『関心領域』
原作本
ヘートヴィヒ・ヘス(ザンドラ・ヒュラー)は夫の任地ポーランドで新しい家を手に入れた。彼女はその庭に木を植え、花を植え、プールや温室を建て、理想の家を築き上げた。
彼女の理想の館の塀の向こうからは、時折、悲鳴や銃声が聞こえ、煙突からは絶えず煙がたなびいていたが、家族も子どもたちも、犬さえも、毛ほどの関心を払うことがなかった。
アウシュビッツ−ビルケナウ収容所を訪れたのは5年前の今頃ことだ。
詳しくはそのとき書いた記事(こちら)を参照していただくのが早いかと思うが、年月を経ていまも思うのは、人間は一度道を踏み外したら想像を超えてとことんまで残虐になれる、その事実を証明する場所こそ、あの絶滅収容所だということだ。それを最も如実に感じたのが、収容所とともに残されているヘスの邸宅を目にしたときだった。ごく平凡な、普通の家だった。
このことを知るために、できるだけ多くの人に彼の地を訪れてほしいと、切に願っている。
映画にはこれといって取り立ててストーリーはない。
アウシュビッツの所長・ヘス(クリスティアン・フリーデル)の妻や子どもたちや家に出入りする雇人や友人、親族たちとの日常生活がごく淡々と綴られる。
川沿いでピクニックをする。食事をしたり、子どもたちを集めてプールで水遊びをする。花や樹木の世話をする。犬と遊ぶ。
でもその背景、家のすぐ向こう側には、私が5年前に目に焼き付けたアウシュビッツの建物や鉄条網がいつも見える。巨大な焼却炉の唸るような稼働音が低く響いている。
彼らは収容所のことを無視しているわけではない。
劇中では、ヘートヴィヒや友人たちがユダヤ人たちから取り上げた衣類やジュエリーを山分けするシーンがある。その様子は無邪気そのもので、子どもたちがおやつを分け合う仕草と何ら変わりはない。ヘートヴィヒが豪奢な毛皮のロングコートを試着して鏡をためつすがめつ眺める様子には心底ぞっとした。
彼らはごくナチュラルにユダヤ人を人だと思っていないのだ。殺されて当たり前。宝石や毛皮なんか持ってたって仕方がない。それを収奪することに罪の意識など微塵も感じていないのだ。
言葉にしてしまえば恐ろしいことだけど、画面を見ていれば、彼らと自分とがそう違わないことに思い当たる。そして寒気がする。
家の隣ではないけれど、世界ではいまこの瞬間にも戦争が続いていて、民族浄化が行われている。恐怖に苛まれ命を脅かされている人たちがいる。遠く離れ募金ぐらいしかできることのない私たちと、ユダヤ人が生活用品の中に隠していたダイヤモンドをほじくり出すヘートヴィヒたちと、どれほどの隔たりがあるだろうか。
ヘスが転属になりアウシュビッツを去ることになったとき、ヘートヴィヒは自ら築いた理想の館から離れることを断固拒否し、夫に単身赴任を強制する。
毎日数千という人が殺される収容所の隣で暮らすことに「満足」し幸福を享受していられる心理に共感するのは難しい。
だけどきっとそれは彼女が特異だからなのではないのだろう。
ただ、画面を見ている私自身が、彼女と自分とは違うと、思いたいだけなのではないだろうか。
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