落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

どら焼きいかがですか

2017年01月29日 | movie
『あん』

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小さなどら焼き屋「どら春」の店長・千太郎(永瀬正敏)は、春のある日「雇ってほしい」と店を尋ねてきた老女・徳江(樹木希林)から渡されたあんこを食べて驚愕。高齢からとても雇えないといったん断った彼女の申し出をうけて、毎日あんをつくってもらうことにしたところたちまちその味が大評判になり、店頭には行列ができるほどになるのだが・・・。
ドリアン助川による同名小説を河瀬直美が映画化、カンヌ国際映画祭ほか世界各国の映画祭で高評価を得た。

実はあんこが苦手で。
あんこというか和菓子全般があまり好きではない。煎餅やあられなどのしょっぱいお菓子は好きなのだが、和菓子の砂糖の甘さがどうしてもちょっと苦手である。チョコレートなどの洋菓子はもともと好きなのだが砂糖を減らす生活をしているので、それもここしばらくほとんど口にしていない。日々の生活に必要な甘味はすべて、干し芋やみかんや黒糖の菓子でまかなっている。
それはそれで不自由なくても、映画を観ていてじぶんがあんこ好きでないことが心底悔やまれた。きっとあんこが好きな人、どら焼きが好きな人なら、よだれがでるくらいおいしそうに見えるんだろうなと。
なにしろそれほどうまそうなのだ。
焼きたてのほかほかの生地に挟まれた、しっとりと滑らかな徳江さんのあんこ。酒飲みの千太郎がおいしいというくらいだから、きっとさっぱりと甘すぎずそれでいてこくがあって、豆の香り豊かな、上品な味がするのだろう。

徳江は小豆にやさしく話しかけ、鍋のなかにのめりこむようにして小豆の「声」に耳を傾けながらあんこを炊く。
おもてなしだから、せっかくここまで来てくれたんだからと、自然の恵みを最大限にリスペクトする。時間はかかるが丁寧な彼女の仕事を、あんこも決して裏切らない。
最終的に、元ハンセン病患者だという噂が広まり彼女は店を去ってしまうのだが、いわれのない差別や偏見から彼女をまもれなかったと自分を責める千太郎に、彼女は自身のプライドを示してみせる。
50年間療養所の製菓部で和菓子をつくりつづけてきた彼女にも、ごく当然ながら彼女なりの人生があった。ただ差別され世間だけでなく家族からさえ疎まれ無視され、あるいは憐れみを買い同情されるばかりの人生ではない。確かにそういう面もあったけれど、そして彼女が憧れた自由にはほど遠かったけれど、それでも彼女は彼女なりの幸せをみつけ、誇り高く生きたのだ。
最後の最後に、彼女は千太郎に、彼にも彼なりのプライドを見出してこその幸せを、生きる価値をもつことの意味と豊かさを教える。甘党でもないのに悲しくつらそうな暗い顔をしてどら焼きを焼くよりも、自分なりに自分の仕事を尊い、いとしいと思える生き方の方がいい。
簡単にいってしまえば陳腐かもしれないけど、人を傷つけ自分をも傷つけて縮こまっていた千太郎にとって、徳江の思いは天啓のように響いたのではないだろうか。

永瀬正敏は一瞬誰かわからないくらいのなりきりようで、こんなにすばらしい演技をする人だということを失礼ながら改めて知った。他の作品だとなんか無駄に永瀬正敏臭さばっかり鼻についちゃってたんだよね。この作品では臑に傷もつ卑屈で無口な中年男を、微妙に色っぽく、どこかかわいらしく演じていて、千太郎というキャラクターを素直に好きになりました。
樹木希林は相変わらずものすごいです。完全無欠。画面にでてくるだけで拝みたくなるぐらい完璧。そしてやっぱりどっかかわいい。風に揺れる桜の梢に「手をふってる」といって不自由な両手をふりかえす笑顔が、ぎゅっと抱きしめたいような愛らしさに溢れている。
孫の内田伽羅が千太郎の店の常連客役で出演しているのだが、黙ってそこに座ってても常人でない存在感があるのに驚き。昨今流行りのいわゆる美少女といったタイプではないけど、さきざき楽しみですね。

