落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

Life can only be understood backwards, but it must be lived forwards.

2017年03月23日 | movie
『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』

アメリカ生まれの心理学者スタンレー・ミルグラム(ピーター・サースガード)は同朋でもあるユダヤ人を虐殺したアイヒマンの裁判に触発され、「権威への服従実験」で人が権威の前で自らの人間性をいかに否定するかを調査、発表。
その実験方法をめぐって、被験者に実験目的を偽って虐待を強制したなどという批判が相次ぐ。
いまも議論が続く通称“アイヒマン実験”で有名なミルグラム博士の伝記映画。

原題は『Experimenter(実験者)』。
邦題が内容全部説明しちゃってますね。どーなのそれ。アウトやろ。
実をいうとタイトル聞いて観ようとは思わなかったんだよね。予告編をたまたま観たから観たくなったけど、でなかったら観なかった。アカンやろそれ。
最近の海外作品の邦題はマジでひどい。こないだ観た『未来を花束にして』とか『ブラインド・マッサージ』もセンスなさすぎる。『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』なんか古過ぎてまいります(そういやこれなんでレビュー書かなかったんだろー。まあまあおもろかったんやけど)。海外作品の興行が厳しくてつい無難な邦題にしちゃいがちなのもわかるけど、なんというか愛がないよ。

閑話休題。
登場人物が少なくて、研究者の内面に極端にフォーカスした物語なのでものすごく戯曲っぽいです。ていうかむしろ舞台で観てみたい。とっても。舞台で観たらめっちゃゾクゾクしそう。誰かやらないかな(やるんだろうな)。
とはいえ主人公のミルグラムは常に平常心。ビックリするぐらい動じない。実験結果がどんだけ衝撃的でもぴくとも驚かない。台詞では「エキサイティング」とかいってんのに、顔ではまったくエキサイトしてない。いつなんどきもちょーーー淡々としてます。
実際の博士がどんな人だったかはわからないけど、この演出のせいで、被験者や協力者や学生たちのパーソナリティが却ってひきたって人間的にみえる仕掛けになっている。ロボみたいに冷静沈着なマッドサイエンティストVSマトモなフツーの人々、みたいな。だからこそ、そういうマトモなフツーの人々が、マトモじゃない状況に放り込まれたらどうなるか?という実験がサスペンスフルに感じられるワケです。やるね。
ただそれだけだとさすがに博士がマジでヤバいマッドサイエンティストになっちゃうので、綺麗なワイフ(ウィノナ・ライダー)やら子どもたちが出てきて、ちょこちょこラブなシーンがはさみこまれる。そういうときは博士もとってもマトモなフツーの人として描かれる。アクセントです。

この“アイヒマン実験”はいまでも批判されることがあるらしいけど、個人的にはなにがいけないのかよくわからない。
確かに博士は被験者を騙したけどそもそも社会実験とはそういうものだし、実験後に事情を説明して被験者に了解を得てデータを使用しているし、アフターケアもしている。被験者が批判するのならわかるけど(不満ならいくらでも不満をいう権利がある)、それ以外の誰が何をいう権利があるのだろう。どこがそんなに倫理にもとるのか。謎。
それよりもこの実験の価値は人類にとって非常に大きな意味があるはずだ。この実験が導きだした結論は、高度に社会化された現代社会のもとでの人間性の危うさを実に克明に証明している。自分のアタマで考えない、まわりがそうするから、誰かがそういったから、という曖昧な理由でどんな行為も正当化できてしまう“思考停止”のリアリティとその確実な危険性を、ミルグラム博士ははっきりと暴露した。
そんなこと暴露されたくない人もいるかもしれない。けど少なくとも、誰もがそんな残虐性をもっているのにほんとうはそんなものいつでも否定できることを気づかせてくれる、人が自分の人間性を自分の手で取り返すことができる、そういう可能性を教えてくれるという意味でも、とても大事な研究だと思う。

主人公が画面越しに観客に話しかけてくるという最近流行りの刑事コロンボ・スタイルがすごく自然でよかったけど、ピーター・サースガードの鉄仮面はちょっと永らく眺めてると疲れてくるね。
ウィノナ・ライダーは一見誰だかわかんなかったです。こんな落ち着いた知的マダム役がしっくりくる人だとは意外でした。
とりあえず舞台版がめっちゃ観たい。主演はえーと、そうだなー、竹中直人とかどうでしょう。中井貴一とかもいいかも。

