「アウシュビッツに行かなくては」と最初に思ったのはいつのことだったか、もうよく覚えていない。
その気持ちが実際の行動になるまで、ずいぶん時間がかかったような気もするし、「行こう」と決めてからはさほどの躊躇もしなかった気がする。
時間と体力が許せば、とりあえず現場に行ってみたい。行けるところなら行けるうちに行ったほうがいい。
その重みが現実になったのは、もしかするとほんのちょっとした巡りあわせかもしれない。
「行く」と決めてまず最初にしたことは、中谷さんを探すことだった。
中谷さんはアウシュビッツがあるポーランド・オフィシエンチムに住む日本人で、アウシュビッツ公認の唯一の日本人ガイドだ。もちろん、たくさんの旅行代理店が日本語ガイドつきツアーを企画しているが、その多くは英語やポーランド語のガイドの通訳つきである。そして参加費はなかなか高額である。
アウシュビッツ自体はガイドなしでも入場はできるけど、行ってみればわかる通り、展示にはほとんど説明がない。あっても日本語はない。もしこれから行かれる方がおられたら、できる限りガイドツアーを予約していかれることをお勧めします。
中谷さんの連絡先は tnakatani1966@icloud.com(書籍などでも紹介されているので掲載しても問題はないと思う)。人気のガイドさんだし何しろ日本語スピーカーのガイドは彼ひとりなので、目安としては予定の1ヶ月くらい前までに数日の幅をもって依頼するとスムーズです。料金は一人80ズオティもしくは20ユーロ(定額ではなくケースバイケースかと思われる)。ガイドの所要時間は2時間半〜2時間45分。休憩を挟むと3時間ほどになるし、体力的にも精神的にも消耗するので、前もって多少の覚悟はして臨んだ方がいいかもしれない。靴は歩きやすいものを履いてってください。
アウシュビッツまでの行き方はどこででも調べられるので割愛。
ちなみにアウシュビッツというのは地名ではない。オフィシエンチムというポーランド語の地名がドイツ人には発音しにくいからと、ナチが勝手につけた名前である。
そしてここが、戦後初めて、ほぼ当時のままの形で市民に公開された絶滅収容所だという。人類の負の遺産を永久に歴史の記憶に残そうというポーランド市民の平和への願いがどれほど深く篤いものかが、それだけでも骨身にしみるように伝わる。
入場口前で中谷さんと他のガイド参加者と待ちあわせて、館内に入る。館内にはA4サイズ以上の手荷物は持ち込めないので、事前にクロークに預けておく。
入場口も館内もとても混みあっていた。だいたい朝の通勤時間帯の山手線と同じくらい、上野動物園のパンダ舎周辺と同じくらいには混んでます。
ちょうど訪問したのがヨーロッパのバカンスシーズンに入った直後だったからなのか(恐ろしいことにもう5ヶ月も前のことである)、それとも年中ここまで混むのかはわからない。ほとんどの入場者がガイドツアーのグループで、ひとつの展示から次の展示まで、ガイドの説明を受けながら、ゆっくり進んでいく。日本人・アジア人は私たち以外にはほぼ見かけなかった。ポーランド自体、アジア人にはあまり人気の観光地ではないらしい。
この夏のこの時期、ヨーロッパは熱波で無茶苦茶に暑かった。ポーランドなんかほとんど北欧に近いというのに最高気温が36℃を超える日も珍しくないぐらいだったけど、バスも観光施設もだいたいがエアコンなんてものを備えてないので、どこもかしこも蒸し風呂のような暑さである。大型扇風機が何基も設置してあったけど、まあ気休めにしかならない。
そんな暑さの中で、穏やかに淡々と中谷さんがアウシュビッツについて説明してくれる。
詳細は中谷さんが何冊か書籍を出しているし、世の中にはウィキペディアなんて便利なものもあるので、ここにはなるべく私個人が思ったことだけを書くけど、アウシュビッツって意外と小さいです。規模的にいえば日本のこぢんまりした私立大学よりまだ小さい。こんなところで何万人も殺せるとはちょっと思えないくらい。