ハンセン病については詳しくなかったのだが、上映後に元患者の森元美代治さんのトークセッションがあり、映画にも登場した全生園が一般に見学できることを初めて知ったので、是非行ってみたいと思う。
春の暖かくなった季節なんかどうかなあ。
原作も機会があったら読んでみたいです。

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終わらないジェノサイド

2017年01月29日 | movie
『女を修理する男』

かつてザイールと呼ばれていたコンゴ民主共和国。隣国ルワンダで起こった内戦の影響で流れ込んだツチ族を排除しようとしたことがきっかけで起こった紛争は内戦に拡大、以後東部で延々と続く混乱は紛争鉱物問題や少年兵問題だけでなく、深刻な戦時性暴力を生み出した。
ノーベル平和賞有力候補といわれる産婦人科医で人権活動家のデニ・ムクウェゲ医師を追ったドキュメンタリー。

去年来日もされましたね。ものすごい行きたかったんだけど都合つかず超残念だった。今回観られて満足です。
アフリカというとどうしても想像しがちなのが乾燥した砂漠地帯だけど、コンゴはアフリカ大陸の真ん中辺り、山が多くて緑豊かで天然資源も豊富な美しい国である。
だがその豊かさがコンゴの不幸だった。部族間の抗争にグローバライゼーションが火をつけ、伝染病のように暴力が暴力をうみ、社会秩序の崩壊がそれに拍車をかけた。
初めは隣国からやってきた兵士が始めた集団レイプが地域社会でも横行するようになり、呪術師が流布する迷信によって正当化されるようになる。傷つき、病んで命を落とすのは女性や子どもばかりである。襲われるのは若い女性だけではない。幼い子どもや乳児まで犠牲になる。それは性行為ですらない。紛れもない殺人である。

そうして傷ついた被害者の治療にあたり、精神的に支え、励ますのがムクウェゲ医師だ。
膣に穴が開いて直腸まで貫通している女性。性器に鋭利な刃物を押し込まれた女性。レイプされて妊娠し出産した女性。そうして生まれて、自身もレイプされる子ども。
国連人権賞やらヒラリー・クリントン賞やらサハロフ賞やら、国際的な賞をいくつも受賞しスピーチに登壇するたび、彼はコンゴの現状を必死に国際社会に訴えかける。この現実を知ってほしいと。
彼の言葉には怒りがこもっている。この暴力は紛争を見過ごし、犯罪者を見過ごし、女性蔑視を見過ごすすべての人間に責任があるのだと。はっきりとそう明言はしない。だが紳士的な物言いの裏に、燃えるような怒りが明確に聞き取れる。
その通り、西欧社会は完全にコンゴの内戦に背を向けている。そこに供給される武器と、コンゴでとれる地下鉱物がビジネスになるからだ。紛争状態にしておけば、コンゴの人々は自分たちが貧しいことにも文句はいわない。いくら搾取されようが、殺されるよりはましと考えてしまう。

ムクウェゲ医師は女性たちに問う。
レイプされ、深く身体と心を傷つけられ絶望する彼女たちに、どうして泣くのかと問う。
何もかも奪われたから、と答える女性に再び問う。何を。純潔。尊厳。
そして語りかける。ほんとうの純潔は、人間の尊厳はあなた自身の心のなかにあって、誰にも奪えないのだと。
コンゴやアフリカの地だけではない。世界中どこでもいつの時代でも、性暴力を受けた女性は皆、純潔と尊厳を奪われ、虐げられ続けている。それがどんなに理不尽であろうと、なぜか万国共通、傷もの、汚らわしいものとして人格を否定する差別行為が堂々と正当化される。家族ですら被害者を無視するのも同じだ。
ムクウェゲ医師が賞賛される勇敢さの真の価値は、医師である以前に、男性でありながら被害者の心に寄り添い、キリスト教徒として最も虐げられた存在のなかにこそ尊いものをはっきりと見定めた、どこまでも純粋に何をも恐れないまっすぐな自信にあるのではないかと思う。

