、自らの身勝手さにはまったく気づいていない。キズキの苦しみや直子の苦しみをわかろうとはせず、わからないはずのこともわかっているつもりでいることの傲慢さ。
レイコさんと同世代になってみて初めて、年をとったってわからないことは決してわからない、ということがわかる。
わかるのは、自分にはどうしようもないことが人生にはいくらでもあって、できることは、わからないこと、どうしようもないことからも決して逃げないでいることくらいだ、ということだ。
でもそんなことわかったって、悲しいことはやっぱり悲しいままだし、せつないことはやっぱりせつない。
だから人は泣くのだ。

どーでもいいことですが、ぐりが持っている単行本の定価は¥1,000。消費税導入前だから本体価格表示なんてのもないし、バーコードもない。
そして今のぐりはこの作品を書いて大ブレイクした当時の村上春樹氏と同じ年齢。
ああ80年代は遠くなりにけりー。

美人は悪女で

2010年01月24日 | movie
『ソフィーの復讐』

挙式1ヶ月前に婚約者(蘇志燮ソ・ジソプ)をセクシー女優(范冰冰ファン・ビンビン)に奪われたマンガ家のソフィー(章子怡チャン・ツィイー)。
彼を振り向かせた上でこっちからふってやる!と決心した矢先、恋敵ジョアンナの元カレという写真家のゴードン(何潤東ピーター・ホー)と知りあい、意気投合。ふたりで復讐作戦を練り始める。

ラブコメです。いうまでもなく。ベッタベタの。それももう、これ以上ベッタベタにはできませんってくらい、思いっきり、ベッタベタ。コッテコテに、ベッタベタ(しつこい)。
でもいいんです。おもろいから。笑えるから。くだらなすぎて。よくもまあここまでくだらなくできるなあって感心しちゃうくらいくだらない。
あ〜〜〜〜〜しょ〜〜〜もな〜〜〜〜〜。

とりあえず章子怡はかわいい。まあね、主役でしかも自分でプロデュースした映画なんだから当り前なんだけどね、けどやっぱかわいい。つか芝居がうまいんだよ。何をどう見せるべきかってのを本当によく知ってる。ある意味職人です。ぐりは范冰冰の方が好きですが。だって綺麗だから(爆)。すごい綺麗だもん。劇中に「年を誤摩化してる」とか「整形してる」なんて台詞もでてくるけど、そんなんもーどーでもえーわ、ってくらい美しい。過剰に美しい。
そして蘇志燮と何潤東はガタイ良過ぎ。外科医と写真家とゆー職業にはあきらかに不釣り合いな上腕二頭筋。もしくは胸筋。ちょっとそれおかしいんとちゃう?ギャグなの?ってくらいムッキムキです。
ぐりは蘇志燮のことよくしらないんだけど、彼はあんなお間抜けな役でよかったんでしょーかね?ファンの方?ちょっとかわいそうになっちゃった。何潤東の役はおいしすぎだし・・・。

セットがオシャレで美男美女がゾロゾロ出て来て、笑いどころはてんこもり、ただただ楽しむ目的でならいうことなしなお気楽映画。
疲れてる人にオススメでございます。
ちなみにー。ぐりの手元に前売り券が一枚余ってます。観たい方はご連絡下さいませー。

犠牲者という名の娼婦に生まれて

2010年01月24日 | book
『家のない少女たち 10代家出少女18人の壮絶な性と生』 鈴木大介著

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「格差社会」「下流社会」なんて言葉が生まれて、そしてあっという間に現実社会のありきたりの一面として、誰の注意もひかなくなったのはいつのころからだろう。
新しい言葉は生まれたときだけは世間の耳目を集めるけど、その言葉で何かが変わったり、事態が転換したりなんて奇跡はまずそうそうは起こらない。