それもそのはず、ここはもともとポーランド軍の兵舎だった施設をナチが接収して、最初はポーランドの思想犯を拘留していた。狭かった兵舎を収容者自身の手で増築させたので、よく見ると1階部分と2階部分の構造や資材が少し違っている。建物そのものも小さいし、建物の間の通路も十分な広さはない。しかも朽ちてでこぼこに歪んでいて歩きづらい。
およそ80年前に収容者が整備した通路をそのままの形で残してあるからだそうである。その脇に、錆びてぼろぼろになったローラーが放り出されたままになっている。
アウシュビッツの建物内には、収容されていた思想犯─ナチの侵略に抗おうと戦ったポーランドの英雄である─の顔写真が、名前や職業とともにずらりと展示されている。
中谷さんはナチに拘束され迫害されたのは民主主義のたいせつさを市民に説いた知識層が多かったと説明していたけれど、職業を見ると、大工や商店主、床屋、音楽家、料理人、印刷工など、あらゆる職種の人が含まれている。おそらくは、彼ら一人ひとりは全然特別でもなんでもない、普通の人たちだったんじゃないかと思う。ただ間違ったことは間違っているといっただけ、間違っていることが許せなかったというだけで、ここへ連れてこられて拷問を受け、殺されてしまった。
そういう人たちの写真が、数えきれないほどたくさん壁に並んでいる。
ユダヤ人の遺品ももちろんある。
名前や住所を表書きしたかばんやスーツケースの山。服。靴。めがね。杖。義足や義手。食器や洗面用品などの日用品。女性の遺体から刈り取られた髪の山だけは撮影しないでほしいと、中谷さんはいった。いまもここを訪れる遺族がいることに配慮してほしいということだった。
いずれにせよその物量にはただただ圧倒される。そしてそのひとつひとつが、いま私たちが生活の中で使っているものたちとあまり変わりがないことにも気づく。
それらの持ち主たちのどれだけが、ここでいったい何が行われるのか、自分たちがどうなるのかを、どのくらい具体的に理解していたか、現実として受けとめていたかは私にはわからない。
でも、ここで犠牲になった人々の不存在の山ともいえる品々の羅列の前を歩いていると、そんなことはきっと、誰にもわからないし、わかりようもないという気がしてくる。
わかるわけがない、と突き放しているのではない。
人間は、ほんとうに最後の最後のその瞬間に立ってみないで、その事実を十分に想像し理解することができるほどには頭のいい動物ではない、という気がするからだ。
逆にいえば、それがどんな環境でもひたすらに生き延びたいと願う人の勇気を支える楽観主義であったり、いくらなんでも自分の身の上にそんなにひどいことなんて起こりっこないと思いこみたい愚かさともいえるのかもしれない。
だが歴史の事実は、人間が凡人の想像をはるかに超えてどれほど冷酷に残虐になれるかを証明している。
アウシュビッツのガイドが一通り終わる直前、敷地のすぐ外に、当時の所長の家があった。一見ごく普通の住宅に見える建物の前に、妙な形の物干し台のような小さな絞首台がぽつんと立っている。収容所の解放後に所長が処刑された絞首台である。
彼はこの家で家族といっしょに暮らしていた。妻も子どももいたという。家の中では当たり前の家庭生活を送りながら、鉄条網を隔てた目の前の「職場」で、彼は毎日数百数千という人を搾取し、虐待し、殺害し、遺体を損壊し、人としての尊厳を限界まで踏みにじる「仕事」に就いていた。そしてその家の前で吊るされた。
誰もがそうだとまでは言いたくはないけれど、人間という生き物にそういう部分があるということは、否定することができない。だってほんとうにあったことだから。
休憩を挟んで、巡回バスでビルケナウ収容所に移動する(ここまでで満足した人は帰ってもいい)。
狭いアウシュビッツはすぐに連れてきたユダヤ人を収容しきれなくなり、ナチは隣村の住人をごっそり追い出して、新たに広大な収容所をもうふたつ建てた。そのひとつがビルケナウである。
呆気にとられるくらい広々とした敷地にまっすぐ、何本かの引き込み線が走っている。その線路を挟んだメインストリートのあちこちに、若者のグループが腰を下ろして熱心にガイドを聴いている。