言葉でいえば簡単なことだが、政府からも軍部からも脅迫され生命の危機に瀕していながら、毅然とした態度を貫く彼の姿勢に、コンゴの人々は励まされ、立ち上がり抵抗している。
コンゴに彼がいてよかったと思うと同時に、彼の無事を祈りたい。この美しい国はいまも暴力のなかにあり、社会秩序はまだ保たれないままなのだ。そのなかで市民の希望の星となり、世界的な有名人になった彼が、政府や軍部にとって嬉しい存在だとは思えない。
一日も早くコンゴに平和が訪れることを願う。
そして誰もが彼のように、ほんとうの純潔と尊厳は心のなかにあって他人には奪えないことを、信じられる世界が来ることを願う。

関連レビュー
『ホテル・ルワンダ』
『ルワンダの涙』
『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』 フィリップ・ゴーレイヴィッチ著 柳下毅一郎訳
『ウォー・ダンス』
『エゴイスト』
『ブラッド・ダイヤモンド』
その他アフリカ関連レビューリンク集
『サラエボの花』
『カルラのリスト』



目に見えない血

2017年01月29日 | movie
『ザ・トゥルー・コスト』

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2000年代から世界中で売られるようになったファッショナブルで安い服=ファストファッション。
労働依存度が高いこの産業にいまや4000万人が従事し、6人にひとりは何らかの形で関わるようになった一方で、2013年、バングラデシュで縫製工場のビルが崩落し1,127人の労働者が命を落とす大惨事を引き起こすなど、労働者の安全がまもられず搾取だけが拡大していく。
ファッション産業が支払おうとしない対価を、ほんとうは誰が払っているのかを描いたドキュメンタリー。

H&M(売上高世界第2位)にZARA(1位)にGAP(3位)にユニクロ(4位)、誰でも一着や二着はもってますよね。ワタシももってます。主に下着ですが。
とにかくこの十何年かで服は爆発的に安くなった。安くなればビンボー人は助かっていいじゃないかという話かもしれないが、問題の根本はそこではない。この作品はアメリカ映画なのでアメリカ視点なのだが、かの国ではパーティーごとに10ドル程度のドレスを買っては捨てるんだそうである。アホみたいな話である。にわかには信じられない。
ところがほんとうらしく、アメリカ人はひとりあたり年間37キロの服を捨てている。服は燃やされずに埋立て地に何年も残るか、リサイクルショップに持ち込まれパッキングされてより貧しい国に輸出される。輸出されたハイチではもう誰も服を新調しなくなり、縫製産業が壊滅した。

それだけ安くするためにリテーラーは徹底的にコストカットする。ブランド側は自前で工場をもたず、国外の工場に安く発注することで利益をしぼりとろうとする。バングラデシュや中国の縫製工場はブランドに搾取され、工場では労働者が搾取される。まともな賃金が支払われないだけではない。バングラデシュのラナ・プラザ崩落事故のわずか数日後に近隣の別の縫製工場で火災がありまた多数の犠牲者を出したのだが、これ以前にもすでに死亡事故が多発していた(ソース)ように、労働環境の安全管理という最低限の保障すらされていない。
労働者の安全ばかりではない。
アパレル産業はいまや石油産業に次ぐ環境汚染産業である。服をつくるのに必要不可欠な水は洗浄と染色で汚染され、そのまま生産国の河川に排出されている。飲み水も農業用水も汚れた地域の人たちはガンに冒され、子どもたちは先天性疾患をもって生まれてくる。
遺伝子組み換えコットン(Btコットン)を栽培し殺虫剤を大量散布する農家の人々もガンで亡くなっていく。Btコットンは殺虫剤になるタンパク質をつくる生物の遺伝子を組み込んであるのだが、このコットンが栽培されるようになってすぐ耐性のある害虫が発現し、生産者はいらなくなるはずの殺虫剤を大量に買う羽目に陥った。遺伝子組み換え作物は種子がとれないように操作され、とれたところで植えれば種子会社に告訴されてしまうので、毎年延々と種子会社から種を買わなくてはならない。
種子と殺虫剤と治療薬は同じ企業がつくって売っている。企業はもうかるばっかりである。その一方で、借金がふくらみ土地を奪われたインドの農家が相次いで自殺に追い込まれている(ソース)。

