落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

海と毒薬

2007年05月30日 | movie
『インビジブル・ウェーブ』
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監督ペンエーグ・ラッタナルアーン、撮影クリストファー・ドイル、主演浅野忠信、『地球で最後のふたり』と同じメンバーで第2弾。
といっても舞台にもストーリーにも関連性はない・・・と思う(役名はいくつか共用になってるけど)。『地球〜』ってなんかイマイチ印象薄かったから。どーゆー映画だったかあんまし覚えてないです。
けど『〜ウェーブ』の方はおもしろかった。わかりやすいし、シンプルだし、ストレート。淡々として静かなところは同じだけどね。映像もバリバリにドイル節炸裂。ちょーオシャレー。かっこええー。

主人公キョウジ(浅野)は勤め先のオーナー(トゥーン・ヒランヤサップ)の妻(久我朋乃)との不倫が露見して、オーナーの命令で彼女を毒殺、フェリーで逃亡する道中でノイ(姜惠貞カン・ヘジョン)というミステリアスな女性と出会う。
舞台が香港、フェリー、プーケット、と移っていくし構成としてはロードムービー仕立てなんだけど、最後までみるとしっかりラブストーリーにもなってるんだよね。すんごい「ラブ」な空気薄いけど。恋とか愛とか、そういう甘い空気はまったくないんだけど、ちゃんとラブストーリー。「愛してる」とか「好きだ」なんて台詞はなくても、セックスとか涙とか感動なんかなくても、愛は語れる。映画だから。フィクションだから。現実じゃそーは問屋が卸しませんけれど。

登場人物にも脚本にも目立ったクセのようなものはほとんどないのに、トータルすると、このメンバーでこの脚本じゃないと絶対伝わらない何か、がびしっと表現出来てるところがすっごく不思議。
キョウジが日本人だったり料理人だったりする設定にとくに必然性はないし、この役はハッキリいえば誰がやってもけっこうおいしい。曾志偉(エリック・ツァン)演じる僧侶だって別に誰でもいいような気がする。舞台が香港でなきゃいけない理由もみあたらないし、プーケットらしさを感じるシーンもでてこない。
でも、全体を通してみると、どこにもムダもスキもなく非常に均整のとれた映画になっている。キャラクターやこまかな台詞のディテールに微妙に幽かにただし確実に香ってくる世界観。主張してないようでしてる。
カッコイイね。シブイね。オトナだ。

惜しかったのはキョウジの不倫相手の女優の芝居がメチャメチャ安っぽかったこと。
浅野氏の芝居は基本が受け身なので、相手の芝居がダメだとひきずられてダメになる傾向がある。しょーじき恋人同士には全然みえなかったっす。愛が感じられなかったよ。惜しー。
あと、フェリーとかタクシーとかホテルでのシーンはみょーにリアルでニヤニヤしちゃいました。旅人の心細さがすごーくナマっぽく再現されててさ。これが旅行ならトラブルも楽しもうって気分になるけど、逃避行じゃね・・・。
帰りに飲みたくなってバーで一杯ひっかけて帰りました。キョウジは飲めなくてミルクばっか飲んでたのにね。なんでだろー。