この本のあとがきには、「日本の母子家庭の絶対貧困率(世帯収入が生活の最低水準を下回る率)は3割以上」という凄まじい数字が書かれている。
具体的にどういうことか?と思って数字を調べてみたけど、日本における「絶対的貧困」を定義する数字はちょっとわからなかった。ちなみに06年に国が認めた「貧困線」は年収114万円。当時、この年収を下回る母子家庭を含むひとり親世帯は54.3%(相対的貧困率)。経済協力開発機構(OECD)加盟30ヶ国中最悪の数字である。
子どもをひとりで育てている家の半数以上が、114万円に満たない年収で暮している国、日本。
児童虐待や育児放棄、子どもの非行の原因のすべてが貧困にある、とはいえない。もちろん。
だが、貧困も含め多くの問題を抱えた子育て世帯を支える福祉システムが極端に遅れた日本という国では、安心して住める我が家を失った子どもたちには行き場というものがまったく用意されていないのも事実なのだ。

たとえば、日本中どこの児童養護施設も定員状態がかなり長い間続いている。
施設ではまず、生命の危機に関わる低年齢の子ども(小学生以下)が優先されるので、10代以上の子どもはそれだけで不利になる。かつ、施設も公的機関であり職員は公務員であるからして、収容される子どもも「施設に利益になる子」の方が優先して選ばれることになる。早期に引き取り先がつく見込みのある子や、扱いやすい子、学校の成績もふくめ大人の評価が高い子は施設にとって「おいしい子」である。つまり、年齢が高く引き取り先もなさそうな、費用対効果の高くない子は施設の方でも眼中にないらしい。
親に虐待された挙句に殺された子は事件化すれば報道されて世間の同情を買うことができるが、殺される一歩手前で逃げきれた子には誰ひとり目もくれない。救出に成功した福祉関係者にとっても、それは長い長い闘争の始まりに過ぎない。
虐待された子は他者や社会への信頼感をいっさい失ってしまっているケースが多い。簡単にいえば、健全な人間関係を築く能力がちゃんと育てられていないために、大人にとっては扱いにくい子どもになってしまっている。インスタント食品や菓子などのジャンクフードしか与えられなかった子にとっては、施設で出される手づくりの食事は食べ物には見えないし、彼らの心を癒そうとする職員の態度もただ「見当違い」に「ウザい」だけとしか思えないこともある。幼いころから暴力を受け続けた子にはADHD(注意欠陥/多動性障害)やLD(学習障害)などの障害を抱えた子も多いが、障害児専用の施設に収容するには、かなり重度の障害でなければ認められない。
しかも、日本の行政には基本的に子どもは親元に戻すべき、家族は復元されるべきものという基本方針があるため、どんなに子どもが抵抗しても親さえ同意していれば子どもは親に引き渡されてしまう。
たとえその家が、子どもにとってどんな地獄であっても、行政には親子を引き裂いてまで子どもをかばうだけの権力はないのだ(司法にはあるが現実にそれが行使されるのはまれなことである)。

施設にもいられない、家に帰れば親に殺されかねない子に残された道は家出しかない。
実は女の子の場合なら、民間団体が運営する緊急避難所がいくつか存在している。そこへ行けば、一定期間は安心して眠る家と食事が与えられ、自立して生活するための法的な支援を受けることができる。
だが不思議なことに、インターネット上には援交客をつかまえるだけの情報は氾濫しているのに、家出少女たちにとってそうしたシェルターの情報は「眼中にない」らしい。
彼女たちからみれば、親も児童福祉施設も民間シェルターも、大人はみんな「敵」なのだろうか。
しかし彼女たちも年をとれば「大人」になる。家出「少女」でいられるのはほんの短い間でしかない。でも、そんなことに気づかないから、少女は少女なのだろう。そんなことを知っていられれば、彼女は既に「少女」ではないのだろう。

家を捨て、親を捨て、町で知らない男を拾って売春して暮す以外に生きる術をもたない子どもたち。
彼女たちの選択は決して正しくない。
でも「あんた間違ってるよ」などとは誰にもいえない。
それが、今の日本の現実だとしかいえない。