ほしくなればとにかく買えばいい、飽きたら捨てればいいという地獄のスパイラルのような大量消費社会のつけを払っているのは、ほしいものさえ買えず、働きながら親子いっしょに暮すこともできない他の国の人々である。
劇中のシンポジウムで追求されたH&Mの経営者の態度が象徴的である。適正な生活水準を保てる賃金を支払っているというが、それはいったいいくらなのかと尋ねられ、彼女は具体的な金額を答えることができなかった。しらないのではない。興味がないのだ。どうでもいいのだ。この産業を擁護する人々は「縫製は危険な仕事じゃない。ほかに厳しい産業はいくらもある」という。「確かにこの労働条件はアメリカでは厳しいかもしれない。でもあの国ではもっと厳しい他の仕事だってある」という。そんなの論理でもなんでもない。小学生レベルの言い訳ごときで納得してくれる人間が、世の中のどこにいると思っているのだろうか。
上映後のトークセッションでイギリスで最近施行された現代奴隷法について触れられていたが、この法律は簡単にいえば「イギリスでダメなことを海外でやってイギリスにもちこんじゃダメですよ」というルールなのだが、そんなもの人間としてごく当たり前のことでしかない。なんで国内でやっちゃいけないことを国外でやっていいと思えるのだろう。それはロジックですらない。ギミックでしかない。

一方で、こんなしくみを変えたいと別の方法で服をつくって売る企業も紹介される。ピープルツリーやパタゴニアである。彼らはシステムを変えるだけでなく、その重要性と価値を社会に発信してもいる。法整備をまっていては間に合わないからである。
たくさん販売店をつくる必要はないとピープルツリー代表のサフィアはいう。生産者がつくれるぶんをつくって売ればいいという。シンプルに当然の話なのに、どうしてそれが他の企業にできないのだろう。
ユニクロは労働搾取問題を人権団体に追求され、全サプライヤー公開に踏みきった。公開すれば社会の監視が届きやすくなり、違法な搾取はやりにくくなる。
胸が痛くなるような現実を変えるために、消費者はもっと賢くあらねばならない。劇中、縫製会社で働く23歳のシーマがいう。「服はわたしたちの血でできている。血でできた服なんか誰にも着てほしくない」。二度とラナ・プラザの悲劇を引き起こさないために、川を汚さない服を手にするために、公開された情報にもっと目を向け、レジで、お客様アンケートで、ものがいえる消費者になるべきなのだ。

まずは調査レポートはこのあたりから見られます。
中国国内ユニクロ下請け工場における労働環境調査報告書
デトックス・キャットウォーク ランキング

関連レビュー
『ゴモラ』
『女工哀歌』
『無用』
『いま ここにある風景』



The Return to Homs

2017年01月29日 | movie
『それでも僕は帰る』

2011年に始まった「アラブの春」以降、政府軍と反政府軍の争いが続くシリア。
サッカー選手だった19歳のバセットと、友人で市民カメラマンのオサマは故郷ホムスをまもる闘争に身を投じるが、それは終わりのない暴力の嵐の幕開けに過ぎなかった。
サンダンス映画祭2014ワールド・シネマ ドキュメンタリー部門グランプリ受賞。クラウドファンディングで日本でも公開。

ホムスは人口120万人を擁するシリア第三の大都市。紀元前まで起源を遡る古都で、首都ダマスカスとアレッポの中間に位置する。日本でいうと名古屋みたいなもんでしょうか。
そこが戦場になるわけです。
まだISがはいってくる前だから、そこで飛び交う弾丸の多くは政府軍のものだ。反政府勢力ったって人数にすればわずか数百人単位、資金は個人の寄付だから武器調達能力にも限界はあるし、組織力だってたかが知れている。
それを政府軍がボッコボコにやるわけです。文字通りボッコボッコのフルボッコ。容赦ない。