関連レビュー:
『ハンナ・アーレント』
『敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』



子ヤギが踊れば子羊も踊る

2017年03月20日 | movie
『汚れたミルク/あるセールスマンの告発』

製薬会社の営業マン・アヤン(イムラン・ハシュミ)は新妻(ギータンジャリ)の勧めで大手多国籍食品メーカーに転職。粉ミルクを産婦人科病院に売ってトップセールスマンになるが、不潔な水で薄めた粉ミルクを与えられた乳児の死亡事故が頻発している事実を知り、内部告発に踏みきる。
パキスタンで起きた実際の事件を題材にした社会派サスペンス。

エンディングに、劇中の患児の映像は一部が1989年、それ以外は2013年に撮影されたというテロップが表示される。
映画の舞台は2000年代。つまりアヤンが決死の覚悟で告発した腐敗は決して新しい話ではなく、かつ現在も解決していない問題だということである。モデルになったネスレの粉ミルク問題は60年代に東南アジアなどの貧困国で始まり、80年代には世界保健機関が採択した「母乳代用品の販売流通に関する国際基準」にネスレも合意している。ところがこれがまもられていないとして、いまもボイコットなどの抗議は続いているという。

問題は粉ミルクの製品そのものにはなんら害はないという点である。
だが相手は生まれたばかりの赤ん坊、親が与えるもの以外の何も口にできず、免疫力は低い。たとえば親が貧しかったり文字が読めなかったり、清潔な水にアクセスできなかったりすれば、それはそのまま子どもの命取りになる。そもそもそういう地域で売るべき商品ではない。ところが西欧文化への無批判な憧れや病院ぐるみの収賄が、そんなリスクをなかったことにしてしまう。犠牲になるのはいつも、いちばん弱い存在だ。

映画は、ドキュメンタリー映画の製作チームがカナダに亡命したアヤンにビデオ会議でインタビューをする中で過去を回想するという形で描かれている。
この手法がものすごくうまい。
彼の視点だけにしぼった物語にすれば下手なヒロイズムに偏ってしらじらしいメロドラマになってしまいそうなのを、とにかく法的なリスクを排除したがりエビデンスにこだわりまくる現実派の西欧人たちの密談が合間に差し挟まれることで、多国籍企業相手の内部告発がいかに難しいものか、そうした権力を相手に社会問題の解決を目指すたたかいの困難さが、非常にリアルにドライに伝わるしくみになっている。
相手には力もある。カネもある。どう転んでも勝ち目はない。あるのは世論を味方につけるための完全無欠な理論武装だけ。それにもひとつたりとも穴はゆるされない。

劇中に大手多国籍食品メーカーの上司が「水道を整備しない政府が悪い」という台詞がある。
おそらくそう思う人はたくさんいるだろう。
でも、現状水道がないところで使えば危険な商品でも、儲かるのならいくら強引に売ってもいいという企業倫理は、少なくともこの21世紀には通用しないし、させてはいけない。
であれば消費者にできることから、やっていくしかないんだよね。



扉が開くその日まで

2017年03月19日 | lecture
講演会「小さな命の意味を考える~大川小事故6年間の経緯と考察」



スピーカーは大川小学校で亡くなった故・佐藤みずほさん(当時6年生)の遺族・敏郎さん。
2011年3月19日の、当時勤めていた女川第一中学校の卒業式の記念写真を見せてくださる。
予定では12日だった卒業式が延期になって、19日。卒業式といっても教師も生徒たちも着の身着のまま、それでもカメラに向かって笑っている。
前日の18日は大川小学校の卒業式が予定されていた。敏郎先生の次女・みずほさんはピアノが得意で、卒業式でも伴奏を担当することになっていて、自宅でもよく練習していたという。
その18日に、みずほさんの遺体を火葬した。

敏郎先生は中学教師だった。
女川第一中学は高台に建っていたが全校生徒を連れて避難し、一人も犠牲者を出していない。
あの日は勤務先にいて自宅には戻れず、必死に訪ねてきた家族と再会してみずほさんの訃報を耳にしたのは13日のことだったという。聞いてもなんのことだか理解できず、アタマが真っ白になったという。
以後は学校と教育委員会の説明会、検証委員会と、遺族の中心となって行政とのやり取りに奔走してこられた。「子どもがいれば、学校行事やら部活の大会なんかにいくでしょ。そんな感覚です」と笑っておっしゃった。

