遺族があまりにも気の毒なのでもうどの事件がどうとか具体的には申しませんが。
それでも一言もの申したくて辛抱たまりませんので書いてみます。
実をいうと書こうか書くまいかここ数日相当悩んだんですけどね。まあ誰も見てないブログだしいいかなと。
ぐりは20代後半の頃にストーカーの被害にあったことがある。だいぶ前にも書いたと思うけど。
10年以上前のことだし、正直にいってあまり思い出したくない経験ではあるのだが、当事者のひとりとしてはっきりいっておきたいことはある。
日本にはストーカー規制法という法律がある。これは1999年に発生した桶川ストーカー殺人事件という大変悲惨な事件が契機になり、翌2000年に議員立法で施行された。細かい内容は原文を読んでいただくとして、簡単にいえば、当事者同士の関係に関わらず、相手の意志を無視してつきまとったり、電話や手紙やメールなどの連絡をし続けたり、名誉を傷つけたり、そのような情報を真偽を問わず広汎にひろめたりすることを禁じている。違反すればもちろん刑事罰に処せられる。
つまり今回の事件で被疑者が被害者に対して犯行前にしたことはがっちりこの法律に抵触している。そもそも「殺す」などと脅迫した時点で完全にアウトである(刑法222条)。それで「対応に落ち度はなかった」などといえてしまう警察が信じられない。それなら警察はいったい何のために市民の税金を使って運営されているのか、とくと納得のいくように説明していただきたい。
ぐりが被害に遭ったのはこの法律が施行される前後のころで、ストーカー事件に対する社会の関心度も高く、所轄の警察にも緊張感があった。だから対応は予想以上に迅速だったし、こちらの相談にも非常に親身になってくれた。警察だけでなく、友人たちも協力的でとても助かったけど、いちばん助かったのは、警察やら見ず知らずの第三者に相手との関係などを詳しく根掘り葉掘り追求されなかったことだ。
というかむしろ、ストーカー犯罪において当事者同士の関係は犯罪とは無関係だと断言しても構わないとぐりは思う。どんな関係であろうが、ストーキングしてもいいなんてことはありえない。いま、現にストーキングされているというだけでじゅうぶん犯罪が成り立つんだから。よしんば捜査にそもそもの因果関係が情報として必要だとしても、被疑者を任意同行してから本人に問いただせば済むことである。何が何でもどうしても必要であれば、被害者には後から裏を取ればよろしい。
これはぐり個人の見解だが、警察は今回の被害者たちの相談内容をあまくみただけではなく「被害者側にも落ち度がある」「お子様同士の痴話喧嘩になんか関わりあっていられない」という予断があったのではないかと確信している。その予断の根拠は間違いなく、被害者と被疑者の関係にある。つまり、「被害者自ら被疑者にいやがらせをされるだけの材料を与えた」という予断である。
繰り返すが、当事者同士がどんな関係にあったにせよなかったにせよ、ストーキングをしている時点で違法なのだから、それだけを判断材料に被疑者の行動をやめさせ、これから起こる危険性のある犯罪を未然に防ぐことこそが警察の責任である。
それをできもしなかったにも関わらず、無念の死を遂げた被害者の個人情報を垂れ流すのは明らかに警察の自己弁護でしかない。
ストーカー規制法施行のきっかけとなった桶川の事件もそうだった。あのときも、警察のリークで被害者は「なるべくしてそうなった」ような人物像をメディアに捏造され、彼女の尊厳はとことんまで踏みにじられ、「報道被害」という言葉まで生まれた。14年経っても警察は何も学んでいない。
警察だけではない、社会そのものがまったく前に進んでいない。
何度でもいう。被害者が被疑者に何をしようとしまいと、ストーカーされなくてはならないいわれなどどこにもありはしない。それは日本の法律でしっかりと規制されている。侵せば刑事罰に問われる犯罪である。まして、どんな人にも、脅されたり名誉を傷つけられたり、生命を脅かされたりされない権利は、基本的人権で保障されているのだ。自業自得、自己責任などという言葉はここではまったく意味がない。そういう表現そのものに想像力の致命的な欠如の不幸を感じる。
ぐりが被ったストーカー被害はそこまで深刻ではなかったけど、まだ桶川の事件の記憶も鮮明な時期でもあり、慎重になるに越したことはないと周囲がみんなで心配してくれた。