カメラはずっとバセットのそばにいて、ひたすら彼の日常をとらえ続ける。
デモ隊のなかにいてみんなで歌を歌っていたころの映像には誰もが見覚えがあるだろう。中東地域で火が燃え広がるように拡大した「アラブの春」の、自由をもとめる人々の希望と熱意に満ちた歌声。
それが銃撃され、銃弾はやがて砲撃に変わり、人々は町からいっせいに去っていった。大人も子どもも誰も彼もが、我が家を捨てて逃げた。残ったのは戦士と、逃げ場のない貧困層だけ。
120万人はどこにいったのか。難民である。ヨーロッパを大混乱に陥れ、いまも世界中でもっとも関心の高い政治問題のひとつとなった難民問題の現在の最大の契機が、このシリア内戦だ。それがいかにして起こったかが、よくわかる。
世に流布している難民問題でとりあげられるのは主に国外難民だが、国内に残った人たちはどんな人物なのか、そこで何が起こっていたのかを取材したのが、ほかならぬシリア人映像作家の手で撮られたこの作品だ。

歴史ある美しい町が、画面のなかで見る間に破壊されていく。
破壊なんて生易しいもんやないな。壊滅?とにかくムチャクチャになる。
こちらは去年公開された映像。


2016 Drone Aerial from Homs, Syria from Mohamad Hafez on Vimeo.


ここに120万人が住んでいた。それを、政府軍は徹底的に破壊しつくした。
劇中、最初は夜、クルマでヘッドライトを点けずに移動(ものすごく怖い)していたバセットが、道路はもう危険だからと破壊され無人となった家から家へ、壁に開いた穴づたいに移動していく長いシークエンスがある。数えきれない家々の、瓦礫に埋もれ焼け焦げた家具調度やファブリックや日用品に、そこで暮していた人々の面影が濃く重なる。彼ら自身はそこに映ってはいない。だが、長い年月、愛する家族と人生を過ごしたであろう我が家をこんな形で追われた彼らの心中を思うと、その荒廃ぶりにただただ胸が痛む。
ここに、人が住んでたのに。でももう彼らはいない。どこかに行ってしまった。もしくは死んでしまったのだ。

画面のなかでもどんどん人が死んでいく。
さっきまでそこで笑ってた人が、次に映るときはもう動かない遺体になっている。なのに悲しむヒマすらない。
カリスマ的な人気を集めたバセットの周りの市民兵たちも減っていく。それでも彼は戦い続ける。彼らのために食糧を調達しようとした人たちも死ぬ。オサマは政府軍につかまって消息を絶つ。
バセットも何度も怪我をする。サッカー人生は断たれてしまった。彼に残されたものもわずかになっていく。20歳そこそこでもさすがに疲れを口にする。戦闘中、ケータイに親族から電話がかかってくる。誰かの名前を口にして、「あいつなら死んだよ」と告げて電話を切る。
内戦の前線の日常。反政府軍という言葉では顔の見えない、ごくふつうの若者の顔。覆面もスカーフもない、アルファベットのロゴの入ったTシャツを着てジーンズにブーツ姿の、どこにでもいるようなかわいい男の子。
そこに正義は見えない。見えるのは「故郷をまもりたい」という正義感と大義名分だ。その背後に見えるのはもうムチャクチャになってしまった故郷の風景。
バセット個人にフォーカスすることで、そこに不在のシリアのふつうの人たちの声が、心の中から聞こえてくる。この戦争はいったい誰のための戦争なのかと。

イスラム国といえど西欧に近くさして宗教色の強くないシリアの内戦は、民族紛争でも宗教対立でもない。
この映画の時点(2011〜12年)では独裁政権とそれをゆるさない市民との衝突でしかなかったのが、国外から入り込んだISをはじめとするさまざまな勢力の介入によって泥沼と化していった。
いったん包囲網を出たバセットが、まだ残っている人たちがいるからと市内に戻ろうとするところで映画は終わるが、その後ホムスは陥落、停戦によって孤立した市民は避難し2014年に市街戦が終結した。この闘いで亡くなった人は2,000人をこえる。
オサマもバセットも、インターネットを通じて必死に世界にここで起きていることを発信し続けていた。その国際社会が、彼らに何ができただろうか。
観終わって、疑問ばかり残ってしまった。シリアのことを、もっと知りたい。知りたいです。わかりたいです。