中谷さんによると、彼らはイスラエルから派遣されてきた新兵だということだった。軍隊教育の一環として、はるばるヨーロッパ大陸を縦断して、祖先がどんなめにあったかをこんこんと教えこまれるわけである。
きっとそれはイスラエルという国とイスラエル軍にとってすごく大事なことなんだろうけど、イスラエルは徴兵制だから、ここにきているのは彼ら自身の自由意志ではなく強制なのではと思うと、ちょっと複雑な気分である。
中谷さんは、その彼らの前を横ぎって、日本人観光客の存在をアピールしよう、といった。
イスラエル軍を含めて、遺族以外のユダヤ人がここを訪れるようになったのはここ30年ほどのことなのだそうである。ホロコーストはそれほど、ユダヤ人にとってつらい過去なのだ。それを、地球の反対側の日本からやってきて、その目で確かめ、理解しようとしている人々がいるということを直接知り、心で感じることが、私たち自身の手でできる「生きた外交」だと中谷さんはいった。
アウシュビッツもそうだが、ビルケナウにも下水が通っている。しかもそれは今も機能していて、だからどんなに雨が降っても雪が降っても、ちゃんと造成され整備された敷地を誰でも気軽に歩きまわることができる。
そういう施設を、大量殺人という目的で建設することができる。それも人間の現実だ。
ナチは選挙で生まれた政権だった。民主主義がナチを生んだ。勝手にどこかから湧いて出た化け物集団ではない。
ヘイトスピーチはナチなんかよりもっとずっとずっと前からあった。ナチはそれをうまく利用しただけだった。
誰がユダヤ人で誰がそうでないか、決める境界線なんかどこにもなかった。誰かがそう思えば、その人はユダヤ人になり、障害者になったり、同性愛者になったり、共産主義者になったりした。
そうして決められた人が、全ヨーロッパからここに連れてこられて殺された。
そんなことはいまも、いつでも、どこでも起こり得ることなんだろう。
でも人は学ぶことができる。
誰かに押しつけられた答えではなく、自分の頭で考えた答えは自分の意思で修正できる。
みんながみんな正義のヒーローにならなきゃいけないわけじゃない。
ただ間違っていることは間違っていると、ほんの一握りでいい、一部の人だけでもちゃんと声に出して、行動することを諦めなければいい。
そのための何かを、持って帰ってほしいと、中谷さんはいった。
わざわざアウシュビッツくんだりまでこなくても、自由と平和はいまを生きるわれわれ自身の手でまもられなくてはならないことくらい、わかる。
そう知る、理解する、認識する機会はどこにでもある。
すぐ隣の香港では、いまこの瞬間、学生たちが武装警官たちと命を賭して闘っている。彼らの故郷である香港の自由をまもるためだ。
日本では極右化した政権が国民の権利を無視した法律を勝手につくりまくり、子どもや生活困難者まで搾取し、憲法まで穢そうとしている。あれほど悲惨な戦争のあとに、先達が築いてくれた平和が、まさに危機にさらされている。
だけどアウシュビッツまでこなければわからないことは、確実にひとつだけある。少なくとも私にとって、それはとても大事なことだ。
人間は無自覚であればいくらでも悪人になれるしそのための知恵は無限に広がるのに、正しいことをするための能力は残念ながらそれには到底及ばないということだ。
だからこそ、間違っていることを黙って見過ごすことは、それだけで罪なのだ。
それは違うよ、おかしいよとちゃんということ、いえること、いう自由があることは永遠じゃない。
ある日突然それは取り上げられて、そして二度と戻ってはこない。
書きたかった訪問記なのに、書くのに5ヶ月もかかってしまったのにはちょっとした事情がある。
そのせいで細部まで書けなくて申し訳ない。ご理解ください。
その気持ちが実際の行動になるまで、ずいぶん時間がかかったような気もするし、「行こう」と決めてからはさほどの躊躇もしなかった気がする。
時間と体力が許せば、とりあえず現場に行ってみたい。行けるところなら行けるうちに行ったほうがいい。
その重みが現実になったのは、もしかするとほんのちょっとした巡りあわせかもしれない。