ポラリスプロジェクト連続セミナー「子どもの性の商品化を止められるか」第10回
講師は著者の鈴木大介氏。2月27日(土)、港区にて。

燃え尽きた家

2010年01月24日 | book
『家族の終わりに』 リチャード・イエーツ著 村松潔訳
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レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレット主演とゆー『タイタニック』カップルの再共演で話題になった映画『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』の原作本。
ケイト・ウィンスレットはこれでゴールデン・グローブ賞を受賞してますね。確か。
映画はなんとなく不完全燃焼感があって、そのうち原作が読んでみたいなーと思ってたんですが。アメリカではベストセラーになった有名な小説だそーですし。
おもしろかったです。すごくよく書けてるし。あのー、フォースターの文体にすごい似てるなあって思ったんだけど。思いっきり残酷で、辛辣で。そーゆーとこもベストセラーらしいなーと思い。

映画はかなり原作に忠実につくられてたみたいですね。
だから印象としては映画を観たときとあんまし変わらないです。はい。
ただ、これは映画を観ないで読む方がおもしろいだろうなとは思う。だって読んでる間じゅう、レオっちとケイト・ウィンスレットの顔ばっか頭にうかんでくるしー。
映画観てない人におすすめ。

最終家族

2010年01月20日 | diary
いきなり弔事の話でナニですけれども。

先だって父方の祖母が亡くなりまして。享年97歳。大往生です。つかこーゆー場合は「不幸」とはいわんのか?
ぐりにとっては「おばあちゃん」なワケですけども、まあウチにもいろいろいろいろいろーいろありまして、ここしばらくあんまし付き合いはなかったんですね。だからあくまでも「父親の母親」的な、ビミョーな距離があり。
数年前から認知症で会話もできなくなっていて、去年秋から2ヶ月も意識不明で何度も危篤状態にはなってたんで、「とうとう」とゆーか、「やっと」みたいな感じの最期。
お正月に帰省したときにお見舞いも行ったし、とくにどーとゆー感興もなく。

それで1週間前に帰省したばっかりだったけど、また葬儀告別式のために帰省しー。
うちは親戚が多いのでこーゆーとき大変ですねー。ぐりは傍で手伝うだけだけど、両親はほんとに大変そーだった。もうほんとにてんてこまいって感じで。
親戚は多くても現実的に仕切ってくれるよーな人はいないし、でもぐりの父は兄弟でも下の方なので大きな口はきけないので、いちいち周りの顔をたてなきゃいけない。そしてあちらをたてればこちらはたたない。
あーーーーーめんどくさっ!かわいそうー。
こーゆーときに、普段から兄弟は仲良くしとくにこしたことないなって思いますねー。いざってときにヤな思いすんのはほんとにしんどいからねえー。
けどさあ、兄弟仲良くさせるのも親の育て方じゃない?つまりよーするに、死んだ祖母の自業自得みたいな。
しかしつくづくひどい孫だなあたしゃ。いーんです。あたしにも恨みつらみはこってりあんだから。死人に口なし。

とかなんとかありましたが。
出棺のときに泣いてる父をみたら、やっぱかわいそうだなって思って涙出ちゃいました。
ぐりは父が泣いてるのを見たのは生涯これで2度目です。最初は祖父が死んだとき。ぐりは小学校2年生だったから、父はまだ30代のはじめ。おとーさんも泣くことあるんだなあって、びっくりしたのを覚えてます。
どんな母親でも、父にとっては生んで育ててくれた人。小さいときにかわいがってもらったあたたかい思い出もきっとたくさんあるんだと思う。ほとんど聞いてないけど(爆)。
生前もひたすら一生懸命孝行してたけどきれいさっぱりまったく報われなくて、ほんとにかわいそうだった。おばあちゃんは父の愛情をどのくらい理解してたんだろう。
亡くなってからも葬儀のこと納骨のこと法要のこと、何から何までおばあちゃんのために頑張って、祭壇の周りに並んだお花なんか全部父の友だちや取引先の人から贈られたのばっかりで。それでもお花いっぱい来てよかった、なんて喜んでくれる親族なんか誰もいない。
そんな父が哀れで、泣けました。


家族。