海と毒薬

2007年05月30日 | movie
『ひめゆり』

太平洋戦争末期、沖縄戦で陸軍病院の看護要員として召集されたひめゆり学徒隊の生存者による証言をあつめたドキュメンタリー。
戦争でひどいめに遭ったのはひめゆりの人たちだけじゃない、そんな批判もかつてはあったという。最近、前の大戦の悲劇をテーマにした映画が次々つくられて、話題になり、ヒットしてる作品もある。戦争は悲しい、戦争は虚しい、そんなことはみんなが知っている。
言葉の上では。
だけど、硫黄島やら知覧やら大和やらで描かれる若い兵士たちの運命が悲劇だったとするなら、ひめゆりの人たちがなめた辛酸はいったいなんと呼べばよいのか。
10代の思春期の少女たちを前線の戦闘に巻きこんで、面倒をみきれなくなったら使い捨て。陸軍から解散命令が出るまでの3ヶ月に部隊で出た犠牲者は19人だったけど、戦場のど真ん中に放り出されてからたった1週間で100人以上が死んだ。武器はおろか食べ物も飲み水もない、帰る家はもちろん隠れる場所もない、梅雨の、毎日雨が降り注ぐ森や岩だらけの海岸を、海からも空からも砲弾がとんでくる中、自決用の手榴弾を持って逃げまわった。
今の今まで必死に看護した重症兵が薬殺されるのを目撃した人、目の前で級友を失った人、動けない級友を置いて逃げたことを生涯悔やんでいる人、ステーキハウスで鉄板の上で焼ける肉をみて戦場を思いだす人。
これが悲劇というものだろう。そしてこれはみんな、人が起こした悲劇なのだ。避けようと思えば避けられた悲劇なのに。

生存者のうちの何人かは、摩文仁のひめゆり平和祈念資料館で今も証言を続けている。
証言できるようになるまで何十年もかかった。生き残ってしまって申し訳ない、つらかった経験を思いだしたくなくて黙っていたけど、亡くなった友だちや先生のために、後世のためにと、彼女たちは自らこの資料館をつくり、証言を始めた。今回の映画も、80代を迎え、いつまで生きて証言できるかわからなくなったからと、彼女たちの依頼でつくられたそうだ。
彼女たちにしてみれば、今の九条改正論なんか文字通り論外だろう。自殺する若者、簡単に親や友だちを殺す若者なんか決して理解できないだろう。
戦場で「もう一度、太陽の下を大手をふって歩きたい」と願って生き残った彼女たち。「おなかいっぱい水がのみたい」「おかあさんに会いたい」、それが彼女たちにとって「生きる」目的だった。

戦争で死んだ人たちの犠牲の上に現在の平和がある、というのはただの美辞麗句だと、ぐりは思う。
「天皇陛下万歳」などといって死んだ人は、ほんとうはいない。みんな、「おかあさん」「助けて」といって死んだ。
そういう死を目の当たりにしながら生き残った人たちによって、現在の平和は支えられているのだ。
それをマジメに守ろうとしないなんて、失礼すぎる。
少なくとも、それだけはハッキリしていると思う。

引き返せ

2007年05月29日 | book
『さよなら、サイレントネイビー 地下鉄に乗った同級生』伊東乾著
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1995年3月20日、中目黒駅で営団地下鉄日比谷線に乗った豊田亨は、恵比寿駅到着直前に持っていた劇薬サリン入りのビニールパックに穴を空けた。
本書は地下鉄サリン事件の実行犯となった豊田亨被告の大学の同級生によるノンフィクション。伊東氏の本業は音楽家であり、現在東京大学で予防公衆情報衛生という講座を持つ助教授でもある。
予防公衆情報衛生とは、起きてしまったことを二度と繰り返さないためにはどうするべきか?という課題を追究する学問であるらしい。
伊東氏にとっては、大学時代の親友・豊田が、大量無差別殺人の実行犯になり、死刑に処せられようとしていることが「二度と繰り返さざるべきこと」だった。東大でいっしょに勉強していた日々からたった3年後の事件。どうしてまたそんなことになったのか。

タイトルも装丁もなんだかロマンチックだし、同級生について書かれた本だというからついセンチメンタルな内容を想像しがちだけど、どっこい全然違います。
全文、怒りにみちみちてます。それも感情論じゃない。ちょークールな怒り。静かに、理路整然と、怒りがみっしりと書きなぐられている。
なぜ人は新興宗教に奔るのか。なぜ人はメディアに踊らされるのか。なぜ人はテロを起こすのか。
ナチスドイツがやった大衆煽動、旧日本軍の玉砕思想、ルワンダ虐殺事件のラジオ放送、性欲や恐怖反応など脳の生理学を利用したマインドコントロールなど、人が人を騙し操り命や人格をモノのように弄び支配するテクニックとその歴史が、ただ一点、「なぜ親友があんなことをしたのか」という疑問のためだけに追求されている。