「行く」と決めてまず最初にしたことは、中谷さんを探すことだった。
中谷さんはアウシュビッツがあるポーランド・オフィシエンチムに住む日本人で、アウシュビッツ公認の唯一の日本人ガイドだ。もちろん、たくさんの旅行代理店が日本語ガイドつきツアーを企画しているが、その多くは英語やポーランド語のガイドの通訳つきである。そして参加費はなかなか高額である。
アウシュビッツ自体はガイドなしでも入場はできるけど、行ってみればわかる通り、展示にはほとんど説明がない。あっても日本語はない。もしこれから行かれる方がおられたら、できる限りガイドツアーを予約していかれることをお勧めします。
中谷さんの連絡先は tnakatani1966@icloud.com(書籍などでも紹介されているので掲載しても問題はないと思う)。人気のガイドさんだし何しろ日本語スピーカーのガイドは彼ひとりなので、目安としては予定の1ヶ月くらい前までに数日の幅をもって依頼するとスムーズです。料金は一人80ズオティもしくは20ユーロ(定額ではなくケースバイケースかと思われる)。ガイドの所要時間は2時間半〜2時間45分。休憩を挟むと3時間ほどになるし、体力的にも精神的にも消耗するので、前もって多少の覚悟はして臨んだ方がいいかもしれない。靴は歩きやすいものを履いてってください。
アウシュビッツ収容所の敷地内
アウシュビッツまでの行き方はどこででも調べられるので割愛。
ちなみにアウシュビッツというのは地名ではない。オフィシエンチムというポーランド語の地名がドイツ人には発音しにくいからと、ナチが勝手につけた名前である。
そしてここが、戦後初めて、ほぼ当時のままの形で市民に公開された絶滅収容所だという。人類の負の遺産を永久に歴史の記憶に残そうというポーランド市民の平和への願いがどれほど深く篤いものかが、それだけでも骨身にしみるように伝わる。
入場口前で中谷さんと他のガイド参加者と待ちあわせて、館内に入る。館内にはA4サイズ以上の手荷物は持ち込めないので、事前にクロークに預けておく。
入場口も館内もとても混みあっていた。だいたい朝の通勤時間帯の山手線と同じくらい、上野動物園のパンダ舎周辺と同じくらいには混んでます。
ちょうど訪問したのがヨーロッパのバカンスシーズンに入った直後だったからなのか(恐ろしいことにもう5ヶ月も前のことである)、それとも年中ここまで混むのかはわからない。ほとんどの入場者がガイドツアーのグループで、ひとつの展示から次の展示まで、ガイドの説明を受けながら、ゆっくり進んでいく。日本人・アジア人は私たち以外にはほぼ見かけなかった。ポーランド自体、アジア人にはあまり人気の観光地ではないらしい。
監視塔と高圧電流が流れていた鉄条網
この夏のこの時期、ヨーロッパは熱波で無茶苦茶に暑かった。ポーランドなんかほとんど北欧に近いというのに最高気温が36℃を超える日も珍しくないぐらいだったけど、バスも観光施設もだいたいがエアコンなんてものを備えてないので、どこもかしこも蒸し風呂のような暑さである。大型扇風機が何基も設置してあったけど、まあ気休めにしかならない。
そんな暑さの中で、穏やかに淡々と中谷さんがアウシュビッツについて説明してくれる。
詳細は中谷さんが何冊か書籍を出しているし、世の中にはウィキペディアなんて便利なものもあるので、ここにはなるべく私個人が思ったことだけを書くけど、アウシュビッツって意外と小さいです。規模的にいえば日本のこぢんまりした私立大学よりまだ小さい。こんなところで何万人も殺せるとはちょっと思えないくらい。
それもそのはず、ここはもともとポーランド軍の兵舎だった施設をナチが接収して、最初はポーランドの思想犯を拘留していた。狭かった兵舎を収容者自身の手で増築させたので、よく見ると1階部分と2階部分の構造や資材が少し違っている。建物そのものも小さいし、建物の間の通路も十分な広さはない。しかも朽ちてでこぼこに歪んでいて歩きづらい。
およそ80年前に収容者が整備した通路をそのままの形で残してあるからだそうである。その脇に、錆びてぼろぼろになったローラーが放り出されたままになっている。