あの未曾有の大災害で、学校管理下で子どもが犠牲になったのは大川小学校ただ一校である。
だからそれを「仕方がなかった」でかたづけるべきではないと敏郎先生はいう。
大川小学校は海から3.8キロ内陸の北上川沿い。川下の長面地区には10万本の松原が広がっていた。津波でなぎ倒された大木は残らず引き抜かれて北上川を逆流、川幅500メートルの新北上大橋にひっかかって巨大なダムになった。そこにぶつかった津波は高さ10メートルの黒い水の壁になり、堤防を潰して釜谷の町を小学校ごと飲みこんだ。
10メートルの津波に巻き込まれて逃げられる人間なんかいない。その光景を目にして、先生たちは何を思ったか。亡くなった先生たちも子どもたちをまもりたかったはず。無念だったはず。その無念を、無駄にしたくないという。
なぜか津波が来る方向に避難した先生と子どもたちがすり抜けたという、校庭のフェンスのたった70センチの隙間。74人の子どもたちと10人の先生が生きてここを通ったときのことを、考えるのだという。

親なら誰しも「学校では先生のいうことをよく聞くんだよ」と子どもにいうだろう。ごく一般的に。
大川小の子どもたちは先生のいうことを聞いていて命を落とした。教師でもある敏郎先生は「先生のいうことをきかなければ助かったのに」という言葉がとてもつらかったという。
学校は子どもの命を預かる場所なのに、学校なら安心だと誰もが思う場所なのに、大川小は最悪のその瞬間、機能しなかった。そこに「学校が陥りがちな過ち」が存在するはずである。それを明確にしない限り、いつかどこかで同じ悲劇は起こってしまうだろう。それを食い止めなければ、亡くなった先生や子どもの犠牲は決してむくわれない。
敏郎先生によれば、大川小学校はあまりにも平和過ぎたのかもしれない。田舎の小さな綺麗な学校。行事の保護者の参加率は100%、地域の誰もが愛した小学校だった。その平和が学校経営の甘さになり、落とし穴になったのかもしれない。防災マニュアルは子どもの命を救うためではなく、書いて戸棚に置いておくため、教育委員会に提出するためだけのものだった。書いた教諭自身の証言がそれを物語っている。
そもそも人の想定には限界がある。犠牲が出るような災害はいつも想定外だから、想定外のときにこそ学校経営の軸の強さが問われてしまう。

事後の学校側や教育委員会の対応については、敏郎先生は努めて感情を排して語ってくださった。
ご自身も教師で教委の方々のことはよくご存知なのだろう、スクリーンに説明会時の画像を写しては「この人いい人なんですよ、いい先生なんです、でも」といちいち注釈を挟んでくださったが、遺族にきちんと向きあおうとせず、嘘や捏造や隠蔽を繰り返し、子どもの命をまんなかに置いて話しあいたいと自ら歩み寄ろうとする遺族すら平気で裏切られた無念さは、どうしてもにじんで聞こえてしまった。
続く検証委員会では、遺族が必死に集めて提供した情報は委員に伝わらず、聞き取りとは名ばかりの誘導的なパフォーマンスに終始し、遺族に批判された委員は体調不良で欠席ばかり、最後には半数程度しか参加していなかったという。結果的に出された「提言」は大川小学校とはまったく無関係で、遺族も誰も望まないものだった。子どもの命の話にならない“検証”とは、いったい何のための検証なのか。

最後に敏郎先生は、どこにでも、あのときの“大川小学校の校庭”は存在するとおっしゃった。
おそらくそれは、ご自身の経験からの発言なのだと思う。
他の学校では、逃げよう、いやここにいようという議論があって、喧嘩してでも子どもを連れて逃げて、難を逃れている。
その議論が、喧嘩が、大川小学校ではできなかった。
それを責めたり裁いたりするのではなく、「なぜ」と問い続けるべきだという。
かくしたり誤摩化したりするのは、意味がない。
それでは、亡くなった子どもたちや先生方の犠牲は、なんのための犠牲だったのか。

終盤に2年生の担任教諭の遺族・佐々木奏太くん(宮城教育大学2年)もお話された。
同じ教諭遺族からの批判もうけながら児童遺族と交流し、語り部の活動も始められている。その勇気が、痛々しかったです。

