落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

あなたは誰

2022年12月14日 | movie

『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』

1942年、フランスでナチに捕まったユダヤ人の青年(ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)は護送車の中で偶然隣に座った青年からねだられて、ポケットのサンドイッチをペルシャ語の本と交換する。直後に同乗していたユダヤ人は森の中で全員引きずり下ろされ次々に銃殺されるが、青年は持っていた本を証拠に「ユダヤ人じゃない。ペルシャ人だ」と嘘をついて、生きて収容所に連れて行かれる。収容所のコッホ大尉(ラース・アイディンガー)がペルシャ語を教えてくれるペルシャ人を探していたからだった。青年は毎日大尉に架空のペルシャ語を教え続けることで生き残ろうと試みるが…。

あなたは、いつ何をもってして自分がどこの誰で何という国の人だ、ということを知りましたか。そのときのことを覚えていますか。
私はめちゃくちゃ強烈に覚えている。
あれは小学校3年生の冬の朝で、母に台所のストーブの前に呼ばれてこういわれたのだ。
「あのな、あんたは日本人やなくて、朝鮮ゆう国の人なんや。そのことで、これからつらいことがいろいろあると思う。でもお父さんもお母さんも、おじいさんやおばあさんに生んで育ててもろうた義理がある。そやからあんたも堪えてちょうだい」

その一言一句、母の強張った表情、わずかに震えていた声音や、着ていたウールの服の肌触り、冷えた朝の空気、ストーブの上のやかんや時計がたてる音や台所の風景を、いまもくっきりと思い出すことができる。

いわれて私は素直に「そうか。それなら仕方がない」と事実をうけとめた。
以来、在日コリアンであることを理由になんやかんやと面倒なことやしんどいことを数限りなく経験してきたが、在日コリアンであること自体を恥じたことも、恨んだことも一度もない。なぜなら私が在日であることも、両親が在日に生まれたことも、誰にもどうしようもないことだからだ。在日だからこそ知ることや感じることもある。それは在日でなければわからないことでもある。ある意味ではちょびっと恵まれていると捉えることもできる。

主人公はユダヤ人でありながら出自を偽り、ペルシャ人になりすますことで生き延びようとするが、言い方を変えれば、彼がどこ出身の誰で何を信仰してるかなんて、実のところほとんど深い意味はないということにもなる。
演じたナウエルさんは黒髪でうっすらユダヤ人っぽい外見ではあるが、実際にはアルゼンチン出身である。逆にユダヤ人でも明るい髪色の人もいるし、一見してフランス人やロシア系に見える人もいる。敬虔なユダヤ教信者でユダヤ人独特の黒い帽子をかぶって黒い長いジャケットを着てもみ上げを伸ばしてる人もいるし、シナゴーグなんか生まれてこの方いっぺんもいったこともなければ見たこともないなんて人もいると思う。
つまりユダヤ人のユダヤ人たる定義なんてそこまで大した根拠なんかないということもできるし、他の人種や民族にも同じようなことがいえるのではないだろうか。例えば、民族学とか遺伝学といった学問上の日本人の定義も、視点によって全然違ったりするんじゃないかと思う。

この映画では「父がベルギー人で母がペルシャ人(逆だったかも)」「ペルシャ語は家で話してただけで読み書きはできない」とかなんとかいう口から出任せの言い訳が主人公をペルシャ人であると定義づける。なんでそんな無茶ができたかってやっぱ本物のペルシャ人に誰も会ったことがないからだよね。答え合わせのしようがない。
といってもじゃあ大尉のペルシャ語の先生として安泰…なんてわけもなく、ちょいちょいピンチは訪れる。でたらめのペルシャ語を教えるわけだから大尉が覚えるのと同じだけ、先回りして架空のペルシャ語の単語をつくって覚えなきゃいけない。いきなり大量の単語を教えろと強要されたり、同音異義語のつもりで口にした一言で大尉が逆上しちゃうこともある。そのたびに観てるこっちは超ハラハラドキドキします。このスリルがなんともいえない。