アウシュビッツの建物内には、収容されていた思想犯─ナチの侵略に抗おうと戦ったポーランドの英雄である─の顔写真が、名前や職業とともにずらりと展示されている。
中谷さんはナチに拘束され迫害されたのは民主主義のたいせつさを市民に説いた知識層が多かったと説明していたけれど、職業を見ると、大工や商店主、床屋、音楽家、料理人、印刷工など、あらゆる職種の人が含まれている。おそらくは、彼ら一人ひとりは全然特別でもなんでもない、普通の人たちだったんじゃないかと思う。ただ間違ったことは間違っているといっただけ、間違っていることが許せなかったというだけで、ここへ連れてこられて拷問を受け、殺されてしまった。
そういう人たちの写真が、数えきれないほどたくさん壁に並んでいる。
ユダヤ人の遺品ももちろんある。
名前や住所を表書きしたかばんやスーツケースの山。服。靴。めがね。杖。義足や義手。食器や洗面用品などの日用品。女性の遺体から刈り取られた髪の山だけは撮影しないでほしいと、中谷さんはいった。いまもここを訪れる遺族がいることに配慮してほしいということだった。
いずれにせよその物量にはただただ圧倒される。そしてそのひとつひとつが、いま私たちが生活の中で使っているものたちとあまり変わりがないことにも気づく。
それらの持ち主たちのどれだけが、ここでいったい何が行われるのか、自分たちがどうなるのかを、どのくらい具体的に理解していたか、現実として受けとめていたかは私にはわからない。
でも、ここで犠牲になった人々の不存在の山ともいえる品々の羅列の前を歩いていると、そんなことはきっと、誰にもわからないし、わかりようもないという気がしてくる。
わかるわけがない、と突き放しているのではない。
人間は、ほんとうに最後の最後のその瞬間に立ってみないで、その事実を十分に想像し理解することができるほどには頭のいい動物ではない、という気がするからだ。
逆にいえば、それがどんな環境でもひたすらに生き延びたいと願う人の勇気を支える楽観主義であったり、いくらなんでも自分の身の上にそんなにひどいことなんて起こりっこないと思いこみたい愚かさともいえるのかもしれない。
だが歴史の事実は、人間が凡人の想像をはるかに超えてどれほど冷酷に残虐になれるかを証明している。
アウシュビッツのガイドが一通り終わる直前、敷地のすぐ外に、当時の所長の家があった。一見ごく普通の住宅に見える建物の前に、妙な形の物干し台のような小さな絞首台がぽつんと立っている。収容所の解放後に所長が処刑された絞首台である。
彼はこの家で家族といっしょに暮らしていた。妻も子どももいたという。家の中では当たり前の家庭生活を送りながら、鉄条網を隔てた目の前の「職場」で、彼は毎日数百数千という人を搾取し、虐待し、殺害し、遺体を損壊し、人としての尊厳を限界まで踏みにじる「仕事」に就いていた。そしてその家の前で吊るされた。
誰もがそうだとまでは言いたくはないけれど、人間という生き物にそういう部分があるということは、否定することができない。だってほんとうにあったことだから。
木立の手前に絞首台が見える
休憩を挟んで、巡回バスでビルケナウ収容所に移動する(ここまでで満足した人は帰ってもいい)。
狭いアウシュビッツはすぐに連れてきたユダヤ人を収容しきれなくなり、ナチは隣村の住人をごっそり追い出して、新たに広大な収容所をもうふたつ建てた。そのひとつがビルケナウである。
呆気にとられるくらい広々とした敷地にまっすぐ、何本かの引き込み線が走っている。その線路を挟んだメインストリートのあちこちに、若者のグループが腰を下ろして熱心にガイドを聴いている。
中谷さんによると、彼らはイスラエルから派遣されてきた新兵だということだった。軍隊教育の一環として、はるばるヨーロッパ大陸を縦断して、祖先がどんなめにあったかをこんこんと教えこまれるわけである。
きっとそれはイスラエルという国とイスラエル軍にとってすごく大事なことなんだろうけど、イスラエルは徴兵制だから、ここにきているのは彼ら自身の自由意志ではなく強制なのではと思うと、ちょっと複雑な気分である。