以下質疑応答ダイジェスト。

Q.生存者の“A教諭”は?
A.彼は決して不幸になってはいけない。不幸にしてはいけない人。
海辺の学校を赴任してきて、自然科学が得意な、子どもに人気の先生だが、いまも休職中で誰もあえない。敏郎先生はアプローチしたこともあり、教諭自身も会いたがっていたということだが、会えなかった。
ところが裁判で学校側が敗訴すると「証言してもらわなくては」という発言が教委から聞かれた。A教諭は“道具”じゃないのに(激怒)。

Q.学校のそばの“しいたけ山”に立派な「立入禁止」看板があるが?
A.私有地なのに、石巻市が所有者に無断で建てた。
所有者はひとつ下の後輩(被災していまは別の場所にお住まい)。

Q.敏郎先生は記者会見に出るにあたって職場周辺に“根まわし”をされ「存分にやってこい」といわれたというが、女川教委とは何が違う?
A.初め遺族の間でも「敏郎さんは先生だから」と前に出さないように忖度してくれていたが、2012年6月にそれまで隠されていた資料の存在が明らかになり「まんなかに座ってやってよ」という声が高まった。前日まで悩んで、教委や部活関係やPTAなど20軒ほどに電話して事情を説明したところ、全員口を揃えて「気にするな」といってくれた。
それで会見場にいったら、目の前に座っているのは自宅に取材に来て母親のつくった食事を食べていた記者ばかりだった。だから血の通った会見ができたと思う。
根本的には教委はどこも同じ。立場が違うだけ。

Q.佐々木奏太くんへの質問。教員になろうとする意志の障害はあるか。
A.宮教大は教委との結びつきが強く、大学内でも大川小の件はタブーになっている。教員は断念し、他の道に進むつもりでいる。
奏太くんの活動をうけて大学の姿勢にも変化が見られるという。

Q.遺族は54家族だが提訴にふみきったのは19家族、その差は。
A.教委の説明や検証委員会に疲れ、心折れてしまった遺族もいるなかで、19家族は多いと思う。それでもさまざまな葛藤があって、提訴は時効の1日前だった。原告家族には「金目当て」と陰口をいわれるなどの差別もある。ちなみに敏郎先生は原告団には加わっていないが、原告団家族や弁護士との交流はある。

大川小を何度か訪問し、資料も読んでいたけどそれでも盛りだくさんの講演だった。
個人的に感じてきた疑惑が、ご遺族の言葉を聞いてやはり思い違いではなかったという感覚を得ることもできた。
これはやはり災害というより事故だし、事故であるなら原因があるはずで、それはつきとめて明らかにされなくてはならないものだと思う。
次は現地で始まった語り部の活動に参加してみたいです。

関連記事:
『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』 池上正樹/加藤順子著
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著

佐藤敏郎さん~命は小さく、そしてもろいもの。大切なのは、そう認めたうえで、前を見て進んでいくこと

大川小学校津波訴訟
大川小学校を襲った津波の悲劇・石巻
大川小学校の悲劇 検証・大川小学校事故報告 検証はまだ終わっていない 東日本大震災4年

復興支援レポート



6年目

2017年03月18日 | 復興支援レポート
今年も3月11日を東北で過ごした。

2012年のその日をたまたま当地で過ごす機会があって、それから毎年、この日はここに来ている。
今年で5回目。もう習慣のようなものだ。正直、その日に別の場所にいる自分がうまく想像できない。

6年前、私は東京にいて地震を体験した。直後に報道で東北地方の被害を目にして、都内でも続く余震に怯えながら、できることが何かないか探し始めたあのときから、その災害はずっと私の隣にある。
あの災害と、その後の体験は、私をずいぶん遠くまで連れてきてしまった。その道はもう二度と引き返せないところまで来た。
だからたぶん、私の中であの災害が“整理”されて“過去”のものになることは、きっとない。
あるとしても、ずいぶん先の話だろうと思う。いまはまだ、うまく想像できないくらい。