なんともいえないのは主人公も同じで、収容所では同朋たちがきつい肉体労働でこき使われた挙句に銃殺されたり、まとめて絶滅収容所に送られたりして死んでいくのに、自分ひとりが生き残らなくてはならない。誰にも心を開くことができないから常に孤独。架空のペルシャ語のレッスンは緊張感MAXで、いくら命がかかっているといっても精神的にそう長く耐えられるものではない。いつどうなってもおかしくないというギリギリの状況が延々続く。
めちゃくちゃおもしろい。

けどそこはやはりホロコースト映画なので、最後の最後、涙なしには到底観られないシーンで終わる。
ほんとに切なくて、苦しくて、ホロコーストがどれだけ非人間的だったか、人をユダヤ人とアイデンティファイすることでその人間性をどれだけ否定したかという罪深さが、しんしんと心に響いてくる。

この物語が悲しければ悲しいほど、レイシズムがいかに滑稽で無意味なことかという真理の深みを感じる。
誰がどこの誰だって別になんだっていいじゃないですか。
お互い譲りあって、ほんのちょっとうまく助けあったり、バランスを取りあったりして暮らしてけばいいだけなのに。
なんでそれがこんなに難しいのかがわからない。わからないことが、また悲しい。

 

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それでいいのか日本映画

2022年12月10日 | movie

『ラーゲリより愛を込めて』

1945年8月9日、満州へのソ連侵攻で家族と離れ離れになった山本幡男(二宮和也)は捕虜となり、シベリアの強制収容所に送られる。ロシア語に堪能な彼はソ連軍の通訳を務めていたが故に捕虜仲間に不審の目を向けられるようになってしまう。
冬は氷点下にもなる寒さの中、ろくな食料もなく重労働を強いられる抑留生活で何人もの仲間が次々と命を落とし、誰もが絶望感に苛まれる収容所で必死に皆を励まし、勇気づけ続けた山本だが…。
第21回大宅壮一ノンフィクション賞、第11回講談社ノンフィクション賞を受賞した辺見じゅんの原作を瀬々敬久が映画化。

このブログで毎度断ってますが、私は在日コリアンです。
そのことを如実に感じたのが小学校1年生のときで、夏休みの宿題で読書感想文ってありますよね。
当時確か1〜2年生の課題図書が「かわいそうなぞう」で、同級生はみんなこの本を買ってもらってたんだけど、うちの両親は頑なに「これはダメ」といって買ってくれず、「あんたはもっといい本が読めるでしょ」と別な本を押しつけられた。何の本だったかは全然覚えてない。たぶん上の学年の課題図書だっんじゃないかと思う。

確かに私は3歳ごろから自分で本を読み始め、小学校に入るころには中〜高学年の子ども向けの児童文学全集を読むようになっていたから、その子に今更絵本はな〜という親の感覚はいまにして思えばよくわかる。
けどそれはそれとして、小学校1年生といえば何でも「みんなといっしょ」がいい年ごろ。その気持ちを全否定されて寂しかったことは強烈に覚えている。うちはどうも他所の家とは違うらしい、ということも感じていた。

このころ、私は自分が日本人ではなく在日コリアンであることを聞かされていなかったが、後年、そのことを親から告げられたとき、反射的に「かわいそうなぞう」のことを思い出した。

両親は、日本社会に蔓延る「悪いのは戦前の政府で、庶民はあくまで戦争の被害者」というセンチメンタルな戦争エンタメを、物心ついたばかりの児童に与える学校教育に強烈な反発心を抱いていたのだろう。
もちろん、当時わずか8歳だった私にはそんなことまでは理解できなかったけど、普段読んでいた新聞や雑誌(字が書いてあれば何でも読み漁りまくっていた)を通して、戦前〜戦中の日本がアジア太平洋諸国にどんな仕打ちをしてきたかはすでに知っていた。
素直に、「だから、お父さんお母さんは『かわいそうなぞう』が嫌いなんだ」と思い当たった。