サリン事件の犯人なんかみんな死刑にしちゃえばいいじゃん、と簡単に思う人もいるかもしれない。
大体あれからもう12年も経つのだ。裁判にも時間がかかり過ぎている。
でも、あれだけの大事件を、一部の関係者だけの責任にして葬り去ってそれで済むだろうか。
法律という不完全なルールと、裁判制度という不完全なシステムだけで、あれだけの大事件の真実が、ほんとうに解明しきれるものだろうか。
死刑だけが贖罪じゃない。
黙って責任を取って死んで、それで格好がつくのはおさむらいさんの時代の話。
同じことが二度と起きないためにどうすればいいか、それを知っているのは、もう「やっちゃった」人以外にいない。
とっくに済んだことじゃん、12年も前のことじゃん、では進歩がない。
目的もなくフラフラとヤバい方向に転がりつつある日本。
まだ引き返せる、まだ大丈夫、と思えるうちに、われわれは何をすべきなのだろう。
わからない。
むずかしい。
だけど、少なくとも、あの事件のことは、「まだ終わってない」ってことにしとくべきだということは、わかる。
それだけだけど。

黒い太陽

2007年05月25日 | book
『スコットランドの黒い王様』ジャイルズ・フォーデン著 武田将明訳
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映画『ラストキング・オブ・スコットランド』の原作本。
映画と全然違うやん。つか映画、べつもの。ストーリーも違うしキャラも違う。設定を借りてるだけですね。原作者はあんなんで納得してんのかな〜?これすっごいマジメな本なんだけど。
映画は1976年のパレスチナ解放人民戦線によるハイジャック事件で終わる。原作は1979年のアミン失脚までを描ききっている。アミン政権の光と影と、当時のウガンダという国の風土や文化、そこに暮らし、生き、死んだ人々を、実に丁寧に繊細にかつ克明に描いている。
映画と同じく原作もフィクションであり、主人公のニコラス・ギャリガンもやはり架空の人物であることには違いはない。だがリサーチに6年かけたというだけあってリアルさはハンパじゃないです。というか、少なくとも、ページの上では、ニコラスは実際に呼吸し、あたたかい皮膚に血の通った人間として存在している。

といっても、原作のニコラスもヘタレである(爆)。
もう見事!天晴れ!としかいいようのないヘタレっぷり。まずですね。モテない。すごくモテない。モテないのに惚れっぽい。滑稽なくらいすぐ女の人を好きになって、本気になる。アホか。
そして行動力がない。臆病で、事なかれ主義で、主体性がない。けどたぶん逆に、彼がちょっとでも小賢しかったり正義漢ぶったりしてたら、あの状況じゃ生き残れなかったんだろうと思う。そのくらい、アミン政権下の混沌は深かったのだ。
それはそれとして、ニコラスの無力さが強調されればされるほど、「無害の有害性」もまた印象深くなってくる。ニコラスは直接的には誰も傷つけない。誰も助けも救いもしない代り、盗みもしないし殺しもしない。でも彼が「何もしない」ことでむしろ惨劇はさらに拡大される。ある状況では、自分で罪を背負わないということは、誰かにその罪を背負わせることにもつながっている。アフリカに限らず、紛争地域にいる欧米人が知らずに犯す罪の性質が、この物語では実によく表わされている。

残酷な暴力描写も映画より原作の方が何十倍もむごい。まあ映像じゃなくて言葉だから、想像がついてかなくて却ってよかったけど。残酷表現だけじゃなくて、登場人物ももっと多いし相関関係やストーリー展開も多重的で複雑。映画はニコラスとアミンの関係を中心に物語を展開させてたけど、原作ではニコラスはあくまで傍観者になっていて、物語の世界観にもっと広がりと立体感がある。
非常に読み甲斐のある小説です。スコットランドの民族主義についてのあたりは不勉強でもうひとつぴんとこなかったですが。