関連記事
トークイベント「シリアを知ろう」



闇を見る目

2017年01月22日 | movie
『ブラインド・マッサージ』

南京でマッサージ治療院を営む沙(秦昊チン・ハオ)のもとに、同級生の王(郭暁冬グオ・シャオトン)が雇ってほしいと恋人の孔(張磊チャン・レイ)をつれて引っ越してくる。都紅(梅婷メイ・ティン)や小馬(黄軒ホアン・シュエン)など他のマッサージ師たちと寮で共同生活をすることになるふたりだが、やがて王の弟に借金があることが判明、家族のもとに取り立て屋が押しかけてくるようになる。美貌で指名客を得た都紅の評判に、院長の沙は自分の目には見えない彼女の美しさの虜になるのだが、自らの容貌を知ることのない彼女はただ困惑するだけだった。
『パープル・バタフライ』『天安門、恋人たち』『スプリング・フィーバー(旧題:春風沈酔の夜)』の婁[火華](ロウ・イエ)監督の2014年の作品。

上映時間115分、長かった・・・。
物語は少年時代の交通事故で視力を失った小馬のエピソードからスタートする。光がぼやけ、かすみ、暗闇に落ちていく過程を映像で表現したシーンを導入に、視覚障害者独自の感覚が繊細に再現される。目で映画を鑑賞している観客の視覚障害感覚の追体験が題材になっているため、過剰に情緒的かつ感覚的なエピソードが緻密にかつ複雑に積み重ねられる。なにしろ映画は“映像”と音でできていて、見えない感覚を画面でそのまま再現するわけではない。ときおり画面の露出が急に上がったり下がったり、フォーカスがズレたりゆがんだりするトリッキーなシーンがアクセントとして差し挟まれはするが、この作品全体においてはそうした視覚的要素はごく一部分でしかない。
それよりも、視覚以外の触覚や嗅覚・聴覚など他の感覚に鋭敏で、人によっては視覚そのものの存在自体を体験したことがなく想像することもできない登場人物たち同士にしか共有できない価値観を、論理ではなく彼らの生き方によって表現している。
だから2時間弱なのに要素めっちゃてんこもりっす。もりっもり。

ナレーションで、「視覚障害者にとって健常者は別の動物」というくだりがある。
障害があっても少数者であっても人間は同じ人間、平等だという一般論は誰にでも当たり前に口にできる簡単な美辞麗句だが、事実はそうではない。
人間は平等ではないし、障害がある、少数者であることだけでなく、人間には皆それぞれに違う感覚と価値観がある。重要なのはそれをうけいれゆるし、むかいあって共存することであって、互いの差異をないものとして無視するのはむしろ差別だ。
この物語のものすごいところは、マッサージ店で働く視覚障害者たちのどこが健常者と違っているのか、視覚障害者にもそれぞれに視覚を失った経緯も症状も異なり、全員の感覚や価値観も一様ではないことを、ひたすら生々しく激しくくどく追求している点である。
そりゃもう生々しいです。激しいです。くどいです。観てて若干疲れます。ちょこちょこ観てられないシーンすらある。それでもそこまでして差異のディテールを明確にすることで、人間性の根源的な普遍性がよりストレートに伝わってくる。究極の逆説表現です。
個人的に知る限りでは、こんな表現にトライした映画はいままで他になかったんじゃないかと思います。文字通り唯一無二の作品ではないかなと。

大好きな婁[火華]作品、前作の『パリ、ただよう花』を観逃したのが悔しかったので、今作は観れてほんとによかったです。
秦昊は『スプリング・フィーバー』でセクシーなゲイを演じてた彼ですね。もうまるっきりぜんぜん違う人物造形に若干ショック。というかこの映画、けっこうなスターがボロボロ出てるけど、全員本気で視覚障害者にしか見えないぐらい気合いはまった演技で畏れ入る。これ演技派ばっかり集まっちゃって、誰がいちばんホンモノっぽいかお互いぐいぐい攻め込みあってるよね。たぶん。それぐらい容赦ない熱演です。熱過ぎて微妙に観客置いてかれます。いいけどね。いいけどさ。
とはいえできあがった作品は疑いようのない大傑作。映画が好きなら、間違いなく絶対観ておくべき映画のひとつだと思います。

物語自体すごくおもしろかったんだけど字幕が短過ぎてわかりにくいところもあったので、原作も是非読んでみたいです。

関連レビュー
『ブラインドサイト〜小さな登山者たち〜』
『Show The BLACKⅡ イウ コエ オト』



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