たとえば、ぐりはいやがらせが始まってすぐに「迷惑電話防止サービス」に加入し、玄関の鍵を交換し、ひとり歩きを避け、数ヶ月の間は自宅には戻らずに友人たちの家をじゅんぐりに泊まり歩いた。みんな喜んで何日でも泊めてくれた。友人の家に泊まれないときは会社に泊まった。自宅にはたまに着替えを取りに戻るくらいで、それも日中ひとめのある時間帯に限っていた。ぐりが不在にしている間も警察は複数人でパトロールを続けてくれ、結果としてぐりは暴力犯罪には巻き込まれずに済んだ。今でも、あのとき対応して下さった警察の方々と友人たちには深く感謝しているが、心に負った傷は何年も癒されなかった。
今回の事件でも、警察が被害者を守るだけの最低限の指導と捜査をしていさえすれば―被疑者に知られている自宅や学校から被害者をまず遠ざけ、現場を監視する―彼女はみすみす命を奪われることはなかったはずだと思う。それほど難しいことではない。危機感の問題でしかない。
ストーカー規制法ができても、ストーカー事件で命を落とす女性は後を絶たない。
だが、事件化するのはおそらく全体のごく一部だと思う。ある大学の調査では、男性との交際経験のある女子学生の実に4割がデートDVの経験者だという。束縛され、モラルハラスメントを受け、ときには肉体的暴力にもさらされる。ケータイが普及し多くの学生がSNSを利用するようになって、互いに撮影した無防備な画像や動画を使ったいやがらせも、弱い立場の存在をいたぶる暴力の常套手段になってしまった。
今回のような事件は、決して特別な事件ではないと思う。いまどきの普通の男女関係のその先に、たまたま起こってしまっただけの事件だと思う。だからこそ、命が失われるような事態になる前にうてる対策が重要なのであって、「いまどきの男女関係」の是非をどうこういったところで何の解決にもなりはしない。それはただ穴の空いた容器で水を汲むのと同じ、現実を見ずに机上の空論を振りかざすだけの非生産的な自己満足以外の何ものでもない。
そもそも、男女関係の何を他人がどうこういえるものでもない。そうではないですか?
ほっとけよ。
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『遺言─桶川ストーカー殺人事件の深層』 清水潔著
『桶川女子大生ストーカー殺人事件』 鳥越俊太郎&取材班著
下高井戸の猫。
それでも一言もの申したくて辛抱たまりませんので書いてみます。
実をいうと書こうか書くまいかここ数日相当悩んだんですけどね。まあ誰も見てないブログだしいいかなと。
ぐりは20代後半の頃にストーカーの被害にあったことがある。だいぶ前にも書いたと思うけど。
10年以上前のことだし、正直にいってあまり思い出したくない経験ではあるのだが、当事者のひとりとしてはっきりいっておきたいことはある。
日本にはストーカー規制法という法律がある。これは1999年に発生した桶川ストーカー殺人事件という大変悲惨な事件が契機になり、翌2000年に議員立法で施行された。細かい内容は原文を読んでいただくとして、簡単にいえば、当事者同士の関係に関わらず、相手の意志を無視してつきまとったり、電話や手紙やメールなどの連絡をし続けたり、名誉を傷つけたり、そのような情報を真偽を問わず広汎にひろめたりすることを禁じている。違反すればもちろん刑事罰に処せられる。
つまり今回の事件で被疑者が被害者に対して犯行前にしたことはがっちりこの法律に抵触している。そもそも「殺す」などと脅迫した時点で完全にアウトである(刑法222条)。それで「対応に落ち度はなかった」などといえてしまう警察が信じられない。それなら警察はいったい何のために市民の税金を使って運営されているのか、とくと納得のいくように説明していただきたい。
ぐりが被害に遭ったのはこの法律が施行される前後のころで、ストーカー事件に対する社会の関心度も高く、所轄の警察にも緊張感があった。だから対応は予想以上に迅速だったし、こちらの相談にも非常に親身になってくれた。警察だけでなく、友人たちも協力的でとても助かったけど、いちばん助かったのは、警察やら見ず知らずの第三者に相手との関係などを詳しく根掘り葉掘り追求されなかったことだ。
というかむしろ、ストーカー犯罪において当事者同士の関係は犯罪とは無関係だと断言しても構わないとぐりは思う。どんな関係であろうが、ストーキングしてもいいなんてことはありえない。いま、現にストーキングされているというだけでじゅうぶん犯罪が成り立つんだから。よしんば捜査にそもそもの因果関係が情報として必要だとしても、被疑者を任意同行してから本人に問いただせば済むことである。何が何でもどうしても必要であれば、被害者には後から裏を取ればよろしい。
これはぐり個人の見解だが、警察は今回の被害者たちの相談内容をあまくみただけではなく「被害者側にも落ち度がある」「お子様同士の痴話喧嘩になんか関わりあっていられない」という予断があったのではないかと確信している。その予断の根拠は間違いなく、被害者と被疑者の関係にある。つまり、「被害者自ら被疑者にいやがらせをされるだけの材料を与えた」という予断である。