あとこの本も訳文がスムーズじゃなくてかなりひっかかりました。読んでて肩が凝ってしょうがなかったです。
けっこーボリューミーな本なんで、もちっとつるっと読めるスタイルに仕上げてほしかったかも。

犬の天国

2007年05月20日 | book
『ティンブクトゥ』ポール・オースター著 柴田元幸訳
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主人公は犬。でもファンタジーじゃない。
ミスター・ボーンズの飼い主はウィリアム・G・クリスマスという詩人。“飼い主”だけど“主人”じゃない。いつもそばにいて、寝るところ・食べるものを与えてはくれるけれど、ふたりの関係は主従とか上下とかそういうものはない。あえていうなら、“友人”、“相棒”みたいな間柄。
ウィリーはホームレスだったけど、ミスター・ボーンズは彼といられるだけで幸せだった。おなかがすいていても、寒くても、ウィリーがいっしょにいれば怖くなかった。でも、ウィリーはもうすぐ死ぬ。彼が死んだらどうすればいいんだろう?

飼い主とともに生き、呼吸する生き物、犬。
日本にも忠犬ハチ公なんて地名にまでなった犬がいますね。
けど思うに犬の方では意識して忠誠を尽くしてるつもりなんかない。彼らは生まれながら、そばにいて自分を求めてくれる人を自らの一部として生きる動物なのだ。飼い主を慕う、愛するということは、彼らにとって食べたり眠ったり性交したりすること同様、生きていくうえで当り前の行為なのだと思う。

ミスター・ボーンズはウィリーのおしゃべりを聞いているうちに人の言葉を解するようになり、自分でも喋りたいと願うようになる。
もちろんそんなことは生物学的には不可能だ。
だが犬を飼った経験のある方はおわかりかと思うが、犬は実際かなり高度なレベルで人の言葉を理解しているのではないだろうか。いや、ある部分では言葉以上に飼い主の心情や状況を深く理解しているようにも思える。どんくさくて“お手”“おすわり”“ふせ”もろくにできない犬でも、飼い主が悲しんでるとか、悩んでるとか、怒ってるとか、苦しんでるとか、逆に喜んでるとか、浮かれてるなどという感情は相当ダイレクトに感じとっていることは間違いない。知らない人が近づいてきても、相手が犬好きか犬嫌いかを瞬時に判別する。
そんな豊かな感受性の根源はやはり、「愛されたい」「求められたい」という犬の基本的欲求によるものだと思う。感じたことを分析し、正しい行動に反映できるかどうかはまた別問題ではあるが。
ミスター・ボーンズもとくに利口な犬ではない。少なくとも外見的にはごくあたりまえの雑種犬でしかない。彼がウィリーを信じ、ウィリーがいてくれるだけで充足し、ウィリーの思い出に頼り、ウィリーと同じ“ティンブクトゥ”に行きたいと願うのは、彼が犬だからだ。
しかしそれほどまでに絶対的な愛を生き抜くとは、なんと美しく幸せな生涯だろう。
ウィリーなしにミスター・ボーンズの人生は成立しない。それを憐れということもできる。けれど少なくとも、彼は自分では「これでよかったんだ」と一片の疑いもなく信じている。
それでいいではないですか?

ちなみにタイトルの“ティンブクトゥ”とはウィリーの説明によれば天国のような死後の世界のこと。
由来はトンブクトゥ(Tombouctou)という現在世界遺産に指定されている西アフリカはマリ共和国の都市名。古来より南北アフリカやヨーロッパの商人が行き交う交易拠点だったことからこの地にまつわる多くの伝説や物語が広く伝播し、「異国」「遠い地」の比喩として“ティンブクトゥ”という表現が使われるようになったそうだ。