落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

エゼキエル書38章23節

2016年03月21日 | movie
『サウルの息子』

1944年、アウシュビッツ強制収容所でゾンダーコマンド(“特殊部隊”の意)として収容者の抹殺処理作業に従事していたサウル(ルーリグ・ゲーザ)は、殺されたユダヤ人の中に我が子とよく似た少年を発見。ユダヤ教の教義に則って埋葬してやろうと奔走する。
実際にこの年の10月にアウシュビッツで起きたゾンダーコマンドの反乱を下敷きに描いたハンガリー映画。2015年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作。

ホロコーストではナチスがユダヤ人にユダヤ人を虐待させ、殺させたことはよく知られてますが。収容所だけじゃないですね。ゲットーでユダヤ人たちを取り締まってたのもユダヤ人。命を奪うだけじゃなく、人としての倫理観やプライドまでもズタズタにしたホロコーストだけど、ナチスはユダヤ人本人たちだけでなく、ドイツ人やハンガリー人、フランス人など占領したあらゆる地域の市民をもユダヤ人絶滅作戦に巻き込んでいった。
敗戦後のドイツは徹底して自国の戦争責任を問い続けているけど、じゃあ他の国ではどうなんだろう。数百万人ものユダヤ人を死に追いやったことを、単純に過去の出来事、他人事として忘れてしまっているのではないだろうか。それでいいのだろうか。

映画はねー目が疲れた。ものすごく。
画面の縦横比が1.37 : 1と特殊なうえに、カメラがひたすら主人公の顔か背中か後頭部にがぶり寄り。被写界深度が異常に短くて、主人公の顔とか背中以外に画面に映ってるものがハッキリ見えないだけでなく、画面の左右がクロップされているので、音とか状況で想像して補完する以外にない。かつ収容者やらゾンダーコマンドの言語がバラバラで、しかも人目をはばかってやたら小声でコソコソ会話するからか、字幕がないとこがむっちゃ多い。なのに出ずっぱりの主人公はラストシーンを除いてほぼ無表情だから、何を考えてるのかがまったく読めない。
なので、ぶっちゃけていえば画面の中で何が起きてるのか、具体的にはよくわからないパートがすっごく多い。めちゃめちゃ怖いことが起きてるということだけはなんとなく伝わってくる。そのあまりの恐ろしさに、見たくない、知りたくない、考えたくない、感じたくないという感情が働くのを、こういう映像で主観的に表現したかったのはとてもよくわかる。

ホロコーストが終わっても人種差別や同性愛者や障害者への差別はなくならないし(ホロコーストでは性的少数者や障害者も抹殺の対象になった)、地上から戦争がなくなることもまだない。いまも世界では、ただそこに生まれたというだけで命の危機にさらされ、誰からもまもられず虫のように踏みにじられている人が無数にいる。
それを、あまりに恐ろしいからと、見たくない、知りたくない、考えたくない、感じたくないからと、目を背け続けていていいのかと、この物語は問うている。人間誰しも自分がかわいい。だが自分かわいさに問題解決を人任せにして、ほんとうに自分自身をまもれるものだろうか。それは自分で自分の知性や人間性を否定することではないのだろうか。

収容所の中の殺伐とした空気と、外の川縁の森の緑と鳥のさえずりが対照的で、前から行きたいと思ってたアウシュビッツにますます行きたくなった。
震災以降、海外旅行に行く気がまったくしなくなって(そんな時間とお金があったらとにかく東北に行きたかった)、こないだ出張に行くまでまる6年海外いってなかったけど、次行くならやっぱポーランドってことにしようかなー。



Waterloo

2016年03月21日 | movie
『キャロル』

1950年代のニューヨーク。
百貨店店員のテレーズ(ルーニー・マーラ)はクリスマスプレゼントを買いに来た人妻キャロル(ケイト・ブランシェット)が忘れた手袋を、伝票に書かれた住所に郵送したのをきっかけに彼女と急接近する。恋人リチャード(ジェイク・レイシー)との結婚にも踏みきれないでいたテレーズだが、瞬く間にエレガントで妖艶なキャロルの魅力の虜となり・・・。
『太陽がいっぱい』や『見知らぬ乗客』で知られるパトリシア・ハイスミスの実体験に基づく小説の映画化。

大ヒット映画になった『太陽がいっぱい』も『見知らぬ乗客』も同性愛を暗示的に描いたミステリアスなミステリーとして、いまも人気の作品ですが。
この『キャロル』はそのものすばり同性愛の話です。発表当時も同性愛読者を中心にかなり人気があったらしいけど、映画化はされなかった。当時のハリウッドにはヘイズコードという倫理規定があって、同性愛はそのまま映画では描写することができなかったのだ。
この作品の映像は色彩構成も照明もクラシカルだし、登場人物の挙措動作まで50年代の映画のようなリアリティがあるけど、それはある意味でヘイズコードというメディアの自主規制による人権侵害の暗喩表現なのかもしれない。
なぜなら、この物語そのものは同性愛への差別を糾弾したり、不倫を賛美したりはしていないからだ。それ以前に、人が己の人間性を認め受け入れ、自立したうえで互いに尊重しあうことの難しさと美しさと大切さを、奇を衒うことなく淡々と静かに、しかし力強く描いている。そういう映画としての本質ではなく、倫理という名のルールで表現を縛ろうとしたヘイズコードはいまは過去のものだが、それでも人の意識の中にはまだ、差別は生きている。

終始おどおどして主体性のないテレーズを演じたルーニー・マーラには最初から最後まで超イライラさせられっぱなしでしたが、ケイト・ブランシェットは例によってものごつゴージャスでした。この人の声いいよねえ。低くてソフトでさ。ただ綺麗なんじゃなくて、なんだかイケイケドンドンな感じがかっこいい。好きな女優さんです。
メロドラマといえばメロドラマなんだけど、この二人の熱演に最後まで引っ張られてとても楽しめました。印象的な映画とまではいかないけど、力作なんじゃないでしょうか。はい。