繰り返すが、当事者同士がどんな関係にあったにせよなかったにせよ、ストーキングをしている時点で違法なのだから、それだけを判断材料に被疑者の行動をやめさせ、これから起こる危険性のある犯罪を未然に防ぐことこそが警察の責任である。
それをできもしなかったにも関わらず、無念の死を遂げた被害者の個人情報を垂れ流すのは明らかに警察の自己弁護でしかない。
ストーカー規制法施行のきっかけとなった桶川の事件もそうだった。あのときも、警察のリークで被害者は「なるべくしてそうなった」ような人物像をメディアに捏造され、彼女の尊厳はとことんまで踏みにじられ、「報道被害」という言葉まで生まれた。14年経っても警察は何も学んでいない。
警察だけではない、社会そのものがまったく前に進んでいない。
何度でもいう。被害者が被疑者に何をしようとしまいと、ストーカーされなくてはならないいわれなどどこにもありはしない。それは日本の法律でしっかりと規制されている。侵せば刑事罰に問われる犯罪である。まして、どんな人にも、脅されたり名誉を傷つけられたり、生命を脅かされたりされない権利は、基本的人権で保障されているのだ。自業自得、自己責任などという言葉はここではまったく意味がない。そういう表現そのものに想像力の致命的な欠如の不幸を感じる。
ぐりが被ったストーカー被害はそこまで深刻ではなかったけど、まだ桶川の事件の記憶も鮮明な時期でもあり、慎重になるに越したことはないと周囲がみんなで心配してくれた。
たとえば、ぐりはいやがらせが始まってすぐに「迷惑電話防止サービス」に加入し、玄関の鍵を交換し、ひとり歩きを避け、数ヶ月の間は自宅には戻らずに友人たちの家をじゅんぐりに泊まり歩いた。みんな喜んで何日でも泊めてくれた。友人の家に泊まれないときは会社に泊まった。自宅にはたまに着替えを取りに戻るくらいで、それも日中ひとめのある時間帯に限っていた。ぐりが不在にしている間も警察は複数人でパトロールを続けてくれ、結果としてぐりは暴力犯罪には巻き込まれずに済んだ。今でも、あのとき対応して下さった警察の方々と友人たちには深く感謝しているが、心に負った傷は何年も癒されなかった。
今回の事件でも、警察が被害者を守るだけの最低限の指導と捜査をしていさえすれば―被疑者に知られている自宅や学校から被害者をまず遠ざけ、現場を監視する―彼女はみすみす命を奪われることはなかったはずだと思う。それほど難しいことではない。危機感の問題でしかない。
ストーカー規制法ができても、ストーカー事件で命を落とす女性は後を絶たない。
だが、事件化するのはおそらく全体のごく一部だと思う。ある大学の調査では、男性との交際経験のある女子学生の実に4割がデートDVの経験者だという。束縛され、モラルハラスメントを受け、ときには肉体的暴力にもさらされる。ケータイが普及し多くの学生がSNSを利用するようになって、互いに撮影した無防備な画像や動画を使ったいやがらせも、弱い立場の存在をいたぶる暴力の常套手段になってしまった。
今回のような事件は、決して特別な事件ではないと思う。いまどきの普通の男女関係のその先に、たまたま起こってしまっただけの事件だと思う。だからこそ、命が失われるような事態になる前にうてる対策が重要なのであって、「いまどきの男女関係」の是非をどうこういったところで何の解決にもなりはしない。それはただ穴の空いた容器で水を汲むのと同じ、現実を見ずに机上の空論を振りかざすだけの非生産的な自己満足以外の何ものでもない。
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ほっとけよ。
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下高井戸の猫。
コメントありがとうございます。
そうですね。日本の警察はどこまでも男中心の官僚社会のままで、女性警官はあくまでもその補助的立場以上になりえないというところも、ストーカー事件の取締りが進まない大きな要因のひとつだと思います。
その一方で未然に防がれている事件もあるはずなので(私のケースも含め)、その情報をこそ市民に共有してほしいですね。
ストーカー事件の被害者は女性ばかりではありませんが、ストーカーが暴力殺人に発展するケースの被害者はほぼ女性です。
ほんとに危機感の問題だと思います。
それにしてもこういう事件のたびに起きるセカンドレイプには、ほんとうに心が痛みます。