『この世界の片隅に』がめちゃくちゃ大ヒットしたときも思ったんだけど、日本の戦争映画ってホントに世界観が狭い。めっちゃ狭い。
旧政府に軍国教育を強要され、洗脳され、振り回された庶民の皆さんのご苦労は大変なものだっただろうと思うし、無差別に爆撃された町で多くの方々が無残な死を遂げたことは悲しいし、出征したご家族や原爆でお身内を亡くされた方々や、戦争の影響で長い間苦しみ続けた方々のお気持ちは想像するに余りある。
それを文学や映像作品として世に問いたい、観たいというニーズは理解できる。

でも、それだけじゃないんだけどな、と思ってしまうのだ。

日本社会が、旧日本政府が何をやらかしたのか、どうしてそうなったのかをちゃんと総括してこなかったんだからしょうがないじゃないか、という人もいるだろう。
そういうご意見もわかる。
けど、ずっとそのままでいいわけないよね、とも思う。

日本はいま、格差と貧困に喘ぐ国民から搾り取ったカネで軍備を増強しようとしている。
基本的人権と平和を保障する憲法もいつまでもつかわからない。与党の改憲案では基本的人権は丸ごと削除され、政府が国民の自由を好き勝手に制限できるようになっている。このまま放っておけば、憲法はあっさり改憲されてしまうだろう。それが既定路線だということに多くの人が気づいている。
にもかかわらず、この異常事態を本気で打破しなくてはならないという気運はどこからも盛り上がってはこない。

この映画では、一介の満鉄職員だった男が辿った過酷な運命と、それでも生きようと、帰国の日を信じてたたかった人々の凄惨なシベリア抑留生活が緻密に再現されている。
実際に大変な環境で撮影されたんだろうなとは思うし、出演者はほんとによく頑張ってると思う。そこは素晴らしいと思う。とりわけ、主演の二宮くんの潤んで透き通った瞳がどんなに苦しいシーンでも宝石のようにキラキラと輝いていて、山本幡男という人の純粋さを美しく表現しているように見えたのには流石の表現力を感じました。
でも同時に、物凄い違和感も感じる。瀬々さんってこんな監督だっけな?という疑問符が、観ている間中、頭の中でぐるぐる回っていた。

だってなんかすっごい段取り調なのよ。全体的に。
画面上では、ホラ可哀想でしょ、気の毒でしょ、寒そうでしょ、お腹すくよね、大変だよね。ね。ね。という一方的で一面的な場面がひたすら続いていく。
それで感動できる人ももちろんいるだろうと思う。すごい規模の作品だし豪華キャストだし。まあある程度のヒットは間違いないでしょう。場内の観客はみんなめっちゃ泣いてたし(劇場売店でいろんなグッズがてんこ盛りで売られてたのにはドン引きしたけど)。
けど、この一本調子な表現では、山本さんご一家の運命がなぜこんなにも苛酷なのか、いまなぜこの物語を大作映画として世に送り出さなくてはならないかという意義は、どこからも響いてこない。

山本さんは満州で暮らしていた。日本が侵略し傀儡政権としてつくられた国で、この物語は始まったのだ。
にも関わらず、映画には中国人がまったく出てこない。
ご家族が引き揚げに苦労したらしいことはチラッとセリフには出てくるけど、その道程は決して日本が犯した罪とは無関係ではなかったはずだ。
そういう背景情報が、この映画からはきれいさっぱり削除されている。
気の毒で惨めで、それでも人間の尊厳をまもろうと命をかけた人の残酷な宿命だけが、お涙頂戴メロドラマとして淡々と展開していくだけだ。

日本の侵略がなければこのドラマはなかった。
それを排除して観客を感動させようという魂胆が白々しい。
残念だけど、その一言に尽きます。
申し訳ないけど。


関連レビュー
『この世界の片隅に』
『クラウディア 最後の手紙』蜂谷弥三郎著
『近衞家の太平洋戦争』近衞忠大・NHK「真珠湾への道」取材班著
『プリンス近衞殺人事件』V.A.アルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳

原作(これから読みます)