中谷さんは、その彼らの前を横ぎって、日本人観光客の存在をアピールしよう、といった。
イスラエル軍を含めて、遺族以外のユダヤ人がここを訪れるようになったのはここ30年ほどのことなのだそうである。ホロコーストはそれほど、ユダヤ人にとってつらい過去なのだ。それを、地球の反対側の日本からやってきて、その目で確かめ、理解しようとしている人々がいるということを直接知り、心で感じることが、私たち自身の手でできる「生きた外交」だと中谷さんはいった。
アウシュビッツもそうだが、ビルケナウにも下水が通っている。しかもそれは今も機能していて、だからどんなに雨が降っても雪が降っても、ちゃんと造成され整備された敷地を誰でも気軽に歩きまわることができる。
そういう施設を、大量殺人という目的で建設することができる。それも人間の現実だ。
ナチは選挙で生まれた政権だった。民主主義がナチを生んだ。勝手にどこかから湧いて出た化け物集団ではない。
ヘイトスピーチはナチなんかよりもっとずっとずっと前からあった。ナチはそれをうまく利用しただけだった。
誰がユダヤ人で誰がそうでないか、決める境界線なんかどこにもなかった。誰かがそう思えば、その人はユダヤ人になり、障害者になったり、同性愛者になったり、共産主義者になったりした。
そうして決められた人が、全ヨーロッパからここに連れてこられて殺された。
ビルケナウ。棚一段に3〜5人が雑魚寝していた。
そんなことはいまも、いつでも、どこでも起こり得ることなんだろう。
でも人は学ぶことができる。
誰かに押しつけられた答えではなく、自分の頭で考えた答えは自分の意思で修正できる。
みんながみんな正義のヒーローにならなきゃいけないわけじゃない。
ただ間違っていることは間違っていると、ほんの一握りでいい、一部の人だけでもちゃんと声に出して、行動することを諦めなければいい。
そのための何かを、持って帰ってほしいと、中谷さんはいった。
わざわざアウシュビッツくんだりまでこなくても、自由と平和はいまを生きるわれわれ自身の手でまもられなくてはならないことくらい、わかる。
そう知る、理解する、認識する機会はどこにでもある。
すぐ隣の香港では、いまこの瞬間、学生たちが武装警官たちと命を賭して闘っている。彼らの故郷である香港の自由をまもるためだ。
日本では極右化した政権が国民の権利を無視した法律を勝手につくりまくり、子どもや生活困難者まで搾取し、憲法まで穢そうとしている。あれほど悲惨な戦争のあとに、先達が築いてくれた平和が、まさに危機にさらされている。
戻ることのない持ち主の名前や住まいが表書きされたかばんの山
だけどアウシュビッツまでこなければわからないことは、確実にひとつだけある。少なくとも私にとって、それはとても大事なことだ。
人間は無自覚であればいくらでも悪人になれるしそのための知恵は無限に広がるのに、正しいことをするための能力は残念ながらそれには到底及ばないということだ。
だからこそ、間違っていることを黙って見過ごすことは、それだけで罪なのだ。
それは違うよ、おかしいよとちゃんということ、いえること、いう自由があることは永遠じゃない。
ある日突然それは取り上げられて、そして二度と戻ってはこない。
書きたかった訪問記なのに、書くのに5ヶ月もかかってしまったのにはちょっとした事情がある。
そのせいで細部まで書けなくて申し訳ない。ご理解ください。
それでも、ひとりでも多くの人がアウシュビッツを訪れてくれたらなと、心から思います。行けるところなんだから、行けるうちに。
ホロコーストを生きのびた手記がハリウッド映画となったポーランドのピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの墓。ワルシャワ市内の軍人墓地に眠る。ユダヤ人は弔意を示すときその場に小石を供える習慣があるため、どの墓石や慰霊碑の上にも小石がいくつも載っている。
公式ウェブサイト
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