それでも世の中はどんどん先に進んでいく。
あれだけの大災害も、無数の悲劇も不条理も、なかったことにしてしまいたいかのような空気。
誰もが被災した地域とそこで苦しんでいる人たちのことを思い、できることがないか考えたあのころのことはどんどん置き去りになっていく。
それはそれでいいのかもしれない。世の中は前に進むものだから。いつまでも同じところには立ち止まってはいられないから。
でもほんとうは、人が思うほど物事は何もかもがそう都合良くは進まない。“復興”という言葉に追いつめられ、苦しめられている人だってたくさんいる。なのに、彼らのことは誰も見向きもしない。
その一方で、3月11日が近づけば、メディアは思い出したようにあの日の話題をひっぱりだして、神妙な顔でわかったような話をし始める。
それがまるで年中行事のように繰り返されるのがちょっと聞いてられなくて、毎年その日は東北にいるのかもしれない。

決して忘れられない記憶で埋まった6年間。

すべてが黄土色の泥と瓦礫に覆われ、どこが道なのか家なのかわからなくなった町の風景。
ヘドロに埋もれ、粉々に壊れ、もとが何だったのか判別がつかない無数の瓦礫の欠片。
何日も燃え続け、いちめん完全に焼け落ちた町の夜の深い暗闇。
乾燥したヘドロの粉塵が風に舞い、空気に満ちる独特のにおい。
見渡す限り一軒も家がなくなり、家や商店の土台と複雑な形にねじ曲げられたガードレールだけが続く町のメインストリート。
海がみえない場所にぽつんと打ち上げられた漁船。
ぐしゃぐしゃに変形した膨大な数のクルマがうずたかく積み上げられた山。
献花台に並んだ花とお供え物と線香の匂い。
海底に沈んだクルマや漁船から漏れる燃料で薄黄色く濁った波。
気丈に明るく元気に振る舞い続けた地元の方が初めて見せた涙。
1年目のその時間、サイレンを聴きながら、海岸で魚の身を切って海鳥にあげていた人。
倒壊した自宅をかたづけたくても、線量が高くて近づけないと話してくれた人。
津波に破壊された家の綺麗なカーテンをはためかせていた5月の風。
無人の街を我が物顔で飛び回っていたカラスの大群とやかましいほどのカエルの大合唱。
言葉もなくて、ただ息をのむしかなくて、涙も出ないほど悲しいという感情を、生まれて初めて知った。

そこで出会ったいろんな人たちとの出会い。別れ。
うれしかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと。
一生の思い出もあれば、一生後悔し続けるような出来事もあった。
全部がいまの私に確実につながっている。
なにがわからなくても、それだけははっきりいえる。

だからずっとこの先も、6年前のあの日を出発点に、生きていくのだと思う。
それ以外の道は、たぶんない。

 
気仙沼市と大島を結ぶ鶴亀大橋の工事に使用されるクレーン船。30メートル?40メートル?とにかく大きい。気仙沼港にて。

復興支援レポート



川のそばの学校で

2017年03月16日 | book
『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』 池上正樹/加藤順子著

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東日本大震災で全校生徒108名中74名が犠牲になった石巻市立大川小学校の悲劇を取材し続け、2012年に『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』を刊行したジャーナリストによるその後の検証委員会の模様を記録したルポルタージュ。

2011年の春。最初に大川小学校を訪問したとき感じた違和感が、初めはなんなのかわからなかった。
目にした風景があまりに異様だったからかもしれない。
見渡す限りいちめん泥と瓦礫と化し、満潮になると冠水してしまうほど地盤沈下が進んだ町。
その後、瓦礫がかたづけられてからやっと、その違和感が何なのかはっきりわかった。海抜がものすごく低いのだ。
実をいうと、私自身が通った中学校と高校も海に近い、川のすぐそばに建っていた。中学が西岸で高校が東岸のほぼ向かい合わせ、どちらもそれこそ校舎の窓から堤防がみえるくらいの距離。自宅はもう少し川幅の狭い別の川の近く。もともと農耕地を開発した新興住宅地でそこら中が用水路だらけだったために、大雨が降るとしょっちゅう洪水で家は浸水していた。
それでもそのあたりの海抜はせいぜい5〜6メートル。一方で大川小学校があった石巻市釜谷地区の海抜はわずか1メートル。毎年台風がくる地方で育った人間の目に、その低さが“違和感”としてうつったのだ。
結局両親はその家を手放し、いまは洪水のこない地域で暮している。売った家には阪神淡路大震災で被災された方が住んでいる。



大川小学校は海岸から4キロ上流にある。津波がくるといってもにわかに危機感を感じるような距離ではないかもしれない。
でも川はすぐ目の前にあった。地震や津波という以前に、もっとひろく災害に敏感でもよかった環境だ。2008年には貞観津波がこの地域にも到達していたという指摘もあった。
よしんばこんな大災害があってもなくても、急斜面の山と大きな川にどら焼きのあんこよろしくぴったり挟まれた小学校で、防災マニュアルもろくに周知されず二次避難場所すら決められず、校長が留守だというだけで、教職員の誰もリーダーシップをとって予防原則に従って行動することができなかった原因は、ひとえに「子どもの命と安全をまもる」という学校の使命が軽視されていたからなのは明らかな事実だろう。
そもそもこの悲劇は学校管理下で起こった。だから責任の所在は学校にある。議論の余地はない。災害だから仕方がないという理屈は通らない。もっと危険な場所の他の学校でさえ、児童全員を避難させることができたのだから。なのにその責任を、学校も石巻市教育委員会も認めないから、文科省が出てきて第三者検証機関が設置された。
さて問題はその検証の目的である。

教育委員会が責任を認めないなら、第三者である検証委員会が認めさせてくれる、認めざるを得ない証拠を突きつけてくれるだろう。遺族ならそう期待するのが人情である。そのためのはたらきかけにも彼らは決して妥協はしなかった。
しかし音頭をとるのは文科省だから、行政の責任を認めるなんてことはハナからしない。日本の官僚組織でそういうことはまず起こらない。みるからにまともそうな面子を綺麗に揃えて、たっぷりとお金と時間をかけて彼らがやったことといえば、「第三者が公正を期すために」遺族が血の涙を流しながら1年かけて拾い集めた事実をぜんぶ御破算にして、「ゼロベース」で行政にとって都合のいい“検証委員会”ごっこをすることだった。それが彼らが目指した“検証”だった。費やされた1年という時間と5700万円という血税は、ただ遺族の心を袋叩きに傷つけ疲弊させただけだった。

石巻市でも河北地域という中心部からクルマで1時間も離れた過疎地の人々と、中央行政の官僚が対峙するのは並大抵のことではない。
震災関連だがべつの問題でそうした場でたたかってきたある被災者の方と話す機会があったとき、彼は「ふつうそういう場に共通言語はない。対等な議論なんか成り立たない」と発言した。まあそうだろうと思う。暮してる世界が違うんだから。
それでも遺族は負けなかった。折れなかった。その激しい相克には、心から敬意を感じる。そして二度と抱きしめることができない子どもたちへの深く熱い愛と、親としての矜持を感じる。
だがそれはそれとして、官僚はやはり官僚でしかない。行政の責任なんかどう転んだって認めないのだ。誰が貶められようが虐げられようが、そういうことに意味はないのだろう。
ではいったい誰が、これだけ災害の多い国の子どもたちを、人の命をまもってくれるというのだろう。
そういう国で、安心して子どもを生み育てられる人が、どこにいるだろう。
わざわざテロや戦争なんて話をひっぱりださなくても、日本という国に危機はいくらでもある。そういう日常的な危機のもとで、いったい何を信じればいいのか。
遺族は愛する我が子の死の責任を通して、そのことを問うているのだ。

検証委員会が終わった直後の2014年3月10日、遺族は県と市を相手に損害賠償訴訟を起した。教育委員会も文科省もだめなら、裁判で真実を明らかにしたいからだ。
去年10月、仙台地裁は学校側の過失を認定し県と市が敗訴したが、両者はすぐ控訴している。議会では傍聴席から市民の抗議を浴びながら控訴が決議されたという。
悲しすぎる。
地震の後で降り出した雪の中を襲ってきた津波。どんなに寒くて、つめたくて、怖かったことか。
子どもたちや教職員の命が奪われただけでも悲しいのに、そこで決して起きてはいけないことが起こっていた事実を何がどうあっても必死に隠蔽しようとする、この国のしくみがあまりにも悲しすぎる。
検証委員会が最終的にまとめた提言がどれだけ立派でも、そこにほんとうに起こった重大な過失の事実がともなわなければ、そんなもの絵に描いた餅にしかならない。10年もすればみんな忘れてしまう。

でも絶対に、忘れちゃいけないことも、あるのだ。

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復